オーストリア=ハンガリー二重帝国とは?歴史年表まとめ【成立から崩壊まで詳しく紹介】

オーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史年表

1867年 – 「オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立」

オーストリア=ハンガリー二重帝国の国旗

1867年、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合として、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しました。中世の時代より西ヨーロッパに君臨していた神聖ローマ帝国が19世紀初頭に崩壊。そして、新たにオーストリア帝国が誕生しましたが、その後に発生したイタリア統一戦争や仏墺戦争で敗北し、外交においてもロシア帝国との関係が悪化するなど、オーストリア帝国の国際的な地位は下落していきます。

これを受けて、多民族国家であるオーストリア帝国内では、諸民族による自治や権利を獲得するための運動が活発化し始めました。その結果、当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とのアウスグライヒによって、オーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させたのです。

1873年 – 「三帝同盟の成立」

1873年、オーストリア=ハンガリー二重帝国とドイツ帝国、ロシア帝国の3か国間において、三帝同盟が成立しました。この同盟は、ドイツ帝国の首相であるオットー・フォン・ビスマルクによって築かれたビスマルク体制の一端を担ったのです。

ドイツ帝国の首相オットー・フォン・ビスマルク

ビスマルク体制とは、フランスに対して包囲網を敷くことで孤立させることを目的としたドイツ帝国の外交政策です。ビスマルクの卓越した外交手腕によって維持されたこの体制は成功を収め、その治世の間はヨーロッパに平和が訪れることとなります。

皇帝の称号を持つ君主が治める三大国の同盟は、この体制の中で非常に重要な意味を持っていました。しかし、オーストリア=ハンガリー二重帝国とロシア帝国がバルカン半島を巡って対立した結果、三帝同盟はわずか数年で事実上の解消となってしまいます。

その後、1879年にドイツ帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国と独墺同盟を成立させますが、その影響を受けてドイツ帝国とロシア帝国の関係は悪化していくことになるのです。

1882年 – 「三国同盟の成立」

三国同盟(赤)
出典:Wikipedia

1882年に成立した三国同盟とは、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国、そしてイタリア王国の3か国によって築かれた秘密軍事同盟です。

この同盟もビスマルク体制の一環であり、フランスの包囲と孤立が目的にありました。また、ビスマルクはロシア帝国との関係も修復し、三帝同盟の復活を目指したのです。しかし、ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国間のバルカン問題も同時に再燃。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国の対立はさらに深刻化していったのです。

その後、ドイツ帝国を中心とした国々の動きを警戒したイギリスは、フランスとロシア帝国と共に三国協商を結成します。その結果、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、イタリア王国による三国同盟は、イギリス、フランス、ロシア帝国の三国協商に対抗するという意図が大きくなっていきました。

1912年 – 「2度にわたるバルカン戦争」

「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の民族構成地図

1912年、オーストリア=ハンガリー二重帝国が支援するオスマン帝国とバルカン同盟によるバルカン戦争が発生します。当時のバルカン半島は、その複雑な情勢から「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。

1878年にビスマルクの調停によって開かれたベルリン会議において、パン=ゲルマン主義を掲げていたオーストリア=ハンガリー二重帝国がボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得し、1908年に併合します。これに反発したのはパン=スラブ主義を掲げていたロシア帝国とスラブ系民族であるセルビアでした。

その後、ロシア帝国の支援のもとでスラブ系諸国が結集し、バルカン同盟を築きます。そして、オスマン帝国内で発生していた青年トルコ革命の混乱に乗じて、バルカン同盟は弱体化しつつあったオスマン帝国に宣戦布告。最終的にバルカン同盟の勝利に終わりますが、オスマン帝国から割譲した分割領土を巡ってバルカン同盟内で争いが発生し、第二次バルカン戦争に発展しました。

このような形でバルカン半島を舞台に起きた一連の騒動をバルカン問題と呼びます。バルカン半島内では内部の諸国だけでなく、その利権を争う帝国主義列強の対立関係が交差し、第二次バルカン戦争が終結した後も各国間に領土問題が残り続けたのです。

1914年 – 「第一次世界大戦勃発」

サラエヴォ事件の犯人ガヴリロ・プリンツィプが逮捕される瞬間の写真

1914年、サラエヴォ事件が発生したことをきっかけに、ヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦が勃発しました。

当時、オーストリア=ハンガリー二重帝国が併合したボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人が多く住んでおり、南部のセルビア王国への帰属を望む声が強くありました。また、イスラム教徒も多く国内に居住しており、彼らはオスマン帝国への帰属を望んでいたのです。様々な民族が入り乱れた結果、国内におけるオーストリア政府への反感は非常に高まっていました。

そして、サラエヴォ事件が発生します。オーストリア=ハンガリー二重帝国はセルビアと開戦。その間に同盟国であるドイツ帝国がロシア帝国に圧力をかけて動きを封じようとしましたが、結局ロシア帝国はセルビアの支援にまわり、オーストリア=ハンガリー二重帝国と開戦しました。その後、ドイツ帝国とロシア帝国が戦争状態に突入し、ロシア帝国と三国協商関係にあったイギリス、フランスも参戦します。

最終的に、第一次世界大戦はイタリアを除く三国同盟と三国協商による対立構造となりました。このようにして開始された第一次世界大戦では、かつてない総力戦が繰り広げられ、1918年の休戦協定まで続くことになります。

1918年 – 「オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊」

1918年、オーストリア=ハンガリー二重帝国が第一次世界大戦における敗戦国となることが決定的となった後、帝国内の諸民族が次々と独立を宣言した結果、ハプスブルク家が代々君臨し続けてきたオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊の時を迎えました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国が第一次世界大戦の停戦協定を結ぶ中で、チェコスロヴァキア共和国、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラヴィアが独立を宣言。これによってオーストリア=ハンガリー二重帝国は解体され、オーストリア=ハプスブルク家の最後の皇帝であるカール1世はスイスへ亡命し、長年続いたハプスブルク帝国は消滅しました。

その後、サン=ジェルマン条約によってドイツとの併合を禁止されたオーストリアは共和制国家として再出発しますが、戦後の飢餓と賠償に苦しむことになります。

オーストリア共和国の国章

オーストリア=ハンガリー二重帝国に関するまとめ

今回はオーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について解説しました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国は、ハプスブルク家の君主が統治した最後の帝国であり、第一次世界大戦後に解体されます。そして共和制国家として再スタートし、現在に至るのです。

この記事ではオーストリア=ハンガリー二重帝国の歴史について成立から崩壊まで紹介しましたが、前身である神聖ローマ帝国やオーストリア帝国の歴史について詳しく調べてみるのも面白いでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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