尾崎紅葉は明治時代の訪れる直前に生まれ、明治時代に活躍した日本の代表的な小説家です。そのため、学校の授業ではよく登場します。
紅葉は明治という新しい時代にふさわしい小説の形を見つけるために、数々の工夫を試みました。私たちは現在、小説を読んで感情移入をして、物語の世界に浸って楽しみますが、それができるのは紅葉のおかげと言っても良いでしょう。
紅葉は昔ながらの書き言葉(いわゆる古典の文章のことで、これを文語体といいます)の良さを活かしながら、会話には普段の話し言葉(これを口語体と言います)を使い、生き生きとした物語を作ることに成功しました。今でも楽しみに読んでいる人が多い新聞小説でも紅葉は先駆者でした。
口語体と文語体の対比が美しいと評判を呼んだ紅葉の小説は、新聞に掲載されることで一層人気となり、人気が出たことでさらに磨きがかかり、発展していきます。こうして数々の名作が生まれますが、中でも「金色夜叉」は不朽の名作として今でも世の中の人たちに愛されています。
また、紅葉は名作を生み出しただけではなく、後進の育成にも熱心に取り組みました。決して長命とはいえませんでしたが、彼は20代の若さで弟子を取り、日本の文学界の支えとなる人物を育てたのです。
今回は紅葉の功績や都市伝説、年表をたどりながら、彼が金色夜叉を生み出すまでの軌跡を紹介します。文学史で学んだのとは、また別の紅葉が見えてくるかもしれませんよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
尾崎紅葉とはどんな人物か
名前 | 尾崎紅葉(本名 徳太郎) |
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誕生日 | 1868年1月10日 |
没日 | 1903年10月30日 |
生地 | 江戸芝中門前町 |
没地 | 東京府東京市牛込区横寺町 |
配偶者 | 樺島喜久 |
埋葬場所 | 青山霊園 |
尾崎紅葉の生涯をハイライト
1868年、まだ江戸と呼ばれていた現在の港区芝大門で紅葉は生まれました。父は幇間という宴席で芸を見せ、場を盛り上げる職業に付きながら、根付(現在のストラップのようなもの)を作る職人でもありました。幼くして母が亡くなったために、紅葉は母方の祖父母に育てられます。
紅葉はせっかく入学した中学(今の高校に当たる)を中退してしまいましたが、漢学、漢詩に英語を学んで大学入試に備えました。無事に東京帝国大学(現在の東京大学)の予備門に入学する紅葉ですが、同時に創作の楽しさを知ることになります。
大学入学後には硯友社を結成、雑誌「我楽多文庫」を発行し、掲載された小説で注目を集めました。その後は読売新聞に入社、小説を次々と発表して新聞に掲載したため、一躍人気作家となります。
若くして人気作家となった紅葉は、20代で弟子を取り、泉鏡花のような日本の文学界を支える人物を育てるのです。
しかし忙しく執筆をする生活がいつしか紅葉には負担になっていたのかもしれません。代表作「金色夜叉」の執筆中に体調を崩してしまいます。1度は回復したかに思えましたが、「金色夜叉」の続編を連載し始めると、今度は胃がんが発覚します。結局連載は中断となり、1903年に自宅で亡くなりますが、まだ35歳という若さでした。
尾崎紅葉の誕生
現在の東京都港区芝大門に生まれた紅葉。父の名前は尾崎谷斎(おざきこくさい)と言いました。根付を作る職人として知られている人物で、谷斎彫りと呼ばれる独特な作風で人気を呼んでいたそうですが、幇間という職業を兼ねるなど、変わり種でもありました。
紅葉が4歳のときに母が亡くなったため、母方の祖父母に育てられることになります。父はその後、平井とくと再婚します。父の職業を恥ずかしがっていて、その存在までを隠そうとしていた紅葉でしたが、再婚したとく(つまり継母)とは上手くいっていたようです。墓にきちんと「紅葉母とく」と刻まれているのがその証拠でしょう。
大切に育てられた紅葉は、後に現在の日比谷高校に進学します。同級生には同時代に小説家として活躍する幸田露伴がいました。高校は中退してしまいますが、漢学に漢詩、英語まで学んで、大学入試に備え、無事に現在の東京大学に入学します。
すごかった!尾崎紅葉の大学時代
東大に入学した紅葉が、勉学以上に熱中していたのが詩作でした。これが高じて硯友社を結成、子どものときからの友人だった山田美妙らと雑誌「我楽多文庫」を発行することになります。我楽多文庫は近代の日本で最初の文芸雑誌、同人誌の先駆けと言われています。
紅葉自身が我楽多文庫に掲載された小説「風流京人形」で世間から注目されるわけですが、山田美妙も「嘲戒小説天狗」を発表。好評を得て、人気作家の仲間入りをします。文語体にとらわれない小説は斬新で当時の人々の心を捉えました。我楽多文庫は当時の日本の文学界を引っ張る存在だったのです。
また、紅葉は大学在学中にも関わらず、読売新聞社にも入社して、小説発表の格好の舞台を獲得しました。今から考えても紅葉は、かなりマルチに活躍した大学生でした。結局、紅葉は東大も中退してしまいますが、大学生という立場に満足できなくなったのでしょう。
紅葉の傑作の数々「金色夜叉」の誕生まで
紅葉は読売新聞に「伽羅枕」、「三人妻」などを連載して、人気作家となりました。
実話をもとにして作られた「伽羅枕」は遊女・左太夫の一代記です。かつて吉原の遊女だったという老女に紅葉が直接取材をした作品は当時としては斬新だったことでしょう。
三人の妾と本妻の合わせて4人の女性と関係があった男性の物語「三人妻」では、男女関係の本質をグサリと突いています。その後に発表されたのが「二人女房」で、美しい姉とそうでもない妹の結婚がテーマになっています。この作品で、紅葉は話し言葉だけで小説を完成させるという先駆者としての面も見せています。
こうして数々の人気作品を生み出した紅葉は、ついに1897年に「金色夜叉」の連載を始めます。熱海には主人公2人の像が建てられ、映画化、ドラマ化も数え切れない作品です。金の力で恋が壊れるところから始まる物語は、日清戦争後の社会にピタリとはまって人々に大いにウケたと言います。これは現在も決して無視できない物語です。
蝕まれた健康・尾崎紅葉の死因
もともと病弱だった紅葉。長期連載で彼の身体は悲鳴をあげてしまったようです。読売新聞社に籍を置いていた紅葉でしたが、作品を量産できるわけではありませんでした。
書けないでいると会社からは遠回しに月給を払っているのだからと責められ、読者からは紅葉は新聞社を辞めたのかと問い合わせが来そうです。そんな状況が紅葉の神経を蝕み、ついには健康も損なってしまったのかもしれません。1899年から健康を害したと伝わっており、このときは栃木県の塩原や静岡県の修善寺で転地療養が行われました。
しかし、1903年に金色夜叉の続編を連載し始めると今度は胃がんが発覚します。それは3月に診断を受けて、10月にはこの世を去るというあっという間の出来事でした。