尾崎紅葉とはどんな人?生涯年表まとめ【功績や代表作、死因について詳しく紹介】

尾崎紅葉の年表

1868年 – 0歳「尾崎紅葉、誕生」

1984年に作られた紅葉谷・紅葉山はこのすぐ近く

紅葉は江戸時代の生まれ

明治時代は1868年から始まったと歴史の授業で学んだ人も多いでしょう。紅葉も明治生まれのように思えますが、明治5年まで日本は現在のような太陽暦ではなく、太陰暦を使っていました。

現在の暦で紅葉は1868年1月10日生まれになりますが、太陰暦では慶應3年12月16日生まれということになり、江戸時代の生まれということになるのです。まさに時代の変わり目に生まれた紅葉は、新しい小説を作り出すのにふさわしい人物だったのでしょう。

現在の港区芝大門で生まれた紅葉は、幼くして母を亡くし、母方の祖父母に育てられますが、その祖父母の家も同じ地域にありました。生まれ育った土地への愛着は強く、紅葉という名前はやはり港区芝公園にある増上寺の紅葉山から取ったものです。彼の本名は徳太郎と言いますが、私たちにとっては紅葉の方がしっくり来るように思われます。

紅葉に学費の援助をしたのは?

紅葉は祖父母に育てられ、学校にも通うことができました。しかし祖父母や父の力だけでは無理だったようで、学費の援助をある親戚に頼りました。それが紅葉の母の姉(つまり紅葉の伯母)の嫁ぎ先、横尾家でした。

伯母の夫は横尾平太といい、新潟で税務署長をしていました。紅葉と横尾家のつながりはこれだけではなく、後に紅葉の三女・三千代が横尾平太の養子・石夫と結婚しています。

横尾家の力添えがあったからこそ、紅葉は十分な準備をして受験に望むことができ、東大に合格することができたのです。結果的には中退をしてしまいましたが、存分な勉強がすべて執筆の役に立ったといっても良いでしょう。

1883年 – 15歳「東大に入学」

明治時代の東京大学

勉学よりも夢中になったのは?

無事に東大に入学した紅葉は、さらに深く創作活動にのめり込んでいきます。そして仲間とともに硯友社を結成、我楽多文庫を発行します。

我楽多文庫で紅葉は小説家として注目されましたが、さらに読売新聞社に入社して、新聞に自らの小説を掲載し、人々の心を捉えていきます。ちょうど小説は文語体から口語体へと変化を遂げてようとしていました。

明治になるまでの日本では話し言葉と書き言葉は別のものでした。話し言葉のままで文章を書くなどとはありえないことだったのです。

そのありえないことをやってのけたのが、明治に活躍した小説家たちでした。彼らが作り出したのが言文一致体と呼ばれるもので、現在の私たちが読んでいる小説などの原型となりました。紅葉はその先駆者たちの中でも、第一人者だと言っても良い存在でした。

明治の文豪にはよくあった?新聞社への入社

紅葉が大学在学中に読売新聞社に入社したのは、記者としてではなく、小説を書くためでした。新聞社は売上を伸ばすために、人気のある小説家を独占したかったのでしょう。紅葉だけでなく、坪内逍遥や幸田露伴、二葉亭四迷、夏目漱石、芥川龍之介などが新聞社の社員になっています。

しかし、入社したからといって、小説がコンスタントに書けるわけではありません。紅葉も書けないことに苦しんだことがあったようですが、その苦しみを新聞社ではわかってもらえませんでした。原稿が遅れると月給を支払っているのに怠けていると取られてしまい、紅葉は精神的に追い詰められてしまったのかもしれません。

紅葉と読売新聞社はお互いにすれ違ってしまいました。1902年には紅葉は読売新聞社を退社。心機一転して二六新報に入社して、翌年には「金色夜叉」の続編を書き始めますが、すでに彼の身体は取り返しのつかないことになっていました。

1891年 – 23歳「尾崎紅葉、結婚する」

紅葉と喜久、幼なじみ同士の結婚だった

紅葉の妻とは?

紅葉が結婚したのは、樺島喜久といい、父は漢方医をしていたそうです。東京都港区芝浜松町の屋敷で育ったために、紅葉とは幼い頃からの顔なじみでした。結婚した時、紅葉はすでに売れっ子の小説家でしたが、結婚して12年で紅葉が亡くなったため、収入は途絶えてしまいました。

紅葉との間には4人の子どもが生まれましたが、第2次世界大戦中はその子どもたちとともに苦しい生活を送ったということです。

このときは小説家の菊池寛が呼びかけて、全国から生活資金が集められました。また、昭和28年に病床にいた喜久のために、志賀直哉たちが見舞金を送ったということですが、程なく喜久は亡くなってしまいます。日本に名だたる有名な小説家と結婚した喜久でしたが、夫に先立たれ苦労の多い人生を送ったのです。

結婚後の紅葉

紅葉は結婚の翌年には「二人女房」を発表します。この作品では話し言葉で小説を書くことに挑戦、新しい境地を切り開きます。その後も源氏物語から着想を得た「多情多恨」、一番の代表作となる「金色夜叉」など、多作と言えないまでも充実した創作活動をしていたようです。

また、4人の子ども(1人は早逝)にも恵まれた紅葉、健康は徐々に蝕まれつつありましたが、幸せも感じていたのではないでしょうか。1899年には「金色夜叉」の連載で健康を害したと伝わっていますが、このときは医師に煙霞療法(えんかりょうほう)を進められたそうです。これは、自然の中で伸び伸びと過ごすのが治療法だという意味なので、やはり紅葉は精神的な不調を抱えていたと思われます。

このときは栃木県の塩原の他に新潟県の佐渡にも渡り、療養生活を送ります。佐渡では芸妓との間にロマンスが芽生えたそうですから、まだまだ元気だったことがわかります。

1903年 – 35歳「尾崎紅葉、胃がんが発覚」

最初はストレスだと思っていたのかも…

読売新聞社の退社

1899年に塩原と新潟で療養生活を送った紅葉でしたが、1901年には修善寺で再び療養生活を送ることになります。「金色夜叉」の執筆で出社がままならなくなった紅葉と新聞社の関係は、あまり良くなかったようです。

お互いの行き違いから、両者の関係には亀裂が入ったのでしょうか。ついに1902年には紅葉は読売新聞社を退社、二六新報という新聞社に入社をしています。

心機一転した紅葉は1903年に「金色夜叉」の続編を連載し始めますが、今度は胃がんが発覚します。連載を中断して療養しましたが、同じ年の10月に紅葉は自宅でこの世を去ります。紅葉は35歳、次男の夏彦はまだ2歳という幼さでした。

「金色夜叉」の独り歩き?

紅葉の小説は当時は画期的で斬新なものでした。会話が話し言葉と言うだけで、明治時代の人には新鮮だったのでしょう。しかし、口語体での小説が一般的になると、次第に紅葉の小説は古くて読みにくい過去のものになっていったのです。

ところが、紅葉の死で未完のままとなった「金色夜叉」は昭和に入ってから映画化、ドラマ化されるようになります。現代になっても、尾崎紅葉の名前と「金色夜叉」の貫一お宮の名前だけは知っている人が多いでしょう。舞台となった熱海には貫一お宮の像が建ち、毎年「紅葉祭」が行われています。

人間の本質(この場合は金が絡んだときの人間の愛憎)は、どんな時代でも変わらないために、「金色夜叉」はいつまでも色褪せずに、私たちの心を捉え続けているようです。人間としての紅葉は亡くなりましたが、「金色夜叉」がある限り、私たちの中からいなくなることはないでしょう。

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金色夜叉

紅葉の代表作です。お宮は金に目がくらんで貫一を捨てて他の男と結婚するわけですが、そこに幸せはありません。人が生きるときに、何が大切なのかを考えさせられます。そしてひどい目にあった貫一を見ていると、許すということの大切さも実感できると思います。

三人妻

本妻と三人の妾の話と聞いて、男性本位の物語を想像する人もいるかも知れませんが、決してそれだけではありません。結果として男は女を衰えさせる原因になっている、などと書いてあるのには、思わず現代の私たちも納得できます。物事の本質は決して時代で変わらないということがわかる作品です。

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尾崎紅葉についてのまとめ

尾崎紅葉の功績や都市伝説とともに、年表を振り返ってその人生を紹介してきました。授業で教わっただけではわからなかった紅葉の魅力を実感できたのではないでしょうか。

私たちが現在、小説を楽しめるのは紅葉たち、明治の小説家の努力によるものだと思うと、一度基本に立ち返って、紅葉の作品の数々を味わってみたくなります。

最近の小説に比べると、最初は読みにくいと感じるかもしれません。しかし、そこには文章の気品のようなものがあるように思われてなりません。また、物事の本質は時代によって左右されないということもよくわかるのが紅葉の作品です。私はこれからも大切に紅葉の作品を読みついでいきたいと思います。

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