尾崎紅葉とはどんな人?生涯年表まとめ【功績や代表作、死因について詳しく紹介】

尾崎紅葉の功績

功績1「日本初の文芸雑誌を作った紅葉」

今私たちが小説を楽しめるのは紅葉の力のおかげかもしれない

紅葉が大学時代に作った雑誌「我楽多文庫」。日本初の文芸雑誌と言われていますが、最初はあくまでも社内で楽しむためで、手書きのものでした。それが好評を得て印刷されるようになり、ついには販売されることになったのです。

そして「風流京人形」が掲載されることで、紅葉は小説家として注目を浴びることになりました。この作品には、小説を書こうとしている女学生の会話が話し言葉そのままに生き生きと書かれています。文語体の読み物しか知らなかった当時の読者にとっては、かなり斬新だったはずです。

しかしともに硯友社を結成し、我楽多文庫を作り上げた友人・山田美妙は風流京人形が連載された年に、「都之花」という新雑誌に編集責任者として迎えられることになり、紅葉とは違う道を進むことになりました。

功績2「紅葉の新しい挑戦・雅俗折衷体から言文一致体へ」

わかりやすい小説は誰でも楽しめるものになった

我楽多文庫を発行していた吉岡書店が新しく小説の描き下ろしシリーズを刊行することになり、その第1作となったのが紅葉の「二人比丘尼 色懺悔」でした。戦国時代に偶然にも1人の若武者を愛して、尼となった2人の女性の物語です。

このとき物語で登場人物の会話の部分は、私たちが普段話す言葉のままの口語体でしたが、それ以外は私たちにとっては古文でおなじみの文語体で進められました。これは「雅俗折衷体」と呼ばれ、当時の最先端の文学と言われるようになったのです。

会話以外が文語体であることによって、より一層会話が生き生きと感じられるのが、紅葉の作品の魅力となったのです。それは年を追うごとに磨かれていきました。21歳の青年の作品が多くの人々に影響を与えたのです。

晩年の紅葉は雅俗折衷体をさらにわかりやすく、誰でも楽しめるように改良を重ねます。それは会話だけでなく、地の文もすべて話し言葉を取り入れて書くというものでした。これが「言文一致体」と呼ばれるものです。

功績3「20代で弟子を取る!後進の育成に務めた紅葉 」

紅葉の弟子の筆頭は泉鏡花だろう

紅葉は20代で弟子を取り、早くから後進の育成に努めました。その中で代表的な存在だったのは泉鏡花でしょう。先程紹介した「二人比丘尼 色懺悔」に衝撃を受けて小説家を志した鏡花が、紅葉の弟子になったのは1891年。紅葉は23歳、鏡花は18歳でした。

このときから鏡花は紅葉の玄関番として家に置いてもらいました。そして原稿の整理などを続け、紅葉の信頼を勝ち取っていったのです。

紅葉は面倒見がよくやさしい人物だったようで、田山花袋も上京した折りには紅葉の世話になりました。

しかし紅葉はやさしいだけでなく、小言が多かったことでも有名でした。口が悪くても、的を得た小言で、怒られた本人がその小言に感心したと言います。

尾崎紅葉の名言

亡くなる直前の言葉に紅葉のすべてが現れている

これから力を合わせて勉強して、まずいものを食っても長命して、ただの一冊でも一編でも良いものを書け。おれも七度生まれかわって文章のために尽くすつもりだから。

紅葉がまさに亡くなるそのときに、弟子たちを枕元に集めて語ったとされる言葉です。七度生まれ変わるというのは、南北朝時代の武将・楠木正成が自害をするときに七度生まれ変わって国に報いようと言ったという故事がもとになっていると思われます。

果たして人が亡くなる時に、そんなことを考えていられるのか疑問ではありますが、小説のためにかける気持ちが伝わってくる言葉だと思います。言われた方は奮起せざるを得ません。

どいつもまずい面だ

こちらも紅葉が亡くなる時に語ったとされています。これは見舞いに来た人々が泣いているのを見て言ったそうですが、優しさに溢れた言葉に感じられます。自分のために涙を流さないで欲しい、紅葉はこう言いたかったのではないでしょうか。

尾崎紅葉にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「何でも取り入れる?紅葉の懐の深さ!」

登場人物の心の動きが重要な源氏物語

紅葉が源氏物語を読んで、「多情多恨」への着想を得たのは有名な話です。最初は好ましく思えなかった友人の妻に対する主人公の男性の思いが変化していく様子を丁寧に描いた物語は、紅葉の傑作と言われています。

しかし紅葉が取り入れたのは、日本の作品ばかりではありません。紅葉の代表作と言われる「金色夜叉」はつい最近、イギリスの女流作家・バーサ・クレイの「女より弱き者」を種本としていたことが、明らかになりました。

2つの物語を比べて思うのは、時と場合に関わらず、人は金の力に動かされてしまうということです。国や時代は関係なく、この問題を深く描けば、読者の心を惹きつけることができると、紅葉はわかっていたようです。

どこからでもヒントを得て、自分の作品に生かすことができた紅葉。現在に生きていたらどんな作品を書くのか、興味は尽きません。

都市伝説・武勇伝2「英語力が抜群だった紅葉!死の間際に買ったのは?」

明治時代の百科事典はかなりの贅沢品だっただろう

イギリスの小説を種本とできたのは、紅葉の英語力の賜物です。紅葉は日比谷高校は中退してしまいましたが、大学に進学する前に三田英学校で英語を学んだ経験があります。

紅葉は自らの死期が迫ったときに、イギリスの百科事典ブリタニカを大金を出して購入したと言います。ブリタニカが品切れでセンチュリー大字典にしたとも言われていますが、再入荷を待つ時間が惜しかったのでしょう。死期が迫っていても、紅葉には知識欲の衰えはなかったのだと感じられます。

紅葉は漢学や漢詩も学んおり、その文章からもどちらかと言うと和風な人であるように思われます。しかし、英語だけで書かれた百科事典を使いこなし、知識を増やしていたのですから、英語の実力も大したものだったのです。

都市伝説・武勇伝3「甘党の紅葉が弟子・泉鏡花の小説に出演?」

栗きんとんを腹いっぱいに食べる夢はどうなったのだろうか?

紅葉は甘党だったようで、逸話がいくつか残っていますが、弟子の泉鏡花の作品には、紅葉をモデルにしたと思われる人物が登場します。

それが「白鷺」という作品に登場する伊達先生という人物です。伊達先生は門弟に慕われ、女性にも人気があった点が紅葉に通じるものを感じさせます。決して批判や皮肉を混ぜて描いていないところが、鏡花の紅葉への思いなのでしょう。

その伊達先生が死の床で差し入れの栗きんとんを2口3口と食べるのです。「白鷺」が書かれたのは、紅葉の死から6年後のことです。実際に紅葉本人にも偉くなったら栗きんとんを腹いっぱい食べたいという夢があったそうですから、なおさら伊達先生と紅葉が重なっているように思われます。

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