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陳勝呉広の乱とは?原因から結末まで分かりやすく解説【名言も紹介】

「陳勝呉広の乱って何だろう?」
「農民である陳勝や呉広が反乱を起こした理由は?」
「陳勝呉広の乱と項羽・劉邦の関係は?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?陳勝呉広の乱とは紀元前209年に起きた農民反乱で、陳勝・呉広は反乱の首謀者となった人物の名です。

秦は農民たちに厳しい法の支配を課しました。さらに、土木工事などの労役を課します。秦の法に違反し、土木工事などで落ち度があった場合は厳しく罰せられました。こうした支配に不満を持っていた農民たちは陳勝や呉広をリーダーとして秦への反乱に立ち向かいました。

今回は、陳勝呉広の乱の原因、リーダーになった陳勝が残した名言、陳勝呉広の乱の結果、項羽と劉邦による秦王朝の滅亡などについてまとめます。

陳勝呉広の乱とは

陳勝たちが行くように命じられた漁陽の位置

陳勝呉広の乱は紀元前209年におきた中国史上初の農民反乱です。河南省出身の陳勝と呉広は、政府の命令で900人の兵士を引き連れ北方の防衛拠点である漁陽に向かっていました。その途中、天候が悪化し期日までの到着が不可能となります。

秦の法律ではどのような理由があろうとも、期日遅れは極刑とされていました。進退に窮した陳勝と呉広は連れてきていた900人の農民とともに反乱を起こします。反乱は瞬く間に拡大し、陳勝は「張楚」を建国して王を名乗りました。

陳勝が秦に反旗を翻すと、不満を持っていた他の国の人々も秦の支配に反逆し、各地で反乱が続発しました。陳勝呉広の乱自体は1年余で鎮圧されますが、彼らの挙兵は秦が滅ぶきっかけとなります。

陳勝呉広の乱の原因

陳勝呉広の乱の原因となったのは厳しい法の支配と農民に対する過酷な負担でした。法の支配で追い詰められた民衆の不満は爆発寸前だったのです。乱の原因となった秦による法の支配と農民の負担となった大土木工事についてまとめます。

秦の過酷な法の支配

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始皇帝は過酷な法の支配を徹底させる法治主義で国を治めました。秦の法律は他国と比べると過酷で、法に背いたものは権力者であっても例外なく罰せられました。そのため、多くの民が処罰され秦を恨むものが数多く現れました。

法治主義で秦の国力を飛躍的に高めた商鞅

始皇帝の登場以前に、秦を法治国家にし国力を増大させたのは商鞅という人物です。彼は農民たちを5人で一組とする什五の制で連帯責任を負わせる一方、実力主義を徹底させ、ルールによって賞罰を決めました。

法を守り、功績を立てたものは出世できましたが、法の定めにより罰せられました。これにより、秦の国力は増加し、民は罰則を恐れ道に落ちているものさえ拾わなくなります。法は身分に関係なく執行され、法を作った商鞅でさえ処罰の対象となり、死後に遺体を車裂きの刑にされ、さらしものになりました。

秦がおこなった大規模工事

敦煌周辺に残る前漢時代の万里の長城(秦の長城の姿に近いと考えられる)

中国全土を統一した始皇帝は、全国の農民たちを動員し大規模な土木工事を始めます。まず、北方民族の強度の侵入を防ぐために万里の長城を建設しました。始皇帝は戦国の七雄がすでに建造していた長城をすべてつなげたのです。

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始皇帝が修築した万里の長城は、現在残る明の万里の長城に比べると城壁の高さは低いもので、騎乗したまま越えられない程度の高さのものでした。それでも、遼東半島から甘粛省までの4000キロに及ぶ長城建設には想像を絶する数の民衆が動員されたでしょう。

司馬遷が書いた中国の歴史書『史記』の「蒙恬伝」には、長城建設に30万人以上が動員されたと書かれています。

反乱を起こした陳勝と呉広は農民の出身?

反乱の首謀者である陳勝と呉広は農民の出身でした。まず、陳勝は陽城県(現在の河南省南陽市)に生まれました。若いころは日雇いの納付をしていたといいます。反乱を起こす紀元前209年の段階では、秦の兵士となっていました。

呉広も陳勝と同じく河南省の出身です。この地に数多くいた貧農の一人でした。紀元前209年、秦は河南省方面で北方警備の兵を徴発しました。このとき、呉広を含む900名が北方の漁陽に送られることが決まりました。

陳勝たちが立ち往生した大沢郷を含む安徽省の位置

仲間とともに目的地の漁陽を目指していた一行は大沢郷というところで大雨のため立ち往生してしまいます。雨は長引き、法で定められた期日までに漁陽にたどり着くのは不可能となりました。秦の法では期日遅れで到着しても全員死刑にされてしまいます。陳勝と呉広は「殺されるくらいなら反乱を起こそう!」と決意し、秦の役人を殺して挙兵しました。

陳勝呉広の乱は失敗に終わる

陳勝・呉広の反乱軍と対峙し、最終的に勝利した秦兵(始皇帝の兵馬俑より)

勢力を拡大した陳勝はかつて楚の都だった陳を制圧します。そのころには、彼らの兵力は数万の大軍に膨れ上がっていました。陳で張楚の王となった陳勝は各地を制圧するため、部下たちを派遣します。

また、陳勝は呉広に諸将を率いて秦の都咸陽がある西を攻めさせました。そして、呉広の軍の別動隊は函谷関を突破し、咸陽まであと一歩まで迫ります。ところが、ここで章邯率いる秦軍と激突し大敗します。呉広は章邯と何度も戦いましたが、その都度敗北を喫します。

敗北を繰り返した呉広は部下の裏切りにあい殺されます。その部下も章邯に敗れたため、陳勝軍は総崩れとなりました。そして、陳勝自身も章邯との戦いに敗れ逃亡中に殺害されます。こうして、中国初の農民反乱である陳勝呉広の乱は失敗に終わりました。

秦王朝の崩壊

陳勝呉広の乱で大打撃を受けた秦軍は章邯によって立て直されます。それでも、各地の反乱は収まりませんでした。反乱軍の勢いは陳勝呉広の乱後も増大し続け、やがてその波に秦王朝は押し流されます。秦を滅ぼした項羽と劉邦の動きを見てみましょう。

項羽や劉邦の挙兵

陳勝と呉広は章邯に敗北しましたが、各地の反乱は続いていました。紀元前207年、長江下流域の会稽郡で挙兵した項梁はおいの項羽らを率いて北上し、秦に対する反乱を継続します。この時、項梁は楚王の子孫を探し出し、王とします。

楚王の即位を聞くと、秦の政治に不満を持つ人々は項梁を反乱軍のリーダーとみなし、彼のもとに集まりました。劉邦もその一人です。その項梁の前に立ちはだかったのも章邯でした。項梁は定陶の戦いで章邯に敗れ命を落としました。

項梁のおいで、のちの西楚の覇王と称した項羽

章邯が北の趙を攻めているうちに態勢を立て直した楚軍は軍を二手に分けます。一つは宋義と項羽が率いる主力軍、もう一つは劉邦率いる別動隊です。軍が進発して間もなく、項羽は宋義を殺害して主力軍の指揮権を奪うと、趙を攻めている章邯と対決します。

咸陽陥落で秦が滅亡

項羽が章邯を破った鉅鹿の戦い

指揮権を握った項羽は急進して趙軍が立て籠もる鉅鹿の救援に向かいます。途中、黄河を渡った時に項羽は3日分の食料を除き、渡河に用いた船や料理用の鍋を全て黄河に捨てさせました。死地に追い詰められた項羽軍は章邯軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利します。

以後、章邯は各地で項羽軍に敗れ、ついに投降します。項羽は投降した秦の兵士たち20万人を生き埋めにしました。

投降者を寛大に扱った劉邦
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項羽が鉅鹿で秦の主力軍と戦っていたころ、劉邦は別ルートで秦の都咸陽を目指しました。項羽軍に比べ質量ともに劣る劉邦軍は無理な戦いを避け、降伏した秦軍を寛大に扱います。その噂を聞いた秦軍は次々と劉邦に投降しました。

主力軍の敗北と劉邦軍の接近を知った秦の朝廷では、実権を握っていた宦官の趙高が二世皇帝を殺害。かわって子嬰を秦王とします。子嬰は秦の滅亡の原因は奸臣の趙高だとして彼を殺害し劉邦に投降します。その後、遅れて到着した項羽によって子嬰は殺され、咸陽は項羽軍によって略奪されます。こうして秦は滅亡しました。

陳勝呉広の乱の歴史的意義とは?

陳勝呉広の乱は、秦による厳しい法の統治に対する農民の抵抗運動でした。彼らは直接神を倒すことは来ませんでしたが、その後に登場する項羽や劉邦が秦を倒す基本的条件を整えたといってよいでしょう。

歴史上初の農民反乱であることはもちろんのこと、その反乱によって農民出身の皇帝である劉邦が誕生させました。春秋・戦国時代から歴史を動かしてきた王侯貴族にかわり、庶民が歴史を動かしたというのが陳勝呉広の乱の歴史的意義だといえるでしょう。

陳勝の名言

「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」

陳勝の名言として後世に知られているのはこの二つです。最後にこれらの言葉にまつわるエピソードを紹介します。

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

若いころ、雇われ農民だった陳勝は作業の休憩中に自分の身の不運を嘆いていました。そして、一緒に働く仲間たちに、「自分が出世したら決してお前たちのことは忘れない」といいました。すると、仲間たちは「雇われ農民のお前が出世できるわけはない」と笑い飛ばします。

代表的な小鳥であるスズメ

これを聞いた陳勝が言ったのが「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉でした。燕雀とは燕やスズメといった小鳥のこと、鴻鵠(こうこく)とは大きな鳥のことです。燕やスズメには、天下を取るような大きな志は理解できないといいたかったのでしょう。

一介の農民だった陳勝は、反乱を起こすことで「王」の位に駆け上ります。最終的に失敗したとはいえ、一時といえども王に上り詰めた陳勝は、燕雀ではなく鴻鵠となったといえるのではないでしょうか。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

王侯将相の王とは国王、侯とは大規模な土地を所有する諸侯(大貴族)、将は将軍、相とは宰相のことです。「いずくんぞ種あらんや」は、どうして種類の違いがあるだろうか、いや、自分たちだって彼らのように王侯将相になれるはずだ」という意味になります。

陳勝がこの言葉を言ったのは大沢郷で引率していた秦の役人を殺害して反乱を起こした時でした。どうせ死ぬのなら、死ぬ前に一花咲かせようという気概が感じられる言葉です。この言葉に900人の農民たちはいっせいに賛同し、陳勝呉広の乱が始まりました。

陳勝が都をおいた陳(現在の河南省周口市淮陽区)に残る伝説の神、伏羲の廟

その後、陳勝と呉広は庶民に人気があった扶蘇や項燕の名を詐称して反乱を拡大させます。民衆は彼らの死を信じていなかったので、陳勝と呉広はそれを利用しました。そして、陳勝は「張楚」の王に、呉広は「仮王」となります。農民出身の彼らは、宣言通りに王となりました。

陳勝呉広の乱に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は陳勝呉広の乱についてまとめました。陳勝呉広の乱とは紀元前209年に農民出身の陳勝と呉広が秦に対して起こした中国史上初の農民反乱です。反乱軍は勢力を拡大し、陳勝や呉広は王を名乗るほど勢力を拡大します。

しかし、章邯将軍の登場によって体勢を立て直した秦軍は陳勝呉広の軍を打ち破り、彼らを死に至らしめます。そのため陳勝呉広の乱は失敗に終わりました。しかし、彼らの死後も反乱は収まらず、結局、秦は陳勝や呉広の反乱を引き継いだ項羽や劉邦に滅ぼされます。

この記事を読んで、陳勝呉広の乱の原因、リーダーになった陳勝が残した名言、陳勝呉広の乱の結果、秦王朝の滅亡とその後に起きた項羽と劉邦の争いなどについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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