陳勝呉広の乱とは?原因から結末まで分かりやすく解説【名言も紹介】

「陳勝呉広の乱って何だろう?」
「農民である陳勝や呉広が反乱を起こした理由は?」
「陳勝呉広の乱と項羽・劉邦の関係は?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?陳勝呉広の乱とは紀元前209年に起きた農民反乱で、陳勝・呉広は反乱の首謀者となった人物の名です。

秦は農民たちに厳しい法の支配を課しました。さらに、土木工事などの労役を課します。秦の法に違反し、土木工事などで落ち度があった場合は厳しく罰せられました。こうした支配に不満を持っていた農民たちは陳勝や呉広をリーダーとして秦への反乱に立ち向かいました。

今回は、陳勝呉広の乱の原因、リーダーになった陳勝が残した名言、陳勝呉広の乱の結果、項羽と劉邦による秦王朝の滅亡などについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

陳勝呉広の乱とは

陳勝たちが行くように命じられた漁陽の位置

陳勝呉広の乱は紀元前209年におきた中国史上初の農民反乱です。河南省出身の陳勝と呉広は、政府の命令で900人の兵士を引き連れ北方の防衛拠点である漁陽に向かっていました。その途中、天候が悪化し期日までの到着が不可能となります。

秦の法律ではどのような理由があろうとも、期日遅れは極刑とされていました。進退に窮した陳勝と呉広は連れてきていた900人の農民とともに反乱を起こします。反乱は瞬く間に拡大し、陳勝は「張楚」を建国して王を名乗りました。

陳勝が秦に反旗を翻すと、不満を持っていた他の国の人々も秦の支配に反逆し、各地で反乱が続発しました。陳勝呉広の乱自体は1年余で鎮圧されますが、彼らの挙兵は秦が滅ぶきっかけとなります。

陳勝呉広の乱の原因

陳勝呉広の乱の原因となったのは厳しい法の支配と農民に対する過酷な負担でした。法の支配で追い詰められた民衆の不満は爆発寸前だったのです。乱の原因となった秦による法の支配と農民の負担となった大土木工事についてまとめます。

秦の過酷な法の支配

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始皇帝は過酷な法の支配を徹底させる法治主義で国を治めました。秦の法律は他国と比べると過酷で、法に背いたものは権力者であっても例外なく罰せられました。そのため、多くの民が処罰され秦を恨むものが数多く現れました。

法治主義で秦の国力を飛躍的に高めた商鞅

始皇帝の登場以前に、秦を法治国家にし国力を増大させたのは商鞅という人物です。彼は農民たちを5人で一組とする什五の制で連帯責任を負わせる一方、実力主義を徹底させ、ルールによって賞罰を決めました。

法を守り、功績を立てたものは出世できましたが、法の定めにより罰せられました。これにより、秦の国力は増加し、民は罰則を恐れ道に落ちているものさえ拾わなくなります。法は身分に関係なく執行され、法を作った商鞅でさえ処罰の対象となり、死後に遺体を車裂きの刑にされ、さらしものになりました。

秦がおこなった大規模工事

敦煌周辺に残る前漢時代の万里の長城(秦の長城の姿に近いと考えられる)

中国全土を統一した始皇帝は、全国の農民たちを動員し大規模な土木工事を始めます。まず、北方民族の強度の侵入を防ぐために万里の長城を建設しました。始皇帝は戦国の七雄がすでに建造していた長城をすべてつなげたのです。

万里の長城とは?いつ、どこで、誰が作った?【長さ、歴史、目的などをすべて解説】

始皇帝が修築した万里の長城は、現在残る明の万里の長城に比べると城壁の高さは低いもので、騎乗したまま越えられない程度の高さのものでした。それでも、遼東半島から甘粛省までの4000キロに及ぶ長城建設には想像を絶する数の民衆が動員されたでしょう。

司馬遷が書いた中国の歴史書『史記』の「蒙恬伝」には、長城建設に30万人以上が動員されたと書かれています。

反乱を起こした陳勝と呉広は農民の出身?

反乱の首謀者である陳勝と呉広は農民の出身でした。まず、陳勝は陽城県(現在の河南省南陽市)に生まれました。若いころは日雇いの納付をしていたといいます。反乱を起こす紀元前209年の段階では、秦の兵士となっていました。

呉広も陳勝と同じく河南省の出身です。この地に数多くいた貧農の一人でした。紀元前209年、秦は河南省方面で北方警備の兵を徴発しました。このとき、呉広を含む900名が北方の漁陽に送られることが決まりました。

陳勝たちが立ち往生した大沢郷を含む安徽省の位置

仲間とともに目的地の漁陽を目指していた一行は大沢郷というところで大雨のため立ち往生してしまいます。雨は長引き、法で定められた期日までに漁陽にたどり着くのは不可能となりました。秦の法では期日遅れで到着しても全員死刑にされてしまいます。陳勝と呉広は「殺されるくらいなら反乱を起こそう!」と決意し、秦の役人を殺して挙兵しました。

陳勝呉広の乱は失敗に終わる

陳勝・呉広の反乱軍と対峙し、最終的に勝利した秦兵(始皇帝の兵馬俑より)

勢力を拡大した陳勝はかつて楚の都だった陳を制圧します。そのころには、彼らの兵力は数万の大軍に膨れ上がっていました。陳で張楚の王となった陳勝は各地を制圧するため、部下たちを派遣します。

また、陳勝は呉広に諸将を率いて秦の都咸陽がある西を攻めさせました。そして、呉広の軍の別動隊は函谷関を突破し、咸陽まであと一歩まで迫ります。ところが、ここで章邯率いる秦軍と激突し大敗します。呉広は章邯と何度も戦いましたが、その都度敗北を喫します。

敗北を繰り返した呉広は部下の裏切りにあい殺されます。その部下も章邯に敗れたため、陳勝軍は総崩れとなりました。そして、陳勝自身も章邯との戦いに敗れ逃亡中に殺害されます。こうして、中国初の農民反乱である陳勝呉広の乱は失敗に終わりました。

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