陳勝呉広の乱とは?原因から結末まで分かりやすく解説【名言も紹介】

秦王朝の崩壊

陳勝呉広の乱で大打撃を受けた秦軍は章邯によって立て直されます。それでも、各地の反乱は収まりませんでした。反乱軍の勢いは陳勝呉広の乱後も増大し続け、やがてその波に秦王朝は押し流されます。秦を滅ぼした項羽と劉邦の動きを見てみましょう。

項羽や劉邦の挙兵

陳勝と呉広は章邯に敗北しましたが、各地の反乱は続いていました。紀元前207年、長江下流域の会稽郡で挙兵した項梁はおいの項羽らを率いて北上し、秦に対する反乱を継続します。この時、項梁は楚王の子孫を探し出し、王とします。

楚王の即位を聞くと、秦の政治に不満を持つ人々は項梁を反乱軍のリーダーとみなし、彼のもとに集まりました。劉邦もその一人です。その項梁の前に立ちはだかったのも章邯でした。項梁は定陶の戦いで章邯に敗れ命を落としました。

項梁のおいで、のちの西楚の覇王と称した項羽

章邯が北の趙を攻めているうちに態勢を立て直した楚軍は軍を二手に分けます。一つは宋義と項羽が率いる主力軍、もう一つは劉邦率いる別動隊です。軍が進発して間もなく、項羽は宋義を殺害して主力軍の指揮権を奪うと、趙を攻めている章邯と対決します。

咸陽陥落で秦が滅亡

項羽が章邯を破った鉅鹿の戦い

指揮権を握った項羽は急進して趙軍が立て籠もる鉅鹿の救援に向かいます。途中、黄河を渡った時に項羽は3日分の食料を除き、渡河に用いた船や料理用の鍋を全て黄河に捨てさせました。死地に追い詰められた項羽軍は章邯軍と激闘を繰り広げ、ついに勝利します。

以後、章邯は各地で項羽軍に敗れ、ついに投降します。項羽は投降した秦の兵士たち20万人を生き埋めにしました。

投降者を寛大に扱った劉邦

劉邦の生涯・年表まとめ【項羽との関係や家臣、漫画も紹介】

項羽が鉅鹿で秦の主力軍と戦っていたころ、劉邦は別ルートで秦の都咸陽を目指しました。項羽軍に比べ質量ともに劣る劉邦軍は無理な戦いを避け、降伏した秦軍を寛大に扱います。その噂を聞いた秦軍は次々と劉邦に投降しました。

主力軍の敗北と劉邦軍の接近を知った秦の朝廷では、実権を握っていた宦官の趙高が二世皇帝を殺害。かわって子嬰を秦王とします。子嬰は秦の滅亡の原因は奸臣の趙高だとして彼を殺害し劉邦に投降します。その後、遅れて到着した項羽によって子嬰は殺され、咸陽は項羽軍によって略奪されます。こうして秦は滅亡しました。

陳勝呉広の乱の歴史的意義とは?

陳勝呉広の乱は、秦による厳しい法の統治に対する農民の抵抗運動でした。彼らは直接神を倒すことは来ませんでしたが、その後に登場する項羽や劉邦が秦を倒す基本的条件を整えたといってよいでしょう。

歴史上初の農民反乱であることはもちろんのこと、その反乱によって農民出身の皇帝である劉邦が誕生させました。春秋・戦国時代から歴史を動かしてきた王侯貴族にかわり、庶民が歴史を動かしたというのが陳勝呉広の乱の歴史的意義だといえるでしょう。

陳勝の名言

「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」

陳勝の名言として後世に知られているのはこの二つです。最後にこれらの言葉にまつわるエピソードを紹介します。

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

若いころ、雇われ農民だった陳勝は作業の休憩中に自分の身の不運を嘆いていました。そして、一緒に働く仲間たちに、「自分が出世したら決してお前たちのことは忘れない」といいました。すると、仲間たちは「雇われ農民のお前が出世できるわけはない」と笑い飛ばします。

代表的な小鳥であるスズメ

これを聞いた陳勝が言ったのが「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉でした。燕雀とは燕やスズメといった小鳥のこと、鴻鵠(こうこく)とは大きな鳥のことです。燕やスズメには、天下を取るような大きな志は理解できないといいたかったのでしょう。

一介の農民だった陳勝は、反乱を起こすことで「王」の位に駆け上ります。最終的に失敗したとはいえ、一時といえども王に上り詰めた陳勝は、燕雀ではなく鴻鵠となったといえるのではないでしょうか。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

王侯将相の王とは国王、侯とは大規模な土地を所有する諸侯(大貴族)、将は将軍、相とは宰相のことです。「いずくんぞ種あらんや」は、どうして種類の違いがあるだろうか、いや、自分たちだって彼らのように王侯将相になれるはずだ」という意味になります。

陳勝がこの言葉を言ったのは大沢郷で引率していた秦の役人を殺害して反乱を起こした時でした。どうせ死ぬのなら、死ぬ前に一花咲かせようという気概が感じられる言葉です。この言葉に900人の農民たちはいっせいに賛同し、陳勝呉広の乱が始まりました。

陳勝が都をおいた陳(現在の河南省周口市淮陽区)に残る伝説の神、伏羲の廟

その後、陳勝と呉広は庶民に人気があった扶蘇や項燕の名を詐称して反乱を拡大させます。民衆は彼らの死を信じていなかったので、陳勝と呉広はそれを利用しました。そして、陳勝は「張楚」の王に、呉広は「仮王」となります。農民出身の彼らは、宣言通りに王となりました。

陳勝呉広の乱に関するまとめ

いかがでしたか?

今回は陳勝呉広の乱についてまとめました。陳勝呉広の乱とは紀元前209年に農民出身の陳勝と呉広が秦に対して起こした中国史上初の農民反乱です。反乱軍は勢力を拡大し、陳勝や呉広は王を名乗るほど勢力を拡大します。

しかし、章邯将軍の登場によって体勢を立て直した秦軍は陳勝呉広の軍を打ち破り、彼らを死に至らしめます。そのため陳勝呉広の乱は失敗に終わりました。しかし、彼らの死後も反乱は収まらず、結局、秦は陳勝や呉広の反乱を引き継いだ項羽や劉邦に滅ぼされます。

この記事を読んで、陳勝呉広の乱の原因、リーダーになった陳勝が残した名言、陳勝呉広の乱の結果、秦王朝の滅亡とその後に起きた項羽と劉邦の争いなどについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

1 2

コメントを残す