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ウィーン会議とは?目的や内容、参加国、議長まで分かりやすく解説

「ウィーン会議で決まったことが知りたい?」
「ウィーン会議の議長や参加国は?」
「ウィーン会議の風刺とは?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?ウィーン会議とは、1814年から1815年にかけて、オーストリアの首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿で開かれたナポレオン戦争の戦後処理会議のことです。

ウィーン会議の目的はフランス革命ナポレオン戦争によって崩壊したヨーロッパの秩序を再建し、各国の領土を再編成することでした。ところが、会議は各国の利害が複雑に絡み合い、なかなか結論を出せず「会議は踊る」と皮肉られました。

今回は、ウィーン会議の目的や参加国、基本原則、会議の決定事項などについてまとめます。

ウィーン会議とは

ウィーン会議の様子

ウィーン会議とは、ナポレオン戦争後の国際秩序の再編を目指してヨーロッパの主要国が集まって開かれた国際会議のことです。会議ではヨーロッパをナポレオン戦争以前の状態に戻す正統主義を基本理念とし、各国の領土を再編することなどを目指しました。

しかし、会議がはじまると各国は自国の領土を少しでも広げようと有利な条件を模索します。そのため、なかなか会議がまとまりませんでした。その間、舞踏会ばかりが開催されたので「会議は踊る」と揶揄されます。

会議の流れが一変したのはナポレオンが追放先のエルバ島から脱出してフランス皇帝に復位したとの知らせが届いたときです。各国は急いで合意を形成し、1815年6月にウィーン議定書を調印しました。この会議でつくられた保守的な国際体制をウィーン体制といいます。

目的はナポレオン戦争の戦後処理

会議開催の目的はナポレオン戦争の戦後処理でした。戦争の発端となったフランスではブルボン家の王政が打倒され、王家の生き残りが復権を目指していました。また、フランスに敗れ多くの領土を失っていたオーストリアやプロイセンなどは領土の復旧を目指します。

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さらに、戦争で多くの犠牲を払ったロシアやナポレオン戦争勝利の立役者であるイギリスは少しでも多くの利権を獲得しようとします。こうした状況で各国は自国の利害を最優先としたため、会議はなかなか妥結しませんでした。

ナポレオンが追放されたエルバ島の位置

各国のいがみ合いを止めたのは皮肉にも戦争の元凶とされたナポレオンでした。ナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを受けると、領土争いをしている場合ではないと考えた各国は一転して団結し戦後処理を確定させます。その後、各国は連合軍を再結成し、ナポレオンをワーテルローの戦いで破り、ウィーン議定書の内容を確定させます。

ウィーン会議の参加国

参加した国々

ウィーン会議にはナポレオン戦争の戦勝国である4つの国、イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアと敗戦国であるフランスが参加しました。イギリスの代表は外務大臣のカスルレーとナポレオン戦争の勝利の立役者となったウェリントン公です。

ウィーン会議に自ら乗り込んだロシア皇帝アレクサンドル1世

ロシアからは皇帝アレクサンドル1世が自らウィーンに乗り込みます。国王自らが参加したのはプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世、オーストリアのフレンツ1世も同様でした。そして、敗戦国であるフランスからはブルボン朝の代表としてタレーランが送り込まれます。

会議の議長はオーストリアのメッテルニヒ

ウィーン会議で議長を務めたオーストリアの宰相メッテルニヒ

会議の議長にはホスト国であるオーストリアの宰相メッテルニヒが選ばれました。クレメンス・フォンメッテルニヒは神聖ローマ帝国のトリーア選帝侯国に生まれました。彼は伯爵家の子息で、若いころフランスのストラスブール大学で学びます。

1789年にフランス革命が勃発すると、ストラスブールも革命軍の支配下に入ります。翌年、混乱を避けるためメッテルニヒはフランクフルトに移住します。その後、オーストリア皇帝レオポルト2世の戴冠式で儀式を司る式部官の一人となりました。

ナポレオン戦争が本格化したころ、メッテルニヒはオーストリアの大使としてベルリンやパリで活動します。彼が活躍できた理由は皇帝フランツ2世の信任が厚かったからです。そして、1809年にはオーストリアの外相となりました。ナポレオン戦争中に著名な外交家となっていたメッテルニヒの議長就任に異論を唱える国はなく、全会一致で議長に選出されます。

基本原則は正統主義

正統主義を主張したフランス外相タレーラン

ウィーン会議の基本理念は、ヨーロッパをフランス革命の前の状態に戻すことでした。こうした考え方を正統主義といいます。正統主義を唱えたのは敗戦国フランスの代表だったタレーランです。彼は正統主義を主張することで、ナポレオン戦争前のフランス領を守ろうとしたのです。

この考え方は他の絶対主義諸国にとって非常に受け入れやすいものでした。なぜなら、他の国の君主たちにとってフランス革命の再来は悪夢であり、自国でそのようなことがおきないようにするための大義名分が欲しかったからです。

こうして、タレーランの思惑と各国君主の利害が一致したことにより、敗戦国が主張する原則が戦後処理会議で採用されるという非常に珍しいことがおきました。これで、フランスは領土の大幅割譲や多額の賠償金支払いなどを逃れることができました。

ウィーン会議の内容

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ウィーン会議で決まった内容はウィーン議定書にまとめられました。この議定書では正統主義の確認と大幅な領土変更、神聖ローマ帝国とスイスの扱いなどについて確認されます。この議定書にもとづく19世紀前半の反動的な保守体制をウィーン体制といいました。

ブルボン家の復活

ウィーン会議でフランス王位に就いたブルボン家のルイ18世

フランスではフランス革命やその後に成立したナポレオンの第一帝政は否定され、ブルボン家の王位復帰が決まります。これにより、革命を生き延びたルイ16世の弟がルイ18世として即位しました。これを知った亡命貴族(エミグレ)たちはフランスに帰国します。

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ルイ18世によってはじめられた政治を復古王政といいます。彼はフランス革命で確立した所有権の不可侵や貴族院と下院からなる二院制の議会を認め立憲君主制の政治体制をしきます。ルイ18世の死後、王位は弟のシャルル10世に引き継がれます。

ナポレオン戦争でスペイン王位を追われていたブルボン家のフェルナンド7世も正統主義に基づき、スペイン王への復帰を果たします。同様にナポリ王国のブルボン家も復活しました。

領土変更

ウィーン会議で定められた国境線

ウィーン会議ではヨーロッパ列強の領土が大きく変更されました。まず、戦勝国の一つであるロシアはポーランドとフィンランド、黒海沿岸のベッサラビアを獲得しました。プロイセンはザクセンの北半分にライン川流域のラインラントを獲得し領土拡大に成功します。

オーストリアは飛び地となっていた南ネーデルラント(現在のベルギー)とロシアが欲しがっていたポーランドの一部を放棄します。そのかわりに、旧ヴェネツィア共和国領とロンバルディア地方を獲得することで北イタリアの支配権を確立しました。

イギリスはオランダが所有していたセイロン島(現在のスリランカ)とケープ植民地(現在の南アフリカ)、西地中海のマルタ島、ギリシア西岸のイオニア諸島を獲得します。これらの島々は交易ルート上の重要拠点でした。そのほか、スウェーデンやオランダの領土も変更されました。

神聖ローマ帝国は復活しない

ドイツでは、ナポレオンがつくらせたライン連邦の解体とオーストリアやプロイセンをはじめとする35の領邦国家と4つの自由都市からなるドイツ連邦の成立が決まります。ナポレオン戦争後に形だけとはいえ存在していた神聖ローマ帝国は復活しませんでした。

そもそも、神聖ローマ帝国は1648年のウェストファリア条約で事実上解体され、皇帝の名前だけが残っているような状態でした。その皇帝位は代々オーストリアのハプスブルク家に受け継がれていたのです。

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しかし、アウステルリッツ三帝会戦で勝利したナポレオンが南西ドイツの16諸侯国を神聖ローマ帝国から独立させたため、皇帝フランツ2世が退位し神聖ローマ帝国の消滅を宣言していました。正統主義が採用されても、いまさら神聖ローマ帝国を復活させる意味はなかったのです。

スイスが永世中立国となる

スイスの各州を描いた地図

スイスはウィーン会議で22州(現在は26州)からなる連邦国家であることと、永世中立国となることが定められました。列強がスイスの中立を承認した背景には、ヨーロッパの中央部に位置するスイスの安定が自国を守るうえで非常に有効だったからです。

ナポレオン戦争中、スイスはナポレオンの支配下に組み込まれ、ロシア遠征では9000ものスイス兵が動員されます。スイス連隊は敗走するナポレオン軍の殿をつとめ、わずか300人まで打ち減らされます。ナポレオン没落後、スイスは連邦国家となりました。この状態を列強が承認したのです。

永世中立国となったスイスはどの列強とも同盟を結ばず、スイスの独立と統一を維持する道を選択し現在に至ります。

会議は踊るとは?

会議は踊るとは、ウィーン会議がなかなか進まず、夜の舞踏会ばかりが開かれていた状況を皮肉った言葉です。国境を1792年以前に戻す正統主義の採用こそ決まったものの、各国が自国の利益の主張を止めなかったため、会議は数か月にわたって続きました。

「会議は踊る。されど進まず」の名言を残したリーニュ侯シャルル・ジョゼフ

なかなか議事が進まない会議に対し、オーストリア軍の将軍で宮廷近衛隊長を務めていたリーニュ侯シャルル・ジョゼフは「会議は踊る。されど進まず」と評しました。ナポレオンのエルバ島脱出がなければ、もっと長い間、舞踏会が繰り広げられたかもしれません。

ウィーン会議が開かれたシェーンブルン宮殿

ちなみに、会議の会場となったシェーンブルン宮殿はハプスブルク家の夏の離宮です。完成したのはマリア・テレジアの時代で、宮殿の壁は黄金色に近い黄色に塗られました。この色をテレジア・イエロー(シェーンブルン・イエロー)といいます。この色は、オーストリア=ハンガリー二重帝国を象徴する色となりました。

ウィーン会議に関するまとめ

いかがでしたか?

今回はウィーン会議についてまとめました。ウィーン会議は1814年から1815年にかけてオーストリアのシェーンブルン宮殿で開かれたナポレオン戦争の戦後処理会議です。

会議では国境線や国際秩序をフランス革命前に戻す正統主義が採用されます。しかし、各国は自国の利益を最優先しなかなか妥協しなかったため、会議は紛糾してしまいました。この様子をオーストリアの将軍が「会議は踊る。されど進まず」と揶揄します。

この記事を読んで、ウィーン会議の目的や参加国、基本原則、会議の決定事項などについて、「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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