ナポレオンとはフランスの軍人・革命家で、フランスの全盛期を築き上げた大英雄です。ナポレオンといえば「余の辞書に不可能という文字はない」という名言が人気で、歴史人物の中でも人気があります。
ナポレオンはとにかく戦争に強く、生涯の戦績は38戦35勝と驚異の勝率を誇り、近代的軍隊・戦争の礎を作りました。
しかし、ナポレオンという人物はフランスの大英雄という側面だけではなく、ヨーロッパそのものをガラリと変えてしまった人物でもあります。
今回はそんなナポレオンの軍人として活躍しフランスの革命を確固たるものにした後に、失脚し島流しにあって粗末な扱いを受けるまでの波乱万丈な生涯を紹介します。
この記事を書いた人
ナポレオンとはどんな人?生涯ダイジェスト
名前 | ナポレオン・ボナパルト |
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英名 | Napoléon Bonaparte |
出生 | 1769年8月15日 |
埋葬 | オテル・デ ・ザンヴァリッド |
出生地 | フランス・コルシカ島 |
出生地図 |
- 1769年、イタリアのコルシカ島にてナポレオン・ボナパルトの誕生
- ブリエンヌ陸軍幼年学校にて数学で抜群の成績を修める
- 15歳でパリの陸軍士官学校に入学し、通常4年かかる全課程をわずか1年足らずで修了
- 1789年にフランス革命が勃発するが、ナポレオンは無関心を貫く
- 1795年のヴァンデミエールの反乱で指揮を取り、鎮圧に成功、陸軍の中将に昇進
- 27歳の時にジョゼフィーヌと結婚
- フランス革命戦争でイタリア側からの攻撃を任され、連戦連勝を重ねる
- 1800年のマレンゴの戦い、ホーエンリンデンの戦いで大勝
- 1804年にナポレオンがフランスの皇帝に就き、12月に戴冠式が行われる
- 同じく1804年にナポレオン法典を整備
- 1814年のライプツィヒの戦いでフランスの情勢が悪化すると、3月に首都パリが陥落し、ナポレオンは皇帝の座を降ろされることに
- 1815年に復位するも、ワーテルローの戦いで完敗し、百日天下で終わる
- 南大西洋の孤島セントヘレナに島流し
- 1821年5月5日、孤島での監禁生活の最中に帰らぬ人に
ナポレオンの性格や死因
ナポレオンの性格は?
ナポレオンの性格はフランスをまとめ上げたイメージとは全く違い、かなり内気な青年だったそうです。ナポレオンは士官学校ではコルシカなまりをかなり気にしており、ずっと戦術の本などを読み漁っていたんだとか。
後年では皇帝になるなど非常に大胆なイメージがありますが、実際にはあの大胆さは内気な青年が成長した姿だったのですね。
数学が得意で、「ナポレオンの定理」という公式がある
ナポレオンは幼少期から数学が得意で、10歳の時に国費を使って入学したブリエンヌ陸軍幼年学校では数学で抜群の成績を修めました。
数学では「ナポレオンの定理」というものがあり、この定理は「任意の三角形に対し、各辺を一辺とする正三角形を描き、これら3つの正三角形同士の重心同士を結んだ時、その三角形は正三角形となる」と説明されています。
この「ナポレオンの定理」はその名の通りナポレオンが発見したと言われていますが、それを証明する資料は見つかっていません。
ナポレオンの死因には様々な説が
ナポレオンは1821年5月にセントヘレナにて亡くなっていますが、その死因には様々な説が挙げられています。現在のフランスの公式の発表では胃癌もしくは胃潰瘍による病死となっていますが、そのほかにも医療過誤説、ヒ素による毒殺説、ヒ素中毒説など様々な憶測が飛び交っています。
ナポレオンの遺体を調べてみると、頭髪からヒ素が検出されました。このことから、ワインにヒ素が盛り込まれて毒殺されたのではないかという説が上がったのです。実際に当時の従者の日記を読み返すと、ナポレオンの病状が急激に悪くなっていることが記載されており、病気の進行としてはあまりにも早すぎると考えられることから、病死以外ではヒ素による毒殺も有力な死因説となっています。
それ以外にも部屋の壁にヒ素が塗られており、それを吸い込み続けたことによる中毒によって亡くなったのではないかという情報や病気療養中の投薬ミスによる病状の悪化から死亡したのではないかという話まで出てきているのです。
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な
ナポレオンカッコイイです!!
> ナポレオンオナパルトさん
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