ウィーン会議の内容
ウィーン会議で決まった内容はウィーン議定書にまとめられました。この議定書では正統主義の確認と大幅な領土変更、神聖ローマ帝国とスイスの扱いなどについて確認されます。この議定書にもとづく19世紀前半の反動的な保守体制をウィーン体制といいました。
ブルボン家の復活
フランスではフランス革命やその後に成立したナポレオンの第一帝政は否定され、ブルボン家の王位復帰が決まります。これにより、革命を生き延びたルイ16世の弟がルイ18世として即位しました。これを知った亡命貴族(エミグレ)たちはフランスに帰国します。
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ルイ18世によってはじめられた政治を復古王政といいます。彼はフランス革命で確立した所有権の不可侵や貴族院と下院からなる二院制の議会を認め立憲君主制の政治体制をしきます。ルイ18世の死後、王位は弟のシャルル10世に引き継がれます。
ナポレオン戦争でスペイン王位を追われていたブルボン家のフェルナンド7世も正統主義に基づき、スペイン王への復帰を果たします。同様にナポリ王国のブルボン家も復活しました。
領土変更
ウィーン会議ではヨーロッパ列強の領土が大きく変更されました。まず、戦勝国の一つであるロシアはポーランドとフィンランド、黒海沿岸のベッサラビアを獲得しました。プロイセンはザクセンの北半分にライン川流域のラインラントを獲得し領土拡大に成功します。
オーストリアは飛び地となっていた南ネーデルラント(現在のベルギー)とロシアが欲しがっていたポーランドの一部を放棄します。そのかわりに、旧ヴェネツィア共和国領とロンバルディア地方を獲得することで北イタリアの支配権を確立しました。
イギリスはオランダが所有していたセイロン島(現在のスリランカ)とケープ植民地(現在の南アフリカ)、西地中海のマルタ島、ギリシア西岸のイオニア諸島を獲得します。これらの島々は交易ルート上の重要拠点でした。そのほか、スウェーデンやオランダの領土も変更されました。
神聖ローマ帝国は復活しない
ドイツでは、ナポレオンがつくらせたライン連邦の解体とオーストリアやプロイセンをはじめとする35の領邦国家と4つの自由都市からなるドイツ連邦の成立が決まります。ナポレオン戦争後に形だけとはいえ存在していた神聖ローマ帝国は復活しませんでした。
そもそも、神聖ローマ帝国は1648年のウェストファリア条約で事実上解体され、皇帝の名前だけが残っているような状態でした。その皇帝位は代々オーストリアのハプスブルク家に受け継がれていたのです。
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しかし、アウステルリッツ三帝会戦で勝利したナポレオンが南西ドイツの16諸侯国を神聖ローマ帝国から独立させたため、皇帝フランツ2世が退位し神聖ローマ帝国の消滅を宣言していました。正統主義が採用されても、いまさら神聖ローマ帝国を復活させる意味はなかったのです。
スイスが永世中立国となる
スイスはウィーン会議で22州(現在は26州)からなる連邦国家であることと、永世中立国となることが定められました。列強がスイスの中立を承認した背景には、ヨーロッパの中央部に位置するスイスの安定が自国を守るうえで非常に有効だったからです。
ナポレオン戦争中、スイスはナポレオンの支配下に組み込まれ、ロシア遠征では9000ものスイス兵が動員されます。スイス連隊は敗走するナポレオン軍の殿をつとめ、わずか300人まで打ち減らされます。ナポレオン没落後、スイスは連邦国家となりました。この状態を列強が承認したのです。
永世中立国となったスイスはどの列強とも同盟を結ばず、スイスの独立と統一を維持する道を選択し現在に至ります。
会議は踊るとは?
会議は踊るとは、ウィーン会議がなかなか進まず、夜の舞踏会ばかりが開かれていた状況を皮肉った言葉です。国境を1792年以前に戻す正統主義の採用こそ決まったものの、各国が自国の利益の主張を止めなかったため、会議は数か月にわたって続きました。
なかなか議事が進まない会議に対し、オーストリア軍の将軍で宮廷近衛隊長を務めていたリーニュ侯シャルル・ジョゼフは「会議は踊る。されど進まず」と評しました。ナポレオンのエルバ島脱出がなければ、もっと長い間、舞踏会が繰り広げられたかもしれません。
ちなみに、会議の会場となったシェーンブルン宮殿はハプスブルク家の夏の離宮です。完成したのはマリア・テレジアの時代で、宮殿の壁は黄金色に近い黄色に塗られました。この色をテレジア・イエロー(シェーンブルン・イエロー)といいます。この色は、オーストリア=ハンガリー二重帝国を象徴する色となりました。
ウィーン会議に関するまとめ
いかがでしたか?
今回はウィーン会議についてまとめました。ウィーン会議は1814年から1815年にかけてオーストリアのシェーンブルン宮殿で開かれたナポレオン戦争の戦後処理会議です。
会議では国境線や国際秩序をフランス革命前に戻す正統主義が採用されます。しかし、各国は自国の利益を最優先しなかなか妥協しなかったため、会議は紛糾してしまいました。この様子をオーストリアの将軍が「会議は踊る。されど進まず」と揶揄します。
この記事を読んで、ウィーン会議の目的や参加国、基本原則、会議の決定事項などについて、「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。