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ウォーターゲート事件とは?事件の経緯や真相、題材になった作品を紹介

「ウォーターゲート事件って何?」
「ディープ・スロートって誰だったの?」
「ウォーターゲート事件の映画が見たい!」

ベトナム戦争が終結する直前の1972年にアメリカ合衆国で歴史に残る政治スキャンダルが起こりました。「ウォーターゲート事件」と呼ばれたこの事件は、アメリカの歴史上初めて大統領が任期中に辞任するという事態を招きます。

関わった多くの人々の人生を左右したウォーターゲート事件は、新しい法律が施行されるきっかけになるなど後々の政治の在り方にも大きな影響を与えました。

この記事ではそんなウォーターゲート事件の経緯を出来るだけわかりやすく解説しつつ、影響や事件を扱った作品なども紹介したいと思います。

ウォーターゲート事件とは何だったのか?

事件の概要と真相

ウォーターゲート事件

1972年の6月17日、5人の男たちがワシントンD.C.にある民主党本部に不法侵入したことからウォーターゲート事件は幕を開けました。あっけなく捕まった侵入犯でしたが、彼らの身元が当時のアメリカ大統領だったニクソン大統領の関係者だと判明します。

ホワイトハウスが事件への関与を全面否認したためお粗末なコソ泥事件として収束に向かうと思われましたが、犯人のうちの一人の爆弾発言によりニクソン政権が事件に大きく関わっていたことが暴露されました。

その後、ホワイトハウスによる隠ぺい工作や捜査妨害の発覚、証拠となるテープをニクソン大統領が提出を拒否し続けたことなどにより世間の批判を集めることになります。そして「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれる出来事が決定打となり、ニクソン大統領の支持率は急速に落ち込みました。

ホワイトハウス

下院司法委員会でニクソン大統領の弾劾が評決され弾劾は時間の問題かと思われましたが、1974年8月8日にニクソン大統領はテレビ演説で辞任の意思を国民に伝え、翌8月9日に辞任しましたことでウォーターゲート事件は終結しました。

当時の時代背景

札幌オリンピックの閉会式

ウォーターゲート事件が起こった1972年はアジア初の冬季オリンピックが札幌で開催され、 連合赤軍による「あさま山荘事件」が起こった年でした。また第二次世界大戦時にアメリカに奪われていた沖縄が日本に返還され沖縄県が誕生した年でもあります。

世界では1960年代中ごろから始まったベトナム戦争が終盤に差し掛かっていました。1973年にはパリ協定によってベトナムに派遣されていたアメリカ兵たちが撤退しています。

事件はウォーターゲート・ビルで起こる

ウォーターゲート・ビル

侵入事件が起こった民主党本部はワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルにありました。1972年当時のウォーターゲート・ビルは高級分譲マンションとして有名で、一部屋の価格は現在の貨幣価値に直すと約9800万円にものぼりました。

そんな高級マンションだったため政治に関係のある人物も多く入居していたといいます。住人たちのためにレストランや診療所、フィットネスクラブなどあらゆる設備が揃えられた複合施設でもあり、事件時に犯人たちも利用していたホテルも併設されていました。

現在のウォーターゲート・ビル

事件後ウォーターゲート・ビルは長らく閉鎖されていましたが、2016年に新しくホテルとオフィス、居住区画からなる複合施設としてリニューアルオープンを果たしました。ホテルの電話番号は事件が起こった日時にちなんで「617-1972」となっています。

ウォーターゲート事件の重要人物

リチャード・ニクソン大統領

リチャード・ニクソン大統領

リチャード・ニクソンは1913年生まれのアメリカ合衆国の政治家で、第36代副大統領と第37代大統領を歴任しました。

ニクソン大統領が着任した当時はベトナム戦争の真っ最中で、反戦運動が過激化していた時代でした。大統領選挙中に掲げていた公約である「戦争からの早期撤退」を実現するべく、帝王的大統領制と呼ばれるホワイトハウスに権力を集中させた政権で政策にあたりました。

ベトナム戦争終結に向けての交渉や当時ソ連と対立していた中国との外交の開始、1972年5月にはソ連を訪れ米ソ両国間の軍縮に成功するなど外交政策には高い評価を得ています。1969年には日本の佐藤栄作首相と会談を行い1972年には沖縄が返還されました。

ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相とニクソン大統領

しかし1972年に起こったウォーターゲート事件によって国民からの支持を著しく失い、アメリカ合衆国で唯一任期中に辞職した大統領となりました。

侵入犯「ウォーターゲート・セブン」

実行犯の5人

ウォーターゲート・ビルの民主党本部に侵入して現行犯逮捕されたのはバーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・W・マッコード・ジュニア、フランク・スタージスの5人でした。

彼らのうち3人はキューバ人の退役軍人、1人はCIAの工作員、残る1人はニクソン大統領の再選委員会員というメンバーでした。

最終的に実行犯5人に加えホワイトハウスの元非常勤顧問であったエヴェレット・ハワード・ハントと大統領再選委員会財政顧問ジョージ・ゴードン・リディも逮捕されたことによって、侵入に関わった7人の被告たちはのちに「ウォーターゲート・セブン」と呼ばれるようになりました。

「ディープ・スロート」ことマーク・フェルト

「ディープ・スロート」ことマークフェルト

事件が起こった直後からアメリカの新聞社「ワシントン・ポスト」は記者たち独自の調査を基に、様々なスクープを掲載していきます。この一連のスクープには事件の内部情報に詳しい情報提供者が存在しており、その人物は「ディープ・スロート」と呼ばれていました。

長年「ディープ・スロート」の正体は不明でしたが事件から33年後の2005年に、事件当時FBI副長官だったマーク・フェルトが「ディープ・スロート」は自分だと名乗り出たため正体が判明しました。

パトリック・グレイ

事件当時のFBI長官代行であり事件にも大きく関わっていたパトリック・グレイが前任のFBI長官が亡くなったあと長官代行を任命されたことに、フェルトは大きなショックを受けたと言います。このことが「ディープ・スロート」となった一つの要因だったことは間違いないでしょう。

ウォーターゲート事件に関係するその他の事件

ピッグス湾事件

ピッグス湾事件で戦ったキューバ人兵士たち

侵入犯のうち3人がキューバ人の退役軍人でしたが、彼らが関わっていた軍事作戦が「ピッグス湾事件」でした。

「ピッグス湾事件」とはアメリカに亡命していた在米キューバ人部隊がCIAの支援を受け、キューバに侵攻しフィデル・カストロ政権の打倒を試みた事件です。「第一次キューバ危機」とも呼ばれています。

フィデル・カストロ

1961年4月初め、反カストロ軍はキューバ空軍基地を空襲しますが、予定の7分の1程度しか戦闘機を破壊できず作戦は失敗に終わります。続く4月17日、部隊はピッグス湾ヒロン浜への上陸を開始、この時上陸した反カストロ軍の約1500人に対してキューバ政府軍は約20万人の大軍勢でした。

早々に物資補給船を撃沈された反カストロ軍は、弾薬・食糧・医療品などが底をつき劣勢に立たされます。結果、4月19日に政府軍に投降し114名が戦死、1189名が捕虜となるなど侵攻作戦は大失敗に終わりました。

ペンタゴン・ペーパーズ

ニューヨーク・タイムズのスクープ

1971年にニューヨーク・タイムズがスクープした国防総省秘密文書が「ペンタゴン・ペーパーズ」で、アメリカがベトナム戦争に参戦するために行った政策や秘密工作などが記された極秘文書でした。

この「ペンタゴン・ペーパーズ」以降にアメリカ合衆国は、連邦政府内からの情報漏洩を防ぐため特別調査チームを設置しました。調査対象は当時のベトナム戦争反対の活動家や報道関係者、ホワイトハウス職員から民主党員までが含まれました。

この特別調査チームの中心人物として調査対象者たちに工作を行っていたのが、ウォーターゲート・セブンとして数えられたゴードン・リディおよびハワード・ハントでした。

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