ウォーターゲート事件とは?事件の経緯や真相、題材になった作品を紹介

事件の経緯

1972年6月17日ーウォーターゲート・ビルへの不法侵入

民主党本部に踏み込んだワシントンD.C.警察

1972年6月17日の午前2時ごろ、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルに勤める警備員フランク・ウィルズが、駐車場のドアのロック部分にテープが張られているのを発見しました。不審に思ったウィルズはD.C.警察に通報します。

警察が到着しビルを捜索すると、6階にあった民主党本部に続くドアが開いていることを確認します。警官たちが拳銃を抜いて踏み込むと5人の男が不法侵入していたため現行犯逮捕しました。

1972年6月18日ー犯人たちの身元が判明

犯人のうち一人が元CIA工作員

初動捜査により事件翌日までには、5人全員の身元が判明します。犯人のうち一人が元CIA工作員で現役のニクソン大統領の再選委員会の警備主任であることも判明し、彼らが宿泊していたウォーターゲート・ホテルの部屋から大金が見つかったため事態は思わぬ方向へ動き始めます。

侵入犯の所持していた手帳の中からホワイトハウスの顧問であったチャールズ・コルソンや、元非常勤顧問だったエヴェレット・ハワード・ハントの名前が見つかりホワイトハウスの関与が疑われ始めました。

エヴェレット・ハワード・ハント

これを受けて6月19日にニクソン大統領の報道担当官ロナルド・ジーグラーは、ホワイトハウスは事件とは無関係だという声明を発表しました。しかし実際には事件の2日後には秘密裏に会合が行われ盗聴作戦の計画が記されたファイルなどの証拠を処分するよう指示が出されていました。

1972年6月30日ー実行犯たちの裁判が始まる

侵入犯5人の大陪審

6月30日から侵入犯5人の大陪審がワシントン連邦地方裁判所で始まります。彼らは侵入したことについては認めましたが、依頼主と大金の出所については口を割りませんでした。初動捜査で浮かび上がったハントも行方をくらましていて見つからないままでした。

同じころ特捜部は侵入犯の一人である元CIA工作員のバーナード・バーカーの事務所の通話履歴から、犯行当日に12回も通話している番号を発見します。その後この番号が大統領再選委員会財政顧問だったジョージ・ゴードン・リディのものであることを突き止めます。

ジョージ・ゴードン・リディ

リディが逮捕されたことでハントも出頭し逮捕されます。2人の逮捕を受けて実行犯5人と合わせた7人の大陪審が1973年1月8日から開始され、マッコードとリディを除く5人が有罪を認めました。

1973年3月23日ー政権が関与している疑惑が深まる

事件を担当したアーチボルド・コックス特別検察官

政府に見限られ事件の首謀者にされかけていることに気づいたマッコードは、事件を担当する裁判長に「何もしゃべるなと政治的圧力を受けている」「公判でいくつかの偽証があった」「まだ明るみになっていない関係者がいる」などの内容の手紙を送りました。

これに対して裁判長は3月23日の公判でこの手紙を読み上げてから仮判決を言い渡します。そして事件の調査に協力するなら減刑もありうると述べました。これにより一貫して無関係を貫いてきたホワイトハウスの関与が色濃くなり一大スキャンダルへと変貌していきます。

これによりニクソン大統領の両腕であった2人の補佐官が辞任を余儀なくされ、司法長官エリオット・L・リチャードソンがアーチボルド・コックスを事件の解明にあたる特別検察官に指名しました。

1973年7月13日ー録音テープの存在が公開

会話が記録された録音テープ

ニクソン大統領がどの時点からもみ消しに関わっていたかが証明できる録音テープの存在が明らかになったのが1973年7月13日でした。特別委員会に出席した大統領副補佐官によって明らかにされ、大統領執務室中の全会話を自動的に記録するシステムによってテープは録音されていました。

コックス特別検察官と上級特別委員会はこの録音テープを提出するようホワイトハウスに命じましたが、自身が不利になることを恐れたニクソン大統領はこれを拒否します。さらにワシントン地裁も提出を要求しますが、ニクソン大統領は大統領特権で拒否しました。

1973年10月20日ー「土曜日の夜の虐殺」

コックス特別検察官を解任したロバート・H・ボーク訟務長官

ニクソン大統領はテープの提出を大統領特権で拒否したあと、司法長官を通じてコックス特別検察官に提出命令を無効にするよう命じました。しかしコックス特別検察官はこれを拒否し、あくまでテープの提出を大統領に要求しました。

困ったニクソン大統領はコックス特別検察官を解任する計画を立てましたが、司法長官を初め司法副長官もこの命令を拒否し辞任してしまいます。結局司法省のナンバー3だったロバート・H・ボーク訟務長官が大統領命令を拒否できず、コックス特別検察官を解任しました。

この出来事が1973年10月20日の土曜日だったため、のちに「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれるようになります。

1973年10月31日ー大統領支持率の急速な落ち込み

土曜日の夜の虐殺後の記者会見で厳しい質問攻めに会うニクソン大統領

「土曜日の夜の虐殺」によって特別検察官を権力でねじ伏せ、多くの閣僚たちを辞任に追いやった行いは、大統領の職権乱用ではないかと批判が高まります。この一連の流れによって録音テープにはニクソン大統領にとって不都合なことが録音されているに違いないと国民に確信させる結果となりました。

これ以上テープの提出を拒否することは難しいと判断したニクソン大統領とホワイトハウスは、テープの内容を書き出した筆記録を提出します。しかし、その筆記録は完全なものではなく編集が加えられたうえ削除されている項目などもあり、ニクソン大統領の支持層からも見放される結果になりました。

1974年7月30日ー録音テープを提出

世間の批判を受けてニクソン大統領がやっと提出した録音テープにも、18分30秒にわたって削除された箇所があることが発覚します。ホワイトハウスは大統領秘書が誤って上書き録音して削除してしまったと主張しましたが、実際には念入りに加工された痕跡があり違法行為にもあたることが判明しました。

結局録音テープ提出については最高裁まで争われ、1974年7月24日に最高裁はテープに対するニクソン大統領の大統領特権の申し立ては無効として提出を命じます。この命令によって1974年7月30日、ホワイトハウスは64本すべての録音テープを提出することになりました。

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