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【年表付】山本五十六とはどんな人?死因や名言、武勇伝まとめ

山本五十六は明治17年に新潟県長岡市で生まれた海軍軍人です。日露戦争では日本海海戦に参加し、指を切り落とす重傷を負っています。

太平洋戦争では連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を指揮しました。アメリカとの戦争には反対していたものの、開戦が避けられず、できるだけ早く戦争を終わらせようと力を尽くしました。

山本五十六

奇襲に成功した真珠湾攻撃後、五十六は太平洋戦争の転機となるミッドウエー海戦の指揮をとり、大敗北を喫しました。それでも日本を救う道を探し続けましたが、戦う兵士を励まそうと前線へ航空機で移動中、アメリカ軍によって撃墜され、命を落としました。

遺品をどうしても見たいと長岡の山本五十六記念館まで行き、ゆかりの地を旅したこともある私が、山本五十六の生涯をご紹介します。

山本五十六とはどんな人?

名前山本五十六
誕生日1884年4月4日
生地新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町
(現在の長岡市坂之上町3丁目)
没日1943年4月18日
没地パプアニューギニア、ブーゲンビル島上空で撃墜
墜落現場はアク村山中
配偶者礼子(レイ、禮子)
子供義正、澄子、正子、忠夫
埋葬場所多磨霊園
(遺骨は戦後に長岡市の長興寺へ改葬)
身長5尺2寸(1m60cm)
体重65kg
学歴海軍兵学校32期卒
海軍大学校14期卒

山本五十六の記念館は?

山本五十六の故郷である新潟県長岡市に、山本五十六記念館があります。ここには、五十六最期の時に乗っていた、撃墜された搭乗機の左翼部分と座席が展示されています。

一般的に戦争の遺物は、現地の観光資源になっているものも多く、日本に持って帰ることは難しいです。しかしこの左翼部分に関しては、粘り強い交渉の末、パプアニューギニア政府の厚意で帰還しました。

他にも、山本五十六の直筆書簡やパスポートなど貴重な資料も見ることができます。

山本五十六の子孫は?

長男・義正が出版した『父 山本五十六』

山本五十六には4人の子供がいました。長男の義正は海軍のパイロットを目指していましたが、予備学生のうちに終戦を迎えます。東大卒業後、水産・製紙・電子機器会社に勤務します。五十六の孫、義正の息子である源太郎氏がご健在です。

山本五十六の最期は?

パプアニューギニアの小島・ブーゲンビル島

五十六を載せた航空機はブーゲンビル島上空で襲撃され、ジャングルに墜落しました。海軍の発表では、墜落時に戦死とされています。しかし五十六の遺体発見時、ほとんど蛆が沸いていなかったという記録があることから、絶命したのは墜落時ではなく4月19日朝ではないかとの見方もあります。

五十六の死は当時極秘事項であったため、捜索・発見に関わった兵士の多くは激戦地へ送られて戦死しており、詳しいことがわかりません。そのため、五十六が実際に息を引き取った日時ははっきりしていないのです。

山本五十六の名言は?

やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、褒めてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

山本五十六の名言として知られているこのフレーズは、上杉鷹山の言葉から影響を受けているという説もありますが、出典がはっきりせず、創作ではないかとも言われています。ただ、五十六が座右の銘としていたことは記録にあるので、五十六が大事にしていた教育の訓示ではあったのでしょう。

苦しいこともあるだろう。云い度いこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。

今や経営者たちから大人気となっている言葉ですが、五十六が部下に話していたと言われています。五十六自身、海軍内の派閥争いに頭を悩ませていました。部下にだけではなく、自分にも言い聞かせていたことなのかもしれませんね。

実年者は、今どきの若い者などということを接待に言うな。なぜなら、われわれ実年者が若かった時に同じことを言われたはずだ。今どきの若者は全くしょうがない、年長者に対して礼儀を知らぬ、道で会っても挨拶もしない、いったい日本はどうなるのだ、などと言われたものだ。

その若者が、こうして年を取ったまでだ。だから、実年者は若者が何をしたか、などと言うな。何ができるか、とその可能性を発見してやってくれ。

中才は肩書によって現はれ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。

男は天下を動かし、女はその男を動かす。

内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。

どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派にし遂げるだろう。

唯この戦争が何十年続くかと思ふとき、宇宙の一小黒子。

山本五十六にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「モナコのカジノで勝ちすぎで出入り禁止になる」

ギャンブルに強かった五十六

山本五十六記念館には、彼が愛用したギャンブルグッズが展示されていますが、五十六の博打好きは有名でした。好きを通り越してとにかく強く、博打に関する名言も多く残っています。

軍艦購入費の一部をカジノでなくした部下のために、五十六は自らモナコへ行き、その費用を取り返したそうです。2、3年遊ばせてくれたら戦艦の1〜3隻作る金ができると豪語していたと言われ、モナコのカジノ協会では山本五十六を日本人で初めて出入り禁止にしました。

都市伝説・武勇伝2「愛人とのデートには薔薇の花束」

薔薇の花束をもって逢瀬に

山本五十六には愛人が何人かいたと言われています。中でも芸者であった河合千代子とは太平洋戦争中もたくさんの手紙をやり取りがあったようで、現在もその一部の書簡が残っています。

千代子とのことではドラマのような話が伝わっています。薔薇の花束に「この花びらが散るころを見ていて」と意味深な言葉を添えて贈り、千代子は開戦のニュースを薔薇の花が落ちる様を見ながら聞いたとか。戦時下でも五十六はメガネにマスク姿で変装して千代子との逢瀬を楽しんだとか。

山本五十六の略歴年表

1884年
五十六が生まれる
五十六は旧長岡藩士高野貞吉の六男として誕生しました。父が56歳の時の息子だったので「五十六」と名づけられます。
1901年
海軍兵学校に入る
海軍兵学校で、生涯の友となる堀悌吉と出会います。
1905年
日露戦争で負傷
日本海海戦に参加し、戦闘で左手の指2本を失いました。
1916年
山本家の養子に入る
旧長岡藩家老、山本帯刀の養子になり、「山本五十六」となります。
1919年
駐在武官としてアメリカ視察
英語の習得に加え、アメリカの資源、産業を見て回ります。1926年にも大使館付武官としてアメリカに赴任しました。
1934年
連合艦隊司令長官に就任
連合艦隊司令長官に任命され、対米戦について検討を始めます。
1940年
日独伊三国同盟反対
海軍首脳者会議で日独伊三国同盟に反対するも、意見は通りませんでした。
1941年
真珠湾攻撃
連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃の指揮をとります。
1942年
ミッドウエー海戦
ミッドウエー海戦を指揮するも、機動部隊を全滅させてしまいます。
1943年
ブーゲンビル島上空で撃墜
前線視察のためラバウルから出発した五十六の乗る航空機は、アメリカ軍に暗号を読まれて待ち伏せされ、撃墜されました。

山本五十六の生涯具体年表

1884年 – 1歳「旧長岡藩にて生まれる」

現在の新潟県長岡市

旧長岡藩士高野貞吉の六男として誕生する

五十六は4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町に生まれました。父は高野貞吉といい、高野家は代々長岡藩で儒家として活躍していました。母はミネ(峰子)といい、戊辰・北越戦争に従軍して戦死した高野貞通の実子で、貞吉は婿養子でした。

五十六の名前の由来は、貞吉が56歳の時の子供だったことからきています。この時、ミネは45歳でした。

1890年 – 7歳「小学校入学」

現在の長岡市立阪の上小学校

小学校に通う

4月、五十六は長岡町立阪之上小学校に入学しました。この学校は米百俵の逸話で知られています。佐久間象山門下の小林虎三郎が、戊辰戦争で赤貧状態にあった長岡藩に寄贈された米百俵を、今食べるよりも売ったお金で人を育てるべきだと主張し、設立された國漢学校を前身としています。

小学生時代はとにかく負けず嫌いだったようで、「なんでも食べると言っても、鉛筆は食べられないだろう」とからかわれると、鉛筆にかじりついたという逸話が残っています。

聖書と英語との出会い

五十六が4〜8歳頃、長岡にはアメリカン・ボードの宣教師H.B.ニューエルが住んでおり、五十六は長岡教会の日曜学校に通っていました。ニューエルに出会い、聖書に触れたことで、五十六は信仰の道には進まなかったものの、キリスト教を深く理解するようになりました。聖書は手元に置いていたようで、山本五十六記念館には英文で書かれた五十六の新約聖書が遺されています。

1896年 – 13歳「中学校入学」

現在の長岡高校

長岡中学校に通う

五十六が入学した古志郡立長岡中学校は、前身が1872年創立の長岡洋学校です。旧長岡藩の復興のため、将来の人材育成を目的に建てられた学校で、佐久間象山の門下生であった三島億二郎が創立に関わっています。

五十六は中学生時代、野村貞という伯父の影響を受け、海軍軍人を志すようになります。野村貞は戊辰・西南戦争に従軍し、日清戦争で抜群の武功を挙げました。旧長岡藩出身者で初の海軍将官であり、旧薩摩藩出身者が多い海軍において堂々と振る舞うその姿にも憧れたのかもしれません。

また、甥にあたる高野力が病死したことも、軍人を目指すきっかけになったとも言われています。両親が、「病弱で軍人への夢が果たせなかった高野力に代わって、五十六が立派な軍人になってくれたら」と話したことが生涯のトラウマだったという説です。

1901年 – 18歳「海軍兵学校」

堀悌吉との出会い

前から2列目、左から3番目が 堀悌吉 、5番目が五十六

3月に長岡中学校を卒業後、12月16日に海軍兵学校へ入学し広島県江田島へ向かいます。五十六は32期生で、200名中2番で入校しました。同期には、生涯の友となる堀悌吉のほか、嶋田繁太郎(太平洋戦争時の海軍大臣)、吉田善吾(五十六の連合艦隊司令長官の前任者)、塩沢幸一(養命酒製造を手がける塩沢家の息子)がいます。

1904年11月14日、卒業生192名中11番で海軍兵学校を卒業しました。

1904年 – 21歳「海軍軍人としてのスタート」

バルチック艦隊の戦艦オスリャービャ

日露戦争開戦

2月、日本海軍による仁川・旅順港奇襲攻撃で日露戦争が始まります。

海軍としては、旅順のロシア艦隊を叩くことが目標でした。2月と3月に旅順港閉塞作戦を実施、そして8月にはロシア旅順艦隊、ウラジオストック艦隊との交戦が行われ、旅順艦隊の殲滅に成功しました。甚大な犠牲を払い、旅順は1905年1月2日に陥落します。

ロシアは10月、ヨーロッパにいたバルチック艦隊を旅順へ差し向けました。喜望峰を周って日本海へたどり着くのは7ヶ月後になります。

1905年 – 22歳「日露戦争で負傷」

装甲巡洋艦「日進」

「日進」の乗組員となる

1月3日、装甲巡洋艦「日進」の乗組員となります。当時「日進」は連合艦隊司令部直率となっていた第一艦隊の第一戦隊に組み込まれていました。

5月27日、日本海軍とバルチック艦隊が激突し日本海海戦が起こります。五十六の乗り込んでいた「日進」は、第一戦隊の最後尾にいました。しかし”東郷ターン”と呼ばれる一斉回頭で日進は一時先頭を進むことになり、多数の砲撃を浴びたのです。

これにより、「日進」は多くの死傷者が出ます。五十六もその一人で、左手の人差し指と中指を失い、右下腿部に大やけどを負います。

五十六本人は砲撃によって怪我を負ったと話していますが、指の怪我に関しては砲身の自爆の可能性も指摘されています。長時間砲撃を続けると、砲身自体が焼けて、硬度が衰えて自爆することがあるのです。この時に五十六が着ていた、血痕の後が生々しい軍服が、長岡市の如是蔵博物館に遺されています。

1910年〜1911年 – 27〜28歳「海軍大学校(乙種)入学」

米内光政

海軍三羽烏が出会う

12月、海軍大学校(乙種)に入学します。海軍大学校の乙種は、高等科へ進む前の教養課程です。五十六はのちに海軍大学校の甲種にも通います。

1911年5月、海軍大学校乙種を卒業したその日に海軍砲術学校高等科に入学し、12月に卒業しています。その後は海軍砲術学校教官兼分隊長、海軍経理学校教官となりました。

この時の同僚が、五十六と”肝胆相照らす仲”とも言われた米内光政です。教官時代は同じ部屋で生活していたようです。また、学生として井上成美もいました。後に対米戦争回避のために動いたこの三人は、「海軍三羽烏」「海軍省トリオ」とも呼ばれるようになります。

1913年 – 30歳「両親の他界」

両親が相次いで亡くなる

父と母を亡くす

2月21日、父である高野貞吉が85歳で亡くなります。母ミネも夫の看病で体調を崩しており、五十六は夏季休暇を利用して帰省し付き添っていましたが、夫の後を追うようにミネも68歳で他界します。

1916年 – 33歳「「山本」五十六の誕生」

山本帯刀(義路)とされる肖像画

旧長岡藩士山本帯刀の養子になる

9月20日、五十六は元長岡藩家老山本帯刀(義路)の養子となり、家督を相続します。山本帯刀は、長岡藩家老河井継之助と共に戊辰北越戦争で新政府軍を翻弄した人物です。

帯刀は戦の最中捕えられ、23歳という若さで斬首されました。先に戦死していた河井継之助と共に北越戦争の首謀者とされ、家名断絶となっていました。しかし明治になって赦免になり、山本家を再興しようと、優秀な五十六が後継に推されたようです。

1918年 – 35歳「礼子との結婚」

山本五十六と妻・礼子

旧会津藩士の娘を娶る

海軍兵学校時代からの親友、堀悌吉の勧めで、三橋礼子(レイ、禮子)を妻に迎えます。旧会津藩士三橋康守の三女で、23歳でした。

この結婚についてはいろいろな逸話が伝えられています。五十六が自分の経歴や長所・短所を書き出した手紙を礼子に送ったとか、結婚前に三橋家に行き、服を脱いで日露戦争で負った傷跡を見せた上で、この結婚を承知してくれるか確認に行ったとか。

結婚しても公務が忙しくて妻子は放ったらかしになるかもしれないし、公務には口を出して欲しくないので、それを約束してくれたら結婚して欲しいと伝えたという話もあります。

1919年〜1920年 – 36〜37歳「米国駐在」

1919年のアメリカ

米国駐在武官となる

1919年4月5日、アメリカ駐在武官に任命され、5月20日に横須賀を出発しました。アメリカでは語学習得の目的でハーバード大学に留学しましたが、出席したのはたった2日間で、アメリカの実地見学に多くの時間を割きました。石油の重要性を認識していたので、油田の調査も行っています。

また、五十六が航空に注目するようになったのも、この頃からのようです。1914〜1918年まで続いた第一次世界大戦には航空機が登場し、戦争の様相が大きく変わっていました。アメリカ駐在中、五十六は、海軍軍備には航空が必須と強く意識するようになります。

1921年 – 38歳「ワシントン会議に参加」

ワシントン会議

ワシントン海軍軍縮条約の締結

5月5日、アメリカより帰朝の命令を受け、7月19日に帰国します。

11月12日にはワシントン軍縮会議に海軍側随員として参加しました。ワシントン会議は欧米や日本が海軍力を拡大させるために行っていた建艦戦争を止めるためのもので、各国の主力艦の比率を規定し、戦艦保有を制限しました。ここで決められたワシントン体制により、東アジア・太平洋地域の安定が図られました。

1924年 – 41歳「航空に転科」

空母「鳳翔」

日本の航空発展に向けた活動

3月に欧米視察から戻った五十六は、海軍省の副官の話がありましたが断り、9月には霞ヶ浦航空隊所属となります。12月には副長に任命されました。この時に副長付となったのが三和義勇です。

航空整備の必要性を唱えていた五十六でしたが、航空機に関する知識も技術も持ち合わせていませんでした。すでに40歳を過ぎているにも関わらず、五十六はここで航空の学習に多くの時間を割きます。人を育てるには自らがやって見せなければならないという五十六の信念が伝わってきます。

空母といえば1922年に完成した「鳳翔」一隻しかありませんでした。1923年3月5日に日本人が初めて着艦に成功していますが、空母への着艦は現在でもかなりの技量を必要とする難しいものです。当時は着艦できる搭乗員は天才だけだとされていました。

しかし、着艦が天才しかできないのであれば、戦力になりません。五十六は、搭乗員の多くが着艦できるように、訓練方法を改善し始めました。

1925年〜1926年 – 42〜43歳「アメリカ赴任」

霞ヶ浦航空隊跡地

大使館付武官に任命

1925年12月1日、アメリカ在勤帝国大使館付武官に任命され、1926年1月21日、横浜を出発しました。この際、五十六の教え子ともいうべき霞ヶ浦航空隊は、五十六の乗船している「天洋丸」上空を飛び、爆撃訓練を演じて見送っています。

五十六には人を魅了するカリスマ的な側面がありました。異例ともいうべき航空隊の見送りが行われれた例を見ても、五十六が後輩たちに慕われていたことがよくわかります。

アメリカ滞在中は、石油や自動車、航空機などの視察を行い、この経験がのちに対米戦の戦略を練る際の材料となりました。1926年11月15日に帰国命令が出され、1927年3月5日に日本へ戻っています。

1928年 – 45歳「航空本部」

空母「赤城」

海軍軍令部に出仕

アメリカから帰国後、五十六は3月15日より海軍軍令部に出仕しています。軍令部は、作戦目標を立てて立案する仕事をしています。平時では仮想敵国に対する作戦立案をする部署でした。

「赤城」艦長に任命される

12月10日、空母「赤城」の艦長になります。「赤城」は当時多段式空母で、航空機の重要性を認識していた五十六は、連日のように訓練に勤しみます。

1929年〜1930年 – 46〜48歳「ロンドン海軍軍縮会議随行」

ロンドン海軍軍縮会議

ロンドンへ出張

11月12日、ロンドン海軍軍縮会議全権随員としてロンドンへ行きます。ロンドン海軍軍縮会議とは補助艦に関する海軍軍備制限についての会議です。イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、日本が参加しました。

日本側の全権は首相経験もある若槻礼次郎、海軍大臣財部彪ら4名でした。五十六は随員という立場だったので発言権はありませんでした。

1930〜1933年 – 47〜50歳「本格的に航空に関わる」

浜口雄幸

ロンドン海軍軍縮会議

1月7日、ロンドン海軍軍縮会議の日英予備交渉が始まります。1月21日にはロンドン海軍軍縮会議が開会しました。4月22日ロンドン海軍軍縮条約が締結され、イギリス・アメリカ・日本の補助艦総保有比率が10:10:6.975と決まりました。

1921年のワシントン海軍軍縮会議においては主力艦保有比率が話し合われましたが、ロンドン海軍軍縮会議で扱われたのは、主力艦の護衛艦となる巡洋艦、駆逐艦、潜水艦についてでした。

この当時、日本は協調外交、軍縮の方針を打ち出していました。海軍部内で”艦隊派”と呼ばれる加藤寛治軍令部長は、対米7割の保有比率は確保したいと強硬に主張していましたが、政府に抑え込まれてしまいます。これに怒った艦隊派は、条約調印は統帥権干犯であると非難したのです。

統帥権とは、大日本帝國憲法において天皇大権として規定されている軍隊の作戦・用兵権のことです。これは、海軍であれば統帥機関である海軍軍令部の補佐の元に発動される権利で、政府も介入できないとされていました。

ただし兵力量の決定においては天皇の編制大権とされ、内閣の補弼事項だったのですが、艦隊派はそれを拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するものだとして、政府を攻撃します。

これには、時の内閣であった浜口雄幸内閣の協調外交に不満を抱く勢力も同調することになり、浜口雄幸首相は1930年11月、東京駅で狙撃されて重傷を負い、内閣総辞職に至ります。この一件で軍部は統帥権の独立を理由に軍事問題に対する政府の介入を拒み、勝手に行動するようになるのです。

海軍航空本部

堀越二郎

12月1日、海軍航空本部技術部長に就任し、2年10ヶ月の間、日本海軍航空機の発展に力を尽くしました。英米の艦上戦闘機よりも速い航空機の開発を目指します。これがのちに傑作機と言われた九六式艦上戦闘機です。零戦の愛称で知られる零式艦上戦闘機の生みの親、堀越二郎が設計に関わりました。

技術者から、艦上戦闘機の速力を上げると、現在ある航空母艦では飛行甲板の長さが足りず、離着陸できないと相談を受けると、航空母艦を飛行機の性能に合わせて改造するから問題ないと答えたという話があります。五十六の航空機に対する方針が、のちに零戦を生む下地を作ったとも言えるでしょう。

第一航空戦隊司令官

1933年10月3日、五十六は第一航空戦隊司令長官に任命されます。日本海軍の航空戦隊です。

軍令部の独立

1933年、海軍軍令部条例と省部事務互渉規定改定が行われています。これは、軍令部の権限強化を図るものでした。陸軍ではすでに軍事を司る参謀本部は陸軍省から独立していましたが、海軍では海軍省の元に軍令部が所属していました。これを陸軍と同様に軍令部を独立させようとしたのです。

この背景には、ロンドン海軍軍縮会議で軍令部の主張が通らなかった一件がありました。今後このような事態にならないために、軍令部が打った策だったのです。

陸軍は、参謀本部を独立させたために、すでに軍事に対する政治のコントロールが効かない状態になっていました。海軍も同様の状況にするのは良くないと、軍務部第一課長であった井上成美は断固反対しましたが、最終的には伏見宮博恭王が軍令部部長の職をかけて海軍大臣を押しきりました。

1934年 – 51歳「大角人事」

堀悌吉

第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉

五十六は9月7日、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉における日本代表に任命されます。9月20日、横浜を出発し、アメリカ経由でイギリスに向かいました。

この交渉は、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約が間もなく期限切れになることから、その後をどうするかというものでした。日本政府の方針は、航空母艦や主力艦の全廃と各国が兵力量の共通最大限を決めるというものでしたが、これはどの国も受け入れられるものではなく、会議は決裂します。

12月、日本はワシントン海軍軍縮条約破棄を通告、ロンドン海軍軍縮条約については1936年1月に脱退しています。

堀悌吉の失脚

ロンドンにて会議の予備交渉に当たっていた五十六に、堀悌吉の現役引退、予備役編入の知らせが舞い込んできます。

いわゆる”大角人事”と呼ばれるこの一件は、海軍内の艦隊派と条約派の対立から起こりました。艦隊派とは主に軍令部にいた強硬派で、条約派とは主に海軍省側の、ロンドン海軍軍縮条約を受け入れる一派です。

軍令部は、ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約で意見が通らず不満を募らせていましたが、総長伏見宮博恭王が艦隊派の後ろ盾となり、条約派と呼ばれる人たちを予備役に編入させたのです。

堀悌吉は条約派の筆頭のような立場でした。予備役に編入されたのは堀悌吉以外に、軍政家として知られた山梨勝之進や東郷平八郎の信任が厚かった谷口尚真など、対米戦回避を主張した人たちでした。そのため、この大角人事は対米戦開戦の要因の一つとも言われます。

五十六自身の考えは条約派ではありましたが、一時は艦隊派と間違えられたこともあるほど、立場を明確にはしていなかったようです。しかし親友であった堀悌吉の予備役編入に気力を失ったようで、この頃の五十六の手紙には気落ちした言葉が多く見られます。

1935年 – 52歳「休養と復活の一年」

戦艦大和

長岡で休養

2月12日、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉から戻った五十六は、9ヶ月ほどを失意のうちに過ごしています。本音では条約継続を望んでいなかった政府にとって、条約交渉を熱心に取り組んでいた五十六は、疎まれる存在になっていたようです。

一時は海軍を辞めようとも思っていたようですが、堀悌吉の説得で止まります。しばらくは長岡に戻り、静養する日々でした。母校の阪之上小学校で演説をした記録も残っています。「緊張するばかりでなく余裕も必要」「静謐な環境で勉学に励むべし」といった、軍人らしくない話もしたようです。

海軍航空本部長

12月2日、海軍航空本部長に任命されます。五十六は、これからの国防の主力は航空機になるとし、航空主兵論を唱え、艦政本部と意見を戦わせました。当時、艦政本部は新戦艦建造を計画していましたが、大艦巨砲主義時代は終わると五十六は見通していたのです。

結局、1936年7月に新戦艦建造が決定します。のちの戦艦「大和」と「武蔵」です。この2艦の建造費を、五十六の主張通りに航空機や空母の建造に使っていたなら、日米戦争の経過はかなり違っていたかもしれません。

1936年 – 53歳「海軍次官就任」

二・二六事件の中心・栗原安秀

二・二六事件

1936年2月26日、陸軍皇道派青年将校によるクーデターが起こります。軍部独裁政権を樹立し、昭和維新を断行、内外の危機を打開するという目的で首相官邸、警視庁、朝日新聞社などを襲撃したのです。

時の首相は海軍大将であった岡田啓介でした。五十六は米内光政とともに岡田の救出に当たります。この時に米内光政は横須賀鎮守府司令長官でしたが、反乱軍に対する対応が水際立ったもので、五十六は米内の手腕を高く評価したと言われています。

日独防共協定

11月25日、日本とドイツは共産主義の拡大を阻止するために共同防衛措置を規定しました。付属の秘密協定では、ソ連を仮想敵国とした対策を講じています。

これを1937年11月に発展させ、日独伊三国防共協定とし、イギリスとフランスに対する枢軸体制を強化しました。のちの日独伊三国軍事同盟の母体です。

海軍次官就任

12月1日、五十六は海軍次官に就任します。海軍大臣であった永野修身が五十六の才を買って次官に推薦したと言われています。海軍次官は軍政を担う海軍省のトップ、海軍大臣の直下にいるポストです。

五十六は政治的影響力を持つ次官で、なおかつ人気があったことから、五十六の海軍次官時代は黒潮会という海軍省の記者クラブの会員が増えたと言われています。記者クラブの会員たちとの食事の席では、得意の逆立ちなどを披露して場を盛り上げたようです。

1937年 – 54歳「日中戦争に巻き込まれる」

パナイ号

米内光政の海軍大臣就任

2月2日、林銑十郎内閣が発足します。五十六は海軍大臣に米内光政を推薦するよう、前任の海相永野修身に働きかけ、実現させました。米内は海軍大臣の職を、第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣(1939年8月30日総辞職)まで担います。

10月20日、井上成美が海軍省軍務局長に就任します。米内光政、井上成美、そして五十六の”海軍三羽烏”が揃いました。

日中戦争勃発

1931年の満州事変以来、日中間の対立は激化していましたが、1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争に発展します。これは陸軍が始めた戦争で、海軍は賛同していたものではなかったようですが、五十六は日中戦争収束への行動は起こしていません。

しかし海軍も上海で海軍大尉が射殺された事件をきっかけに戦闘を始めます。8月13日、第二次上海事変が起こると、翌日から海軍航空隊による中国本土への空襲が始まります。中国奥地の軍拠点を爆撃する、”渡洋爆撃”とも呼ばれる往復二千キロに及ぶこの長距離爆撃は、大きく報道されました。

五十六は海軍次官として外交問題に携わります。12月12日に起きたパナイ(Panay、パネーとも呼ばれる)号事件もその一つです。パナイ号事件とは、中国揚子江に停泊していたアメリカ砲艦パナイ号を、日本海軍機が爆撃して沈没させた事件でした。

12月は日本軍による南京攻略戦が行われていました。そのため日本は12月8日に第三国の人たちに対し、南京から立ち退くように申し入れをしています。しかし中国軍の中には、揚子江沿岸で交戦地域外へ脱出する外国船を隠れ蓑にして撤退するものもいて、日本軍による誤認砲撃が起きていました。

パナイ号事件もその一つで、アメリカでは日本が故意に攻撃したのではないかと報道され、対日感情が悪化します。しかし日本海軍の砲撃に巻き込まれ、日本陸軍にも死傷者が出ていることから、五十六は駐日アメリカ大使への謝罪と事件検証結果の報告を早急に行い、事態を収束させます。対米戦を回避したい五十六の意思が見て取れる対応です。

1938年 – 55歳「日独伊三国同盟交渉」

井上成美

日独伊三国軍事同盟締結に反対

第一次三国同盟の交渉が始まったのは、1938年夏頃でした。イギリス・フランスとの対立を深めていたドイツは、日独伊防共協定をイギリス・フランスも対象にした軍事同盟にしようと日本に働きかけます。これに対し陸軍は積極的な姿勢を見せますが、海軍は断固反対したのです。

海軍大臣米内光政、海軍次官山本五十六、海軍省軍務局長井上成美の三人は、日独伊三国同盟を結べば、アメリカとイギリスを相手に戦争が始まることは確実で、戦争をすれば負けると明言していました。対米戦となれば海軍が主軸なので、負けるとわかっている戦争を認めるわけにはいかなかったのです。

この陸海軍の対立は、世間にあまり知られていませんでした。しかし五十六は海軍次官という立場上、記者と話す場が多く、同盟締結反対を常に言い続けていたため、陸軍や右翼から目をつけられることになります。暗殺の危険がささやかれるようになったのはこの頃で、遺書も残していました。

1939年 – 56歳「連合艦隊司令長官」

ノモンハン事件

ノモンハン事件

5月、満州国とモンゴル人民共和国との国境で、日ソ両軍の武力衝突が起きます。この戦闘で日本は死傷者約2万人という壊滅的な打撃を受けました。陸軍はこの敗戦から、ドイツがソ連を牽制してくれる日独伊三国軍事同盟の締結を渇望するようになります。

日米通商航海条約の破棄通告

日米通商航海条約の破棄によって、日本とアメリカの貿易関係が途絶えました。これは、日中戦争を続ける日本へのアメリカの抗議の表れでもあります。五十六たちは、石油などの資源を輸入に頼っている日本が戦争を始めたところで、貿易が断たれてしまえば実質的に戦えなくなると警鐘を鳴らしていました。しかし貿易が断たれ、それが徐々に現実味を帯びてきます。

この一件により、資源を東南アジアに求めるしかないと南進論が主張されるようになります。

独ソ不可侵条約

8月、ドイツとソ連が、相互不可侵、第三国との交戦時における他方の中立維持などを規定した独ソ不可侵条約を締結します。

ソ連を仮想敵国として定めた日独防共協定の存在があるにも関わらず、なぜこんな事態に陥るのかと、当時の首相平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という言葉を残して総辞職しました。

独ソ不可侵条約が結ばれた背景には、日本が海軍の反対で日独伊三国軍事同盟を結べなかった一件がありました。ドイツは、ヨーロッパで戦争が起きた際、太平洋方面の英米海軍勢力抑止として日本に期待を寄せていました。そこで日本との同盟を望んだのです。

しかし同盟が難しいと悟り、ドイツはソ連との関係改善に進みました。ドイツにとって、対アメリカが重要課題であって、そこをクリアするためにはソ連との提携もやむを得ないという判断だったのです。

幸か不幸か、独ソ不可侵条約締結によって、日独伊三国軍事同盟交渉は一旦棚上げになります。

人事異動

吉田善吾

8月30日、五十六は連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令官に任命されます。”連合艦隊司令長官”という肩書きからすると栄転のようにも聞こえますが、これは海軍大臣だった米内光政が、五十六の身を案じて決めた人事でした。平沼騏一郎内閣総辞職を受けて、米内光政も海軍大臣の職を下りますが、後任は海軍兵学校時代の同期、吉田善吾が務めました。

五十六は吉田の元で次官を続けたかったようですし、海軍省内には五十六を海軍大臣に推す声もあったようです。しかしこのまま軍政側にいると五十六は暗殺されるという米内の懸念から、連合艦隊司令長官に任命されました。

吉田善吾は第二次近衛文麿内閣でも海軍大臣を務めます。吉田も三国同盟締結には反対していましたが、最終的には外相松岡洋右の巧みな言葉に説き伏せられ、同盟締結に同意します。しかし事態は吉田が懸念した通りの対米戦へと傾き、心痛から自殺未遂を図っています。

第二次世界大戦勃発

9月1日、ドイツはポーランドへ侵攻を開始したため、ポーランドと条約を結んでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦を布告、第二次世界大戦が始まりました。

阿部信行内閣は大戦不介入を表明していました。また、ドイツの破竹の勢いに三国軍事同盟の機運が再度高まりを見せる中、昭和天皇が首班は陸軍からではなく海軍の米内光政をと望まれて組閣した米内光政内閣も(1940年1月16日成立)、軍事同盟には消極的で、大戦不介入方針を貫きます。

アメリカ・イギリスとの関係改善を図りますが、ドイツのヨーロッパでの快進撃に、国内は「バスに乗り遅れるな」が合言葉となって南進論(東南アジアを攻略して資源を得ると同時に、欧米に代わって日本が「大東亜共栄圏」を築くという説)が勢いを増します。陸軍の圧力で米内内閣は倒閣するのです。

1940年 – 57歳「日独伊三国軍事同盟締結」

日独伊三国軍事同盟締結の記念祝賀会

海軍首脳会議

9月5日、海軍大臣吉田善吾が神経をすり減らして辞任、代わりに及川古志郎が就任します。この人選は、陸軍と協調できる海軍軍人という近衛文麿首相によるものでした。

9月15日、及川海軍大臣により三国同盟について話し合う海軍首脳会議が行われます。五十六も会議に参加するために上京しました。

五十六は、同盟成立となれば必ず負けるとわかっている対米戦をすることになると言います。そして連合艦隊司令長官として、戦争するなら、勝つために航空戦力を充実すべきで、そのためには年月が要ること、そしてイギリスやアメリカからの資材が入らなくなったらどう戦うのかを問いました。

しかし及川は、この五十六の発言に明確な答えはせず、とにかく同盟に賛成してもらうとの一言で会議を終えてしまうのです。

五十六は海軍の政務からは離れているため、これ以上の意見具申はできなかったようです。また、伏見宮軍令部長が同盟締結に了承している以上、その部下となる司令長官の立場では強く異議を唱えられない海軍の組織的な問題もあったと考えられます。

9月27日、日独伊三国軍事同盟は締結されました。

近衛文麿との会談

近衛文麿

五十六は近衛文麿に呼ばれて会見を行っています。日米戦争の見通しを聞きたかったようです。この時の五十六の返答はよく知られています。

「それは是非やれと云われれば初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願いたい。」

五十六としては、できる限り対米戦を避けて欲しいけれども、開戦してしまう場合は、最初のうちはどうにかするので、戦争は長引かせず、早めに政治的な決着をつけて欲しいという意図だったようです。

北部仏印進駐

9月23日、陸軍は北部仏印進駐を開始しました。仏印とはフランス領インドシナのことで、現在のベトナム、ラオス、カンボジアにあたります。仏印の鉄道はアメリカ・イギリス・フランスが支援する中国の蒋介石政権への援助物資ルートであったので、陸軍はこれを遮断することを考えたのです。また陸軍は、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)など南方資源地帯を占領したいと考えていて、北部仏印はその足がかりにしたいという目的もありました。

結局、北部仏印進駐はアメリカの猛反発を招きます。この4日後、日独伊三国軍事同盟が締結されたこともあり、アメリカとの対立は決定的なものになりました。

1941年 – 58歳「真珠湾攻撃」

真珠湾

ハワイ攻撃の立案

1月7日、五十六は及川古志郎海軍大臣に書簡を送り、ハワイ攻撃を進言しています。「戦備ニ関スル意見 覚」と題された手紙には、対英米戦を想定した戦備、訓練、作戦方針、開戦時に採るべき主作戦計画要項が書かれていました。真珠湾にいる米軍を航空部隊で強(奇)襲し、初日に勝敗を決する覚悟で臨むという作戦です。

五十六はこの真珠湾攻撃案を、第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎にも伝えています。そしてこの作戦を実行するためにはどういう方法をとるべきか案を出すように話しています。大西は五十六と同じ航空主兵論者でした。神風特別攻撃隊を創った一人として知られ、のちに「特攻の父」とも呼ばれます。

2月、大西は第一航空戦隊参謀であった源田実に作戦計画案を作るよう依頼し、源田の素案に大西が手を加え、3月初旬に五十六へ提出されます。そして連合艦隊司令部の首席参謀、黒島亀人らによって成案され、4月10日に軍令部へ提出されます。

源田実は戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、戦後は航空自衛隊に入り、ブルーインパルスを創設します。東京オリンピックで空に五輪の輪を描く案を出したのは源田実です。

黒島亀人

連合艦隊司令部の首席参謀であった黒島亀人は、この大西案を成案にするために裸で部屋に篭っていたと言われています。部屋を出るときにはシャツを着せるよう従卒が気にかけていたほど、変人ぶりは有名でした。日露戦争で活躍した奇人、参謀の秋山真之を意識していたのではないかとの説もあります。

五十六は、黒島が変わった物の見方をする点を気に入り、傍に置いていました。しかしこの黒島重用に関しては、批判的な意見もあります。

黒島は連合艦隊首席参謀時代から、体当たり攻撃(のちの特攻)の案を出していました。真珠湾攻撃でもその話が出ましたが、五十六は、兵が帰ってこられない作戦は認められないとして一蹴しています。五十六の死後、黒島は軍令部第二部長に就任しますが、これが海軍特攻の契機になったとも言われます。黒島は、五十六の下にあってこその参謀だったのかもしれません。

世界で初めて空母を主体とした艦隊の誕生

4月10日、連合艦隊が再編成され、第一航空艦隊が誕生します。統一されていなかった航空兵力の指揮系統を一本化し、艦隊司令長官の元に集めたのです。世界的に見ても、航空戦力の重要性がようやく一部に理解されようかという時代で、日本はその先駆けとなる航空艦隊を作りました。

司令長官には南雲忠一、参謀長には草鹿龍之介、航空参謀に源田実が就任します。南雲忠一は水雷を極めた軍人ではありましたが、航空に関しては素人同然だったようです。しかし海軍の”年功序列”によって航空艦隊司令長官になります。航空作戦に関しては実質的に参謀の源田実が仕切っていました。

連合艦隊の再編成は、真珠湾攻撃のために行われたものではありませんでしたが、結果的にハワイを攻撃するのに最適な機動部隊が誕生することになりました。五十六の真珠湾攻撃作戦は、一歩現実味を帯びることになります。

日ソ中立条約

日ソ中立条約調印

4月、松岡洋右外務大臣は、ソ連のモロトフ外相と日ソ中立条約を締結します。領土保全・不可侵と中立友好を定めました。日本は南進政策を固めていたことと、ソ連はドイツと日本の両面攻勢を避ける目的で締結されました。この条約によりアメリカは、日本が南進政策を進めることに一層警戒するようになります。

南部仏印進駐

7月2日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」に基づき、7月28日に南部仏印進駐が始まりました。

アメリカは報復措置として、在米日本資産凍結、対日石油輸出の全面禁止を実施します。イギリス、オランダ、中国もこれに追随し、いわゆるABCD包囲網(America,Britain,China,Dutchlandの頭文字)で対日経済封鎖を行ったのです。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、これは大打撃でした。経済的な理由で屈服するよりは、アメリカと戦争して事態を打破したいという軍部の主張が高まり始めます。

戦争回避の手立て

対米戦争一直線のように見える事態ではありましたが、昭和天皇も近衛文麿首相も、あくまで日米関係の改善を望んでいました。そのため、駐米大使野村吉三郎が4月より日米交渉を進めています。しかし南部仏印進駐により、この交渉も暗礁に乗り上げていました。

五十六も対米戦の立案もする一方で、戦争を回避することを考えていました。対米戦反対派の米内光政を軍令部総長にする方策です。しかし米内光政は1940年に首相指名された際、予備役に編入しており、現役復帰をするのは難しいという事情がありました。

五十六は、対米戦の方向で動きつつも、戦争が回避できればいつでも軍を反転させて帰る覚悟で臨むことになります。

真珠湾攻撃案が採用されるまで

南雲忠一艦隊長官

五十六とは別に、海軍軍令部では6月頃から作戦計画の立案をしていました。「漸減邀撃作戦」と呼ばれる、戦艦を中心とする海戦で、太平洋でアメリカ艦隊を叩きのめすという作戦です。

これは日露戦争でロシア艦隊を撃滅した時の戦法でした。ある意味、海軍はあの時の勝利体験から逃れられずにいたとも言えます。しかし、日露戦争の日本海海戦の時とは違い、太平洋は広く、またアメリカを待っていてはいつになるかわからないという問題がありました。

一方、五十六の提示した真珠湾攻撃については、危険すぎるとして反対する者が多くいました。日本海軍にとって虎の子とも言える空母を全て失うことの危惧はもちろん、そもそもこのような奇襲作戦が成功するのかと不安視する声が多かったのです。

9月、五十六は極秘裏にハワイ作戦特別図上演習を行います。第一航空艦隊は戦果を挙げるも空母全滅という判定結果でした。この時五十六は、南雲艦隊長官に、実戦ではこのように全滅することはないと声をかけています。

しかしこの演習結果から、第一航空艦隊の首脳部は、作戦反対の意思を強くします。10月3日、草鹿龍之介と大西瀧治郎が代表して五十六の元へ直談判へ行きました。真珠湾攻撃はあまりにも投機的すぎること、それよりも米航空兵力が増強されているフィリピン航空撃滅作戦を行いたいと伝えます。

五十六は、日本本土が焦土となることを防ぐためには、ハワイ作戦はどうしても実行しなくてはいけないと、断固たる決意を伝えます。この五十六の姿を見て、大西はもはや実行以外にないと腹を決めます。草鹿も五十六の信念を受け入れ、従うことを誓うのです。

対米戦が始まったら東京は何度焦土と化すだろうかと、五十六はかなり早い段階から危惧していました。真珠湾攻撃以降も五十六はハワイ攻略作戦にこだわりますが、その背景にはアメリカの日本本土爆撃を避けたい五十六の思いがあったようです。

10月5日、草鹿は南雲長官に談判の様子を伝え、ハワイ奇襲作戦の実行へ向けて計画の完成を目指します。この段階で連合艦隊としての方針はハワイ攻撃と決まったのです。

一方、軍令部は依然としてハワイ攻撃を容認していませんでした。10月9日、五十六は首席参謀の黒島亀人を軍令部に派遣します。

黒島は、「この案が採用されなければ、山本長官は連合艦隊司令長官の職を辞すると伺っている」と伝え、この恫喝に永野修身軍令部総長が屈する形でハワイ奇襲作戦は正式採用となりました。

ハワイ奇襲作戦の問題と相前後して、10月6日海軍首脳会議が開かれていました。及川海相など海軍省側と、軍令部側の永野修身総長らが対米戦に対する海軍の意見を話し合いました。この時点でも海軍としては陸軍の開戦論には反対する方針だったのです。戦争をすれば負けるというのが海軍の共通認識でした。

しかし永野だけはその意見が揺らいでいました。どうにか勝てるかもしれないという根拠なき思いがあったのです。及川海相が、陸軍と喧嘩になる覚悟で撤兵交渉をするという発言をすると、「それはどうかな」と否定的な声をあげ、海軍は不戦を明言できなくなりました。

東条英機内閣発足

東条英機

10月に入ると、日米交渉は”デッドロック”に至ります。そのため陸軍は、対米戦を開始すべしと要求し始めます。近衛文麿首相は、アメリカが要求している日本軍の中国からの撤兵を陸軍に求めますが、全く聞き入れられません。このような事態に近衛文麿は政権を投げ出してしまいました。

代わって組閣したのは東条英機でした。現役の軍人による内閣発足に、アメリカは日米交渉の妥結見込みがないと考えるようになります。

開戦へ秒読み段階に入る

11月1日と2日に行われた政府連絡会議で、開戦準備と対米交渉を並行して進めること、12月1日までに交渉妥結に至らなければ、戦争に突入することが決められます。

11月5日、永野軍令部総長は五十六に対し、作戦命令を下しました。連合艦隊は出撃準備を命じます。

13日、連合艦隊の各艦司令官、参謀長、作戦参謀を集めて最後の会議を行いました。この席で五十六は、対米交渉成立となったら、即刻引き上げるように命じています。南雲長官が、一旦出撃してから引き返すことなどできないと言うと、「100年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて帰ってこられないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁止する。即刻辞表を出せ。」と言い放ったといわれています。

11月17日、大分の佐伯湾に真珠湾攻撃参加の機動部隊が集結し、五十六の長官訓示が行われました。

真珠湾攻撃は奇襲であるため、作戦計画の秘匿が絶対でした。機動部隊の艦船は、日時をずらして出港し、11月22日に択捉島単冠湾に集結します。五十六は機動部隊に参加せず、山口県柱島に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」にいました。

開戦決定

昭和天皇

12月1日、御前会議が行われました。奇襲攻撃が12月8日と決まります。開戦が決定し、五十六は東京へ向かいました。12月3日には天皇に拝謁しています。

最期の別れを告げる

上京中、五十六は親しい人々にそれとなく別れを告げています。12月2日には親友、堀悌吉と会っています。3日には自宅へ戻り、家族との最期の時を過ごしました。

堀悌吉には、五十六は以前から手紙で心情を伝えていました。10月11日の手紙には、自分の意思とは逆の、開戦の方向に向かっていることについて、「誠に変なもの」で、「之も命というものか」と述べています。

真珠湾攻撃

12月2日、連合艦隊司令部は山本五十六司令長官名で機動部隊に「新高山登レ一二〇八」を打電します。これは、12月8日午前0時を期して戦闘を開始せよという命令の暗号文です。12月8日午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)、攻撃機の発艦が始まりました。

五十六は柱島に停泊していた「長門」の作戦室にいました。無線電信室から「トラ・トラ・トラ(我奇襲に成功せり)」の報告が届きます。真珠湾奇襲第一撃は成功したのです。

この第一撃で真珠湾に停泊中のアメリカ艦艇の多くを撃沈させ、爆破していましたが、石油タンクやドック施設はほとんど無傷でした。そのため、第二撃を求める声も多くありましたが、南雲長官は攻撃を指示しませんでした。

連合艦隊司令部でも、敵信の傍受から真珠湾でのアメリカ軍が混乱に陥っていることがわかったため、五十六から南雲へ攻撃指令を出すべきではないかという意見も挙がりました。しかし五十六は南雲に任せると答え、きっと南雲はまっすぐ帰るだろうと呟いたといわれています。

遅れた最後通牒

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃の際に五十六が神経を尖らせていたのは、アメリカへ「対米覚書(最後通牒)」を手渡すタイミングでした。真珠湾攻撃は奇襲攻撃であるものの、”法にかなう奇襲”でなくてはならず、そのためには真珠湾攻撃の前にアメリカ国務長官へ最後通牒が手渡されなければならないからです。

しかしワシントンの日本大使館は、この覚書の重要性を認識しておらず、覚書が書かれた電報が届いたのが土曜日だったこともあり、大使館員たちは覚書の清書もせずに帰宅してしまったのです。

五十六が最後通牒を手渡すよう指示していたのが12月7日13時で、その30分後に真珠湾では第一弾投下を予定していました。しかし準備が間に合わず、野村駐米大使がハル国務長官に最後通牒を手渡したのは14時20分。14時5分の時点でハル国務長官はすでに日本軍のハワイ攻撃を知っていました。

五十六は、真珠湾攻撃によってアメリカ国民の戦意を削ごうとしていましたが、アメリカへの最後通牒が遅れたがために、真珠湾攻撃は騙し討ちと化し、逆にアメリカ国民の戦意を盛り上げてしまったのです。「リメンバー、パールハーバー」の合言葉のもと、アメリカ議会は対日戦を決議しました。

五十六の望む「早期決戦、早期講和」の道は、初っ端から崩れつつありました。

次期作戦計画

本来、海軍の作戦立案は軍令部が行っていました。しかし真珠湾攻撃に関しては五十六が強硬に主張して実行を承諾させます。結果的にその作戦が当たってしまい、これ以後連合艦隊の作戦計画が軍令部でスムーズに受け入れられるようになります。

日本海軍は作戦を第一段と第二段に分けて考えていました。第一段攻撃は真珠湾攻撃、フィリピン、マレー、香港などの攻略で、1942年3月に完了予定でした。南方の資源確保が目的です。

第二段攻撃についてはミッドウエー攻略などは内示されていましたが、具体的に決まっておらず、これを詰める必要がありました。

12月9日、五十六は次期作戦計画案としてセイロン島攻略、ハワイ攻略、オーストラリア北部進攻、ミッドウエー島攻略の4つの作戦について研究を命じます。
五十六は、ハワイ攻略によってアメリカの戦意を喪失させ、戦争を終わらせることを考えていました。ハワイ攻略のためには、日本とハワイの間にあるミッドウエー島の占領が不可欠だったのです。

1942年 – 59歳「運命のミッドウエー海戦」

ミッドウェー島

暗号解読

1月20日、ポートダーウィン沖で沈没していた日本の潜水艦がアメリカによって引き上げられました。この潜水艦に残されていた暗号関係書類がアメリカの手に渡り、これ以降、日本の暗号は解読されるようになります。

作戦の対立

海軍軍令部の方針は南方資源地帯の確保が最優先でした。そのためにアメリカとオーストラリアの分断作戦を主張していました。オーストラリアはアメリカの足場であったからです。

一方、連合艦隊司令部はハワイ攻略を計画していました。五十六は軍令部を納得させるため、フィジー・サモア・ニューカレドニア諸島の攻略も作戦に組み入れ、案を提出します。それでも軍令部は受け入れず、最終的には「五十六が職をかけて案を通す」という態度で連合艦隊案が決定しました。

五十六はあくまでハワイ攻略のためのミッドウエー攻撃というスタンスであり、ミッドウエーを具体的にどう攻めとるかについては首席参謀の黒島亀人に任せていました。しかしこの作戦案は、敵の調査を怠ったまま成案した、信じられないものでした。海軍の勝利が続き、驕りがあったのです。

ドーリットル東京空襲

ドーリットル隊の爆撃機

4月18日、五十六の恐れていた事態が起こりました。アメリカ航空母艦から発進した爆撃機により、日本本土が空襲を受けたのです。東京、名古屋、神戸などで550名近い死傷者がでます。民間人の犠牲者もいたことから、日本国民の動揺は大変なものでした。

この空襲を受けて五十六は、アメリカ本土空襲を行います。アメリカも日本も、相手の本土を空襲することで国民は沸き立ったため、この戦いは戦意の昂揚のためのものでもありました。

五十六はハワイ攻略を急ごうと考えます。

珊瑚海海戦

第二段作戦としてポートモレスビー攻略作戦を展開中、アメリカ機動部隊と、南洋部隊であった第四艦隊、MO(ポートモレスビー)攻略部隊が交戦したのが、5月7・8日に起きた珊瑚海海戦です。空母を中心とした機動部隊が、飛行機による攻撃で互いの艦艇を打つという世界初の空母決戦でした。

結果、アメリカも日本も空母を喪失、損傷しており、どちらが勝ったとは言えないものの、日本にとっては航空機とともにベテラン搭乗員を多く失う手痛い一戦でした。ここで失った戦力は、ミッドウエー海戦でも投入される予定のものだったからです。

しかし日本軍は、珊瑚海海戦が善戦した戦いであったとし、さらに慢心していきます。そしてミッドウエー海戦へと進んでいくのです。

ミッドウエー海戦

5月5日、ミッドウエー海戦に関する命令が発令され、25日に連合艦隊と南雲機動部隊幹部で最終打ち合わせが行われました。五十六はミッドウエー攻略が主目的ではなく、アメリカ機動部隊撃滅が真の目的と考えていましたが、五十六の真意を南雲が理解していたかどうかは定かではありません。

27日、南雲が率いる第一機動部隊は広島湾を出撃しました。ミッドウエー海戦は150隻の艦艇、1000機以上の飛行機、そして参加将兵の数は10万人という史上稀な大作戦でした。五十六はこの大部隊を指揮官として率い、5月29日、柱島を出港しています。

この作戦は実は最初から失敗していました。アメリカは日本の暗号を解読し、連合艦隊の動きを知っていただけではなく、ミッドウエー島攻略に出向くこともわかっていました。

6月4日、大本営から五十六の元に、敵機動部隊らしきものがミッドウエー方面に行動中の兆候ありとする情報が届きます。五十六は黒島に、無線封止中ではあるものの、機動部隊の南雲に転電すべきか相談しますが、南雲の乗艦する「赤城」もこの情報を傍受しているはずだから必要ないと答えています。しかし実際には、「赤城」は空母のため艦橋が低く、電報を受信できていなかったのです。

機動部隊にとって欠かせない情報であったにもかかわらず、伝えられずに南雲は5日から作戦を実行に移していきます。

第一攻撃隊はミッドウエー上空に到達し、基地の施設への爆撃を開始します。しかし滑走路の破壊は不十分だったので、第二次攻撃を「赤城」司令部に打電します。そのため艦上攻撃機につけていた艦艇攻撃用の魚雷から、陸上攻撃用の爆走に転換する作業に入ります。

一方、暗号解読により日本軍の動きを読んでいたアメリカ軍は、日本の空母に奇襲をかけようと突き進んでいました。南雲は空母襲来の報に接すると慌てて魚雷装備の再転換を指示します。

そんな中、ミッドウエー島攻撃を終えた第一次攻撃隊が戻ってきます。甲板に並んでいた兵装転換直後の第二次攻撃機を格納庫へ下さなければなりません。甲板は大混乱に陥りました。

アメリカ艦上攻撃機は、日本の機動部隊を見つけ、攻撃態勢に入ります。日本の零戦隊はアメリカ戦隊を撃墜し、空母も魚雷を逃れるための操艦を続けますが、「赤城」「蒼龍」「加賀」の三空母は奇襲を受け、火災がおきます。戦闘不能になったため、南雲は「長良」に移乗しました。

「大和」にいた五十六の元に「赤城」火災の知らせが入ると、五十六は南雲部隊の雷撃機が発艦しているかどうかを確認しようと黒島に話します。雷撃機さえあれば、敵空母の撃沈も可能だったからです。

しかし黒島はまたしても五十六の意見を聞き入れませんでした。黒島は、雷撃機は予定通り発艦しているだろうと答えたのです。実際は五十六の予想が当たっていました。空母は米軍の爆撃で甲板に待機していた攻撃機の燃料に引火、大火災を起こし、反撃の暇はなかったのです。

雷撃機

唯一残った空母「飛龍」は、攻撃隊を発進、魚雷を命中させアメリカ空母「ヨークタウン」を撃沈します。しかし「飛龍」も、アメリカ空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の急降下爆撃機の襲撃を受け、戦闘能力を失います。

「飛龍」は自沈し、日本海軍は空母4隻を失ったのです。重巡洋艦「三隈」も沈没、損失した航空機は250機にのぼり、「ヨークタウン」を撃沈した友永丈市をはじめとする有能な搭乗員100名も含め、約3500名が戦死しています。6月5日のことでした。

五十六のいた「大和」を旗艦とした連合艦隊は、南雲機動部隊の後方約555キロの位置にいたため、救援に駆けつけることはできませんでした。「赤城炎上」の報告を聞いた時、五十六は渡辺専務参謀と将棋を指していたと言われます。

「飛龍」被弾と火災の知らせを聞き、五十六は6月6日に作戦の中止を命じました。参謀の黒島は、ミッドウエー海戦敗戦の原因は南雲と草鹿にあると批判的でしたが、五十六は全ての責任は自分にあると言い、南雲と草鹿も処罰せず、新設した第三艦隊に所属させました。

これ以後、五十六はハワイ攻略という自らの作戦を主張することもなく、軍令部の作戦指示通りに動くことになります。それは、自らが望む形での和平交渉の道が断たれたこと、敗戦は避けられないという結末を予期していた故の、五十六の気力を失った姿だったのかもしれません。

ガダルカナル作戦開始

ミッドウエー海戦の次に五十六が立ち向かったのはガダルカナル作戦でした。海軍軍令部は、ガダルカナルに基地を設営しようとしていました。

ガダルカナル島の戦いは死者2万人(餓死者1万5000人)ともいわれる大きな犠牲を払ったことはよく知られていますが、そもそも陸軍がガダルカナル島にいるアメリカ軍が偵察部隊だと思い込んでいたことが悲劇の始まりでした。五十六は、ガダルカナルのアメリカ機動部隊の上陸作戦は偵察でなく本格的なものであり、陸軍の見立ては間違っていると考えていたようですが、ミッドウエー海戦の敗戦以来、五十六が軍令部に意見をすることはなくなっていました。

南太平洋海戦

南太平洋海戦

陸軍のガダルカナル島上陸作戦を成功させるため、海軍も支援に動きます。8月16日、南雲が率いる第三艦隊が日本を出発、五十六も「大和」で17日に出撃しました。この日五十六は故郷に「あと百日の間に小生の余命は全部すり減らす覚悟に御座候」と伝えています。

南雲の機動部隊は8月24日、第二次ソロモン海戦に臨みます。この頃戦艦「大和」で、トラック島から出撃する航空機や駆逐艦に帽子を振りながら見送る五十六の姿が目撃されています。9月、五十六は「若人ら 死出の名残の一戦を 華々しく戦ひて やがてあと追ふわれなるぞ」という一文を書いていますが、五十六の死の覚悟が垣間見えるようになります。

10月26日、ガダルカナル島飛行場を占領するため、南太平洋海戦が行われます。連合艦隊の、五十六の最後の勝利となった戦いとして知られていますが、日本軍の損害も甚大でした。

確かにこの海戦でアメリカの空母を殲滅し、一時は稼働空母が全滅しましたが、それと引き換えに日本も空母を失っただけでなく、零戦を含む航空機100機余りとともに、100名以上の熟練パイロットを失います。

1943年 – 60歳「五十六の最期」

ガダルカナル島

ガダルカナル島撤退作戦

1942年12月31日、御前会議でガダルカナル島からの撤退が決まりました。撤退作戦は連合艦隊が行います。五十六は、兵士を一人でも多く連れて帰ると宣言し、あらゆる艦艇を使って、手段を尽くして行うことになりました。

2月に駆逐艦で撤退作戦を行い、1万1000人の兵士を連れて帰っています。アメリカ軍は日本軍の撤退に全く気づかず、数日後ようやく日本兵が全くいないことを知ったと記録にあります。

第三段作戦

海軍では軍令部主導の第三段作戦が進んでいました。五十六は、戦線を縮小すべきと考えていたようですが、軍令部は第二段までの積極的展開作戦をやめ、ビスマルク諸島、ソロモン群島、ニューギニアの占領地区死守を目標としていて、戦線は拡大したままでした。

「い」号作戦

連合艦隊は、空母の艦載機と基地の航空兵力で、ガダルカナル島とニューギニアのアメリカ軍戦力を叩く「い」号作戦を行います。

五十六は4月3日にトラック島からラバウルに入り、7日に作戦が開始されました。16日に作戦が終了するまで、五十六は日々攻撃に行く機体を直立の姿勢で見送り、帽子を振り続けたと言われています。そして4月18日、五十六は前線視察に赴くのです。

海軍甲事件

搭乗員に敬礼する五十六

五十六の視察は危険すぎると多くの司令官が反対しました。しかし五十六の意思は固く、強行することになります。
4月13日、五十六の巡視計画が前線に電報で送られます。五十六の行動予定が長文で綴られており、暗号を解読していたアメリカにとっては、願ってもない情報になりました。日本軍は、アメリカに暗号を読まれているとは考えていませんでしたが、それにしても長官の行動を仔細に電報で送ること自体、油断しすぎていると言わざるをえません。

アメリカ側には五十六の情報が筒抜けだったので、五十六襲撃を検討し始めます。しかし、五十六の搭乗機を撃墜することは、アメリカが暗号を解読していると日本に教えるようなものでした。また、五十六亡き後、もっと優秀な軍人が連合艦隊司令長官につけば、アメリカに不利になります。実際に五十六の搭乗機を撃墜すべきか、アメリカでも悩んだことが記録に残されています。

しかし山本五十六という人間が戦死することは、日本国民にとって大打撃となること、優秀な海軍軍人はほとんど戦死しており、五十六に代わって長官の座に就く人は恐れるに足らずという判断から、攻撃実行が決定されるのです。

4月18日6時、予定通り出発しました。一番機には五十六が乗り、二番機に宇垣纏参謀長、そして直掩として6機がつきました。

7時30分、15分後にバラレ到着予定と機長に知らされた頃、異変が起きます。アメリカ軍戦闘機24機に出くわし、五十六の乗る一番機は撃墜されるのです。炎と黒煙をあげてジャングルに落ちていく一番機を、二番機や直掩の零戦が絶望的な気持ちで見送りました。

ラバウルに残っていた渡辺安次参謀は、墜落現場付近へ長官捜索に向かおうとしますが、航空機の整備が間に合わず、スコールが激しいこともあって、捜索は19日朝になりました。

五十六を最初に見つけたのは陸軍でした。19日の夕方に発見し、五十六は座席に座ったまま、左手で軍刀を握り、右手はそこに添え、まるで「生けるがごとく」であったと言われています。

五十六の亡骸はトラック島に停泊中の連合艦隊旗艦「武蔵」に安置されていましたが、5月17日にトラック島から出港、21日に東京湾へ入りました。

国葬

五十六の死を公表することは国民に対するダメージも大きいと考え、軍はしばらく極秘扱いにしていましたが、5月21日に大本営発表として公表、6月5日に日比谷公園の特設斎場で国葬が行われました。葬儀委員長は米内光政でした。

5月21日、五十六は元帥に列せられます。

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山本五十六

山本五十六の小説としては一番有名な作品でしょう。山本五十六を軍人としてだけではなく、一人の人間としての魅力も描いていて面白いです。著者の阿川弘之は「山本五十六」に加え、「米内光政」「井上成美」も執筆し、海軍提督3部作としています。新潮社文学賞受賞作品です。

山本五十六 戦後70年の真実

山本五十六の親友と言われる堀禎吉との書簡が近年発見されて話題になっています。山本五十六の苦衷が垣間見られる貴重な資料を元にした、最新の山本五十六研究について書いている本です。

水木しげるの連合艦隊ー12月8日開戦70周年に送る山本五十六戦記

『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるは自らの戦争体験から、太平洋戦争にまつわる作品も多く描いています。水木しげるの戦記ものは冷静に綴られているため読みやすく、人気があります。

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山本五十六 肉声

ロンドン海軍軍縮会議の際、ロンドンから国際電話を介して録音された、五十六の肉声です。優しそうな声音で、五十六の人柄を感じさせます。

山本五十六元帥国葬

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動画はこちらのURLからご覧になれます。

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アルキメデスの大戦

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山本五十六についてのまとめ

「戦争はよくないとわかっていながら、なぜ日本は戦争を起こしたのか?」子供の頃からの大きな疑問でした。勉強していくうちに関心を持ったのが、戦争に反対していたにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を計画、実行した山本五十六でした。

幼い頃は全く理解できなかった、五十六の矛盾を抱えた軍人人生も、私自身が年を重ねると納得できる部分も多くなりました。それと同時に、いくら戦争を避けようとしても、避けられなくなる事態が起こりうることに、決して他人事ではない恐ろしさも感じます。

山本五十六は博打が好きで、愛人もいて、決して聖人君子ではないが故に、とても興味深い人生です。五十六のあがき続けた足跡をたどりながら、太平洋戦争について、そしてなぜ戦争が起きてしまうのかを考えることができたら、五十六自身も草葉の陰で喜んでくれるのではないかと思います。

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