「陽明学って朱子学と何が違うの?」
「そもそも陽明学ってどんな学問なの?」
学校の教科書では簡単な用語としてしか学ばない「陽明学」。朱子学や儒学と違って内容までは深くは教えてもらえないため、それほど重要な学問ではないと勘違いしている人も多いでしょう。
しかし、陽明学は、特に江戸時代末期〜明治維新の時代にかけて多くの人々に学ばれた学問でもあるのです。以前からあった朱子学や儒学を抑え、陽明学はなぜ学ばれたのでしょうか。そして、教科書では教えてくれない陽明学の考え方はどんなもなのか。
今回は、日本を近代化に導くきっかけとなったと言っても過言ではない陽明学について迫っていきます。
陽明学とは?
そもそものお話ですが、みなさんは陽明学について説明できますか。おそらくほとんどの人には難しい問いかけのはずです。日本への影響をお話する前に、陽明学とはどんなものなのかを知っておく必要があります。
ここでは、陽明学の概要を説明します。
開祖は儒学者である「王陽明」
陽明学が生まれたのは明の時代の中国です。儒教の新しい解釈として誕生し、「人は生まれながらにして善である」で知られる性善説を柱とする考え方をしています。
創始者は王陽明、儒学者です。ただの儒学者ではなく、当時の中国の役人採用試験「科挙」を主席で合格した優秀な官僚であり、また武将でもありました。王は、若干25歳前後で陽明学の基礎となる考え方を生み出したと言われています。
王の生み出した陽明学は中国で受け入れられたのはもちろんのこと、日本でも「王学」の名で広く親しまれました。ただ、彼自身が陽明学と名付けたわけではなく、後世の思想家によって名前をつけられたのです。
朱子学の形骸化から生まれた
王が陽明学の基礎となる考え方を生み出した背景には、朱子学の形骸化が進んでいたことがあります。朱子学とは、陽明学の誕生より約300年ほど前に誕生した、同じ儒学の一派です。
陽明学が誕生した時代、朱子学は支配者層にとって都合のいい解釈をされ、本来の思想を失っていました。具体的に言えば、朱子学は「上司の言うことは絶対、部下はただ従えばいい」とされていました。つまり、支配階級にとってこれ以上都合のいい考え方はなかったのです。
もちろん朱子学にそんな解釈はありません。しかし、正しく朱子学を学ぶものの声は届いていませんでした。この状況に声を上げ、朱子学を批判したのが王陽明だったのです。
流行り廃りの激しかった中国での陽明学
朱子学へのアンチテーゼとして生まれ、体系化された陽明学。しかし、生まれ故郷である中国では流行り廃りが激しく、完全に受け入れられるまでには王の時代から約400年待たなければなりませんでした。
王の死後すぐに陽明学は考え方の違いや、解釈をめぐる争いで弟子たちの手によって分裂します。朱子学への批判体制を貫きながら、教えの中にある言葉の意味をどう解釈するか、そこで揉めてしまったため陽明学は廃れていきました。
復活の兆しが見えたのは清の時代に入ってからです。実は日本から陽明学が逆輸入の形で、清代の知識人の目に入ってきたことが陽明学復活のきっかけでした。度重なる欧米諸国の支配や圧政に対抗できる思想として、陽明学が一躍脚光を浴びたのです。
明治維新にも影響を与えた
陽明学は、中国国内では浸透するまでに時間がかかりました。しかし、朝鮮半島や日本では、中国よりも早く受け入れられ、ごく一部の儒学者のあいだで研究・指導されていったのです。特に日本は、明治維新に陽明学の思想が色濃く残っているといわれています。
日本でも学問のメインは朱子学でした。江戸幕府5代将軍である徳川綱吉によって湯島に聖堂が作られたのは、その象徴とも言えます。ただしその根底には中国の支配理論と同じものがありました。しかし、水面下では一部の儒学者が開いた私塾において、筋の良い門下生に陽明学を教えていたとされています。
幕末の私塾で特に有名な「松下村塾」もそのひとつで、塾長・吉田松陰はその後の明治維新を指導した偉人たちに陽明学を教えていました。武士という特権階級へのアンチテーゼとして学ばせ、それが江戸幕府倒幕と明治新政府樹立へとつながったのです。詳しくはのちほど説明しますが、松陰自身は明治維新を見ることなく世を去ってしまったのは残念なことです。
陽明学における3つの思想
陽明学は儒学の一派であり、その根底には思想の柱となる考え方が存在します。いくつもの柱があるのですが、陽明学を語るうえで外せないのが「心即理」「致良知」、そして「知行合一」の3つです。この3つの柱、いったいどういう意味なのでしょうか。また、批判の対象となった朱子学とは何が違うのでしょうか。
本章では、陽明学の思想の3本柱と、朱子学との違いについて説明していきます。
1.心即理(しんそくり)
陽明学の根本にある儒学の目指す最終目標は聖人、つまり人格者になることとしています。陽明学もそうで、最終的には聖人を目指すのです。儒学が多くの考え方に分かれているのには、考え方の違いもありますが、聖人になるまでの過程が違うことも挙げられます。
陽明学は、特に勉強を必要とせずとも、自分の良心で何が正しいかは知っているはずだと唱えています。また、聖人になるべく心も知っているはずだとも付け加えています。つまり、堅苦しい勉強がすべてではなく、己の中になる聖人の心に従いさえすれば聖人になれると言っているのです。
これを「心即理」といい、それまでの「塾で学ばなければいけない」という儒学の堅苦しさから逸脱した解釈が広く日本で受け入れられました。特に庶民や下級武士の間で流行し、また、神道や仏教とも結び付く思想となったのでした。
2.致良知(ちりょうち)
陽明学を支える思想のひとつに「致良知」と呼ばれるものがあります。「知」の文字が含まれるので、学問的な知識と思われがちですが、一生懸命勉強することを否定した陽明学においては意味が違います。
そもそも「良知」とは、人が生まれながらに持っている道徳的知識や生命の根源のこと。当然、身分や家柄、貧富の差は関係ありません。この「良知」を完全開放することを致良知と呼んでいるのです。
良知に従う限りはすべての行いが善と規定されるともされています。この致良知の考え方が革命思想と結びつき、独立運動・倒幕運動に影響を与えたのは言うまでもないでしょう。
3.知行合一(ちぎょうごういつ)
陽明学を語る上で絶対に外せない思想こそ「知行合一」です。そしてこれこそが、清代の中国知識人、そして日本で明治維新を起こした偉人たちの行動原理なのです。
簡単に言えば、考えていることと行動は同じであるとする考え方。「言うならやれ」という言葉がまさにぴったり当てはまるイメージです。これこそが陽明学が他の儒学と違う点です。
陽明学以前の儒学の考え方は、行動する前に学問を修める必要があるとしていました。机上の学問こそがすべてという考え方です。ところが王はそれを否定。実践こそすべてという、今までの儒学の思想を真っ向から否定した思想なのです。言うまでもなく、知行合一も多くの活動家の行動原理になったのでした。
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