陽明学における3つの思想
陽明学は儒学の一派であり、その根底には思想の柱となる考え方が存在します。いくつもの柱があるのですが、陽明学を語るうえで外せないのが「心即理」「致良知」、そして「知行合一」の3つです。この3つの柱、いったいどういう意味なのでしょうか。また、批判の対象となった朱子学とは何が違うのでしょうか。
本章では、陽明学の思想の3本柱と、朱子学との違いについて説明していきます。
1.心即理(しんそくり)
陽明学の根本にある儒学の目指す最終目標は聖人、つまり人格者になることとしています。陽明学もそうで、最終的には聖人を目指すのです。儒学が多くの考え方に分かれているのには、考え方の違いもありますが、聖人になるまでの過程が違うことも挙げられます。
陽明学は、特に勉強を必要とせずとも、自分の良心で何が正しいかは知っているはずだと唱えています。また、聖人になるべく心も知っているはずだとも付け加えています。つまり、堅苦しい勉強がすべてではなく、己の中になる聖人の心に従いさえすれば聖人になれると言っているのです。
これを「心即理」といい、それまでの「塾で学ばなければいけない」という儒学の堅苦しさから逸脱した解釈が広く日本で受け入れられました。特に庶民や下級武士の間で流行し、また、神道や仏教とも結び付く思想となったのでした。
2.致良知(ちりょうち)
陽明学を支える思想のひとつに「致良知」と呼ばれるものがあります。「知」の文字が含まれるので、学問的な知識と思われがちですが、一生懸命勉強することを否定した陽明学においては意味が違います。
そもそも「良知」とは、人が生まれながらに持っている道徳的知識や生命の根源のこと。当然、身分や家柄、貧富の差は関係ありません。この「良知」を完全開放することを致良知と呼んでいるのです。
良知に従う限りはすべての行いが善と規定されるともされています。この致良知の考え方が革命思想と結びつき、独立運動・倒幕運動に影響を与えたのは言うまでもないでしょう。
3.知行合一(ちぎょうごういつ)
陽明学を語る上で絶対に外せない思想こそ「知行合一」です。そしてこれこそが、清代の中国知識人、そして日本で明治維新を起こした偉人たちの行動原理なのです。
簡単に言えば、考えていることと行動は同じであるとする考え方。「言うならやれ」という言葉がまさにぴったり当てはまるイメージです。これこそが陽明学が他の儒学と違う点です。
陽明学以前の儒学の考え方は、行動する前に学問を修める必要があるとしていました。机上の学問こそがすべてという考え方です。ところが王はそれを否定。実践こそすべてという、今までの儒学の思想を真っ向から否定した思想なのです。言うまでもなく、知行合一も多くの活動家の行動原理になったのでした。
朱子学とは何が違う?
陽明学は、よく朱子学との違いを問われる学問です。確かに同じ儒学の一派であり、根底は「性善説」があるため、同じものだと思われても仕方がりません。しかし、陽明学と朱子学はまったくの別物です。
ここまで何度もお伝えしているとおり、陽明学が登場する前の儒学は、朱子学を含めて「学ぶことで聖人になれる」とするものでした。つまり学ぶ機会が得られない庶民や下級身分の人間は、その人がどれだけいい人でも、人格者にはなれないという考え方をしていました。
これに対して陽明学は「学ぶことがすべてではない」という、それまでの考え方を完全否定。行動をすることが先だと説いたのです。陽明学が受け入れられたのは社会の多数派である庶民や下級身分の人々の支持があったからです。一部では「危険思想」とも言われていましたが、高い塾代や教材を購入しなくても聖人になれる方法として広く普及していったのでした。
陽明学の影響を受けた日本人達
陽明学は、中国本土よりも、特に日本で受け入れられ発展していきました。中には実際に行動を起こした人物もいますが、彼らはいつ、どのようにして陽明学を学び、そして何をしたのでしょうか。
ここでは、3人の陽明学の影響を受けた人物と、明治以降のお話をしていきます。
陽明学者の中江藤樹
中江藤樹は江戸時代の陽明学者として有名な人物です。郷里近江国(滋賀県)で、私塾「藤樹書院」を開きながら陽明学の研究を進めていました。
もともとは朱子学に熱心だった中江ですが、のちに陽明学に傾倒していきます。形式ばかりを重んじる朱子学ではなく、生来人間には聖人になる資格を持つことが、中江を傾倒させたその理由です。
彼は、藤樹書院で主に地元の子どもたちに陽明学を教えます。その人気は国を越え、中江に師事する人物も出てきました。弟子のひとりには、陽明学者・熊沢蕃山がおり、彼もまた江戸時代を代表する陽明学者として活動を展開していくのです。
「大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎
大塩平八郎もまた、陽明学者として知られる人物です。彼が起こした「大塩平八郎の乱」は陽明学の行動理論に基づいているとして、各方面に影響を与えました。
もともと大阪町奉行所の与力であった大塩が陽明学を学び始めたのは与力退職後でした。当時、寛政異学の禁により朱子学以外の学問が認められない世の中であり、大塩はこの風潮をよしとしていませんでいた。幕府が、低下する求心力を復活させることが目的であることが目に見えていたからです。
1837年、江戸幕府と大阪商人による米の売買に関する不正に怒り蜂起します。「大塩平八郎の乱」と呼ばれるこの乱は即日鎮圧されました。しかし、元幕府役人であった与力が幕府に牙を剥いた事実は社会に衝撃を与えました。当然、朱子学者が驚きを隠せなかったのは言うまでもありません。