ヘレンケラーとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言も紹介】

「ヘレン・ケラーってどんな人?」
「『奇跡の人』を見て感動した!」
「ヘレンが言葉を習得してからどんな人生を送ったのか知りたい」

ヘレン・アダムス・ケラーはアメリカ合衆国の教育家・社会福祉活動家・著作家です。視覚と聴覚の重複障がい者でありながらも世界各地を訪問し、障がい者の教育・福祉の発展に尽くしました。彼女の存在は多くの障がいを持つ人や、福祉従事者に希望を与え、同じような障がいを持つ人への道しるべのような存在になっています。

ヘレン・ケラー

ヘレン・ケラーは日本にも頻繁に訪れ、当時の福祉施設の指導者や同じように障がいを持つ人と面会し、勇気づけたといわれています。そんなヘレンの生涯や功績を、「ガラスの仮面」という漫画を読んで「奇跡の人」の舞台に感動をした筆者が、ヘレンという人物を執筆させていただきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

ヘレン・ケラーとはどんな人物か

名前ヘレン・アダムス・ケラー
誕生日1880年6月27日
没日1968年6月1日
生地アメリカ合衆国・アラバマ州タスカンビア
没地アメリカ合衆国・コネチカット州イーストン
配偶者なし
埋葬場所ワシントン大聖堂

ヘレン・ケラーの生涯をハイライト

1904年のヘレン・ケラー

ヘレンケラーの生涯を簡単にダイジェストします。尚、この記事では以前はヘレンが視覚・聴覚・言語の障がいで「三重苦」という表現が使われていましたが、ヘレンは抑揚はないですが、話すことができたという事実から「三重苦」という表現は使っていません。また、国の障がい者制度会議により「障がい」という明記に改めたという事実に基き、「障がい」と明記しています。

また、アニー・サリヴァン先生ですが、「サリヴァン」という表記と「サリバン」という表記が使われますが、日本で古くから馴染みがある「サリバン」の表記で統一したいと思います。

  • 1880年:アメリカ・アラバマ州タスカンビアで父アーサー・ケラーとマリー・ケラーの間に生まれる。
  • 1882年:1歳半の時に高熱を出し、一命を取り留めたものの視力と聴力を失う
  • 1887年:7歳の時に家庭教師としてアン・サリバン先生が来る
  • 1888年:ボストンのパーキング盲学校に通学し始める
  • 1890年:ボストンのホーレス・マン聾学校の校長、サラ・フラーから発声術を学ぶ
  • 1894年:14歳にニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学し、発声の勉学に励む
  • 1896年:16歳の時にケンブリッジ女学院に入学、まもなく父アーサーが死去する
  • 1897年:17歳の時にサリバン先生が校長と教育方針で対立したために、ケンブリッジ女学院を退学する
  • 1900年:ラドクルフ・カレッジ(現ハーバード大学)に入学する
  • 1902年:「私の生涯」を執筆、翌年出版
  • 1904年:ラドクルフ・カレッジを卒業
  • 1906年:マサチューセッツ州盲人委員会の委員になる
  • 1909年:アメリカ社会党の入党
  • 1916年:世界労働産業組合(IWW)に共感を覚え参加する
  • 1936年:サリヴァン死去
  • 1937年:初めての訪日する
  • 1948年:2度目の訪日を果たす
  • 1952年:フランス政府からレジオン・ド=ヌール勲章を授かる
  • 1955年:三度目の訪日を果たす、この時に勲三等瑞宝章を授かる
  • 1964年:アメリカ政府から大統領自由勲章を授かる
  • 1968年:コネチカット州イーストンの自宅で死去

熱病で視力と聴力を失う

8歳の頃のヘレンとサリバン先生

障がいを負うまでのヘレンは快活で明るく、言葉の発達も早く6か月の頃には片言ですが言葉を話し、1歳には歩けるようになっていたといいます。障がいを負う前に覚えた言葉が「水」で、「ウォーウォー」と言っていたそうです。1882年2月に生後19か月で原因不明の高熱と下痢が数日間続き、一命を取り留めたもののヘレンは視覚と聴覚を失ってしまいました。

当時障がい者は教育を受けても仕方がないと、障がい者教育は無い時代でした。そんな中両親がボルネモアの眼科医の伝手で聾唖者(ろうあしゃ)の母のために聾唖の研究をし、聾教育に尽力していたアレクサンダー・グラハム・ベル博士と出会いました。

アレクサンダー・グラハム・ベル博士(電話の発明者)との出会いがきっかけとなった

ベル博士はヘレンには家庭教師が必要だと進言し、力になってくれるパーキンズ盲学校の校長マイケル・アネグスク先生を紹介し、父アーサーはすぐ先生を手紙を書いています。そして校長は優秀な成績で卒業したばかりの20歳のアン・サリバン先生を家庭教師に推薦しました。これが先生でもあり、生涯の友人ともなった「サリバン先生」との出会いでした。

サリバン先生との出会い

アン・サリバン先生

アン・サリバン先生は自身もほとんど眼が見えない経験を活かし、ヘレンの指導にあたりました。サリバン先生と出会った頃のヘレンは障がいの為に「しつけ」が出来ずに育っていました。頭はぼさぼさで、自分が気に入らないことがあると癇癪を起こしまるで獣のようだったといいます。

一度癇癪を起こすと手足をばたつかせて騒ぎ、叩いたり噛みついたりは日常茶飯事でした。サリバン先生はヘレンに、まず聾唖者に教える指文字で単語を綴ることから始めました。最初はヘレンは指文字の意味が当然わからず、指遊びと思って楽しんで綴っていたそうです。

サリバン先生は食事のマナーを厳しく教えた

そして「奇跡の人」でも有名なシーンの、手づかみで食べようとするヘレンの手を叩き、スプーンを持って食べさせようとサリバン先生とヘレンの格闘のような教育もありました。この時サリバン先生はまったく躾がされていないヘレンに従順になることと、我慢することを教えたかったといいます。

しかし両親はヘレンに「好きなものを好きなように食べさせてほしい」とサリバン先生にいいますが、それでもサリバン先生は食堂の鍵をかけてヘレンに食事の教育をしました。その凄まじい教育態度に両親はサリバン先生に反感を持ったといいます。そして家の離れでヘレンとサリバン先生の二人っきりの生活が始まりました。

奇跡の水で有名な出来事

奇跡は水を触っている時に起きた

サリバン先生が家庭教師に来て33日目の1887年4月5日に、不機嫌なヘレンを散歩に誘い、井戸のポンプにヘレンの手を持っていき水を出しました。そして冷たい水がヘレンの手に流れた瞬間に、サリバン先生はヘレンの手に「water」と何度も書きます。

映画「奇跡の人」の名シーン

するとヘレンはその時に、1歳半の時に覚えた「ウォーウォー」を思い出し、物には名前があることを再発見したのでした。それから好奇心が強いヘレンは、新しい物に触れるたびに「これは何?」と聞くようになったといいます。この瞬間は、奇跡の瞬間として映画や舞台でも多く取り上げられる名シーンとなりました。

ヘレン・ケラーの性格

ヘレンは非常な努力家だった

ヘレン・ケラーの性格は、負けず嫌いな性格で一度決意したらやめない性格だったといいます。やはり障がいがありながらも大学まで進学するには、非常な努力と忍耐が必要であり多くの葛藤があったことは容易に想像できます。しかしヘレンは自らの努力で、学びの道を勝ち取ったのです。

そして非常に心優しい性格でした。ある日孤児院の神父がサリバン先生に、盲聾で苦しむ5歳の男の子の相談をしていました。そんな時にヘレンが飼っていた犬が事故で死に、犬を寄付しようという動きが高まっていました。するとヘレンは「犬はいらないから、そのかわいそうな男の子に奨学金を送ってほしい」といいます。

パーキンズ盲学校は富裕層が通う学校だった

そしてヘレンは新聞社にもお金を求める手紙を書くなどの努力をし、1600ドルの募金を手にして孤児の男の子をパーキンズ盲学校に入学させることができたのです。この行動にも、ヘレンの他の人を思いやる心を読み取ることができます。

ヘレン・ケラーの恋愛関係や結婚

ヘレンは一度燃えるような恋をした

ヘレン・ケラーは秘書で元新聞記者のピーター・フェイガンと相思相愛となり婚約までしています。しかし独断だったこともあり、ヘレンの家族から大反対され破談になっています。理由は、特に保守的な考え方のヘレンの母が、労働運動をしていたピーターを嫌っていたからといわれています。

ヘレンの義弟によると、母はライフルをピーターに向けて「今後一生近づくな。さもなければ射殺する」と脅迫するほどだったといいます。結局ピーターはヘレンの秘書を辞めて、二度とヘレンと会うこともなく別の女性と結婚しました。ヘレンにとってこれは最初で最後の恋愛となり、生涯独身で通しています。

ヘレン・ケラーの思想

安楽死を許容すべきと考える哲学者ピーター・シンガー

ヘレン・ケラーは優生学を支持していたという事実もあります。1915年にヘレンは重度の精神障がい者、身体的奇形のある乳児に対して安楽死を支持する書簡を発表しています。内容は「人生に高潔さを与えるのは幸福、知性、才覚の可能性であり、不健康な、奇形の、麻痺した、思考をしない生き物の場合、それらは存在しない」「精神障害者はほぼ確実に、潜在的な犯罪者になる」といった偏ったものでした。

この書簡は当然かなり議論を呼びました。この思想はオーストラリアの哲学・倫理学者、ピーター・シンガーの思想との酷似を指摘されています。シンガーも安楽死の許容を提唱している点が同じだからです。福祉に力を入れていたヘレンが、命の価値に優劣をつけ、優生学を支持していたのもまた事実なのです。

ヘレンにも多くの葛藤があったのかもしれない

ただし想像の域にはなってしまいますが、やはりヘレンは影で非常に努力をし、それまでの人生で世間の偏見に嫌な思いもしたこともあったのかもしれません。今となっては知る由もありませんが、きっとヘレンにも思うところがあったのではないかとは想像することもできるでしょう。

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6 COMMENTS

匿名

わかりやすい説明ありがとうございます。
ですが所々文字が打ち間違いがありました。(私の理解がおかしいのかもしれませんが)理解があっているのか分からないのでそこだけかえてくれたらなと思いました。なんか上から目線でごめんなさい。

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みのくん

素晴しい物語、心打たれました。もちろん私もヘレンケラー女史のことは存じ上げていました。これほどの障がいがありながら立派な人生を全うされたことに感服します。サリヴァン先生および父母のおかげもありますが。

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