ヘレン・ケラーの功績
功績1「聴力・視力を失いながらも言葉を理解したこと」
ヘレン・ケラーの功績で一番に挙げることはやはり、聴力・視力を失いながらも言葉を取り戻したことではないでしょうか。障がいを負った1歳半までに唯一覚えた「水(ウォーウォー)」を思い出し、言葉の存在を思い出し理解したことは、まさに奇跡としかいいようがありません。
ヘレンとサリバン先生の半生を描いた「奇跡の人」は、英語で「The Miracle Worker」といい、「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」といった意味で実はサリバン先生を指すそうです。日本では奇跡の人はヘレンのことと用いられることが多いですが、理由はサリバン先生が初来日の時に病没し、日本でサリバン先生を知る人がごく一部しかいなかったことが誤解の原因といわれています。
しかし「サリバン先生が奇跡の人」という話を聞いても、やはり言葉を理解したヘレンも奇跡の人だったのではないかと感じてしまいます。結果どちらでも良く感じてしまい、本当に奇跡としか言いようがない出来事だといえます。
功績2「障がいをものともせずにあらゆる方面で活躍したこと」
ヘレン・ケラーは非常に活動的に多方面の運動を行いました。自身の障がいの体験から、同じように障がいを持つ人たちを助けるために5大陸・40ヶ国を訪問し、障がい者の教育と福祉の発展に貢献しました。
また、福祉だけでなく政治活動にも精力的に取り組みました。女性の参政権運動・コンドームを用いた育児制限運動・黒人への人種差別に反対し公民権の適用を求めた公民権運動にも参加しています。これらの活動のため、ヘレンはFBIの要調査人物に挙げられました。その為に最初の訪日は特別特高警察の監視対象になっています。
しかし正しいと思ったことを行動に移す行動力や、障がいを持っていても精力的に活動する姿を、同じ境遇の人はもちろんのこと、その時代に生きた人やヘレンの死後もその生きざまに励まされ、目標とされるようになったのはヘレンの偉業といえるのではないでしょうか。
功績3「ハンディキャップがある方に希望を与えたこと 」
ヘレン・ケラーは世界各国を訪問し、色々な人と会っています。その中にはヘレンに励まされた人も多くいました。日本では、「日本のヘレン・ケラー」といわれた中村久子と会っています。中村久子は凍傷のために両手・両足を切断というハンデを持っていながらも、自立した生活を送っていた女性でした。
1937年にヘレン・ケラーが来日した際に、中村久子は口と肘の無い腕を使った日本人形をヘレンに贈っています。ヘレンは中村久子のことを「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛しています。ヘレンは障がいを負った方の生きる希望の力と光を与え続けたのです。
ヘレン・ケラーの名言
「私は自分の障がいに感謝しています。自分を見出し、生涯の仕事に出会えたのもこの障がいのお陰だからです。」
非常に力強い言葉です。自身の障がいを受け入れ、自分のアイデンティティとして飛躍してきたヘレンに相応しい言葉といえるでしょう。沢山の事を自分自身に問いかけ、得た答えだったのだろうと想像できます。
「盲目よりも悪いたった一つのことは、視力があってもビジョンがないこと」
心に刺さる一言です。夢を持たず、ビジョンを持たずなんとなく生活している現在においても、振り返らせてもらえる一言です。
「世界一で最高の美しいものたちは、見ることも触れることもできない。しかし、心で感じることはできる」
「美しさ」というものは、心で感じるものなのかもしれない。目先や感触で感じるだけでなく、心で美しさを感じることは大事なのだと教えてくれます。
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ヘレン・ケラーにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「日本で初めての障がい者施設の施設長と面会していたこと」
ヘレン・ケラーの少女時代に、日本人で渡米留学していた教育者石井亮一と面会しています。ヘレンにとっては初めて会った日本人でした。石井は日本初の知的障がい者教育・福祉施設「滝乃川学園」を創立し、「日本の知的障がい者教育・福祉の父」といわれています。
石井はヘレンと会見し、知的障がいや特殊な障がいについての見識を深めたといいます。石井が開いた「滝乃川学園」は火災に見舞われたり、戦火に見舞われたり幾度も困難に直面しましたが、貞明皇后(大正天皇の皇后)を始め、渋沢栄一など多くの支援者の義援金に助けられ、現在まで相続しています。
都市伝説・武勇伝2「塙保己一(はなわほきいち)を手本として勉強したこと」
幼少時、ヘレンは同じ盲目の塙保己一を手本に勉強していたといいます。塙保己一のことは母から聞かせられていたといいます。塙保己一も胃腸病が原因で7歳に失明しました。そして手のひらに指で字を書いてもらい覚えて、手で形を触ったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができたといいます。
そして塙保己一は学才を見出され、和歌や法律・医学など幅広く習い、最後は盲人の官職で最高位の検校の職に就くことが出来た人物でした。確かに手のひらで字を書いてもらうという方法や、手で触って覚えるなど多くの共通点がヘレンの勉強方法に活かされたといえるでしょう。
都市伝説・武勇伝3「ヘレン・ケラーを快く思わない人もいた」
悲しい事ですが、ヘレン・ケラーを快く思わない人も少なからずいたそうです。日本の外交官重光葵の日記によると、巣鴨プリズンに収監されている日本軍将校たちの中には、ヘレンのニュースが耳に入ってきた際にヘレンの事を「あれは盲目を売り物にしているんだよ」とこき下ろすものもいたそうです。
それを聞いた重光葵は、「彼らこそ憐れむべき心の盲人、何たる暴言ぞや。日本人の為に悲しむべし」と彼らの発言を猛烈に批判し、見解の狭さを嘆いています。確かに悲しい気持ちにさせられる冷たい発言です。日本人の為に悲しむというのも誇張ではない表現に感じてしまいます。
ヘレン・ケラーの年表
1880年 – 0歳「アメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで誕生する」
1880年6月27日にヘレンケラーは父、アーサー・ケラーと母、ケイト・アダムス・ケラーの間に生まれました。父のアーサー・ケラーはスイスのドイツ語圏から移ったドイツ系の地主の息子で、南北戦争当時は南軍大尉のドイツ系アメリカ人です。
母のケイト・アダムス・ケラーはイングランド系アメリカ人で、母の父(ヘレンの祖父)は南軍の准将でした。両親ともに南部の名家の出身です。兄弟は異母兄が2人、同母妹が1人の4人兄妹でした。ヘレンは名家で裕福な家で何不自由なく育ちます。
1882年 – 1歳「1歳半で高熱による髄膜炎により、後遺症で視力と聴力を失う」
1歳半の時に原因不明の高熱による(猩紅熱と考えられている)髄膜炎にかかり、一命は取り留めたものの、視力と聴力を失い話すことも出来なくなってしまいました。その為にしつけが受けられない状態となり、非常に我儘に育ったといいます。
1887年 – 7歳「アニー・サリバン先生を紹介してもらう」
1987年に、ヘレンの両親は聴覚障がいの教育を研究していたアレクサンダー・グラハム・ベル博士に相談をして、パーキンズ盲学校の校長マイケル・アナグノスに家庭教師を派遣してもらっています。そして3月3日に派遣されてきたのが、同行を優秀な成績で卒業した当時20歳のアニー・サリバン先生でした。
サリバン先生は弱視であったために、自分の経験を活かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えました。サリバン先生の熱心な教育でヘレンは諦めかけていた「言葉」を習得しました。サリバン先生はその後50年間、教師であり良き友人としてヘレンを支えていくことになったのです。
ボストンのパーキンズ盲学校に通い始める
1888年の7歳の時に、ヘレンはボストンのパーキンズ盲学校に通学を始めました。以後3年間通っています。1890年の9歳の頃には、ボストンのホレース・マン聾学校に入学し、発声の勉学に励みました。ヘレンは非常に努力し、向上心をもって勉強して、ニューヨークのライト・ヒューマソン聾学校に入学し発生学の勉強を続けました。
1887年 – 16歳「ケンブリッジ女学院に入学する」
ヘレンは16歳の時に、ケンブリッジ女学院に入学します。しかし翌年にサリバンが校長と教育方針をめぐって衝突し、ヘレンは退学しています。しかし一年でヘレンは、多くの著名人と知り合い、将来への人間関係を築きました。
ケンブリッジ女学院入学前は、父アーサーに借金を抱えていたために進学を諦めてほしいといわれたといいます。しかし、我が子のように可愛がってくれていたベル博士と童話を書いていたヘレンに盗作疑惑が持ち上がったときに助けてくれたトウェーンの助けにより、1年で退学したものの、ケンブリッジ女学院に入学することができたのでした。
素晴しい物語、心打たれました。もちろん私もヘレンケラー女史のことは存じ上げていました。これほどの障がいがありながら立派な人生を全うされたことに感服します。サリヴァン先生および父母のおかげもありますが。
ありがとうございました。
とても分かりやすかったです!
ありがとうございました。
最高です
よかったです‼︎
わかりやすい説明ありがとうございます。
ですが所々文字が打ち間違いがありました。(私の理解がおかしいのかもしれませんが)理解があっているのか分からないのでそこだけかえてくれたらなと思いました。なんか上から目線でごめんなさい。