鎌倉時代とはどんな時代?特徴や出来事をわかりやすく簡単に紹介

鎌倉時代ってどんな時代?特徴は?
鎌倉時代の武士はどんな生活をしていた?
鎌倉時代の主な出来事はなにがあった?

鎌倉時代に対して、以上にような疑問を持たれる方も多いのではないでしょうか。「鎌倉時代」とは、源頼朝によって日本初の武家政権・鎌倉幕府が誕生し、武士がはじめて世の中を動かした時代です。

源氏ゆかりの鶴岡八幡宮。鎌倉武士の守護神となった

そんな鎌倉時代とは一体どのような歴史の時代だったのか?時代の表舞台に躍り出た武士はどのような生活をしていたのか?また、鎌倉時代にはどのような出来事があり、どんな人物が活躍し、文化はどうだったのか?など鎌倉時代をわかりやすくご紹介していきます。

鎌倉時代が始まって以降約600年間、武士を中心とした時代が続きます。鎌倉時代はその幕開けの時代であり、あとに続く武家政権の大きな礎になりました。鎌倉時代を理解すれば、武家政権に対する知識もより深まるはずです。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

鎌倉時代はどんな時代だったのか?

鎌倉時代はいつからいつまで?

武士が政権を主導した鎌倉時代

鎌倉時代は平安時代の次の時代で、源頼朝(みなもとのよりとも)がたてた武家政権の鎌倉幕府が政治を行った時代を指します。

そんな鎌倉時代のはじまりは、昔は源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年とされていましたが、今では鎌倉幕府の成立の捉え方から、鎌倉時代のはじまりについては諸説あります。そのなかでも源頼朝率いる源氏が平氏を倒し、守護と地頭の設置権を朝廷から認められた1185年説が主流です。これをもって鎌倉幕府が全国統治を任されたとしています。

そして鎌倉時代の終わりは後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が主導する倒幕派の武将・新田義貞が鎌倉幕府を倒した1333年です。

このように鎌倉時代は1185年から1333年までの約150年間のことを指し、この間に承久の乱や元寇などの出来事がありました。

鎌倉時代の特徴とは?

鎌倉幕府の源氏将軍は3代実朝で断絶

鎌倉時代の特徴は、平安京を離れ東国(関東)の鎌倉に政権の中心が置かれたこと、日本初の封建制(後で詳しく説明します)に基づく武家政権が誕生したことです。

源氏の棟梁・源頼朝は武力で政権を奪うと、平氏のように貴族として政治をとるのではなく、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として鎌倉幕府の頂点に立ち、武家政権を打ち立てます。征夷大将軍とは東北征伐の大将軍という意味ですが、頼朝以降、武家政権のトップの称号となりました。

また、鎌倉時代は、途中で政治の仕組みが大きく変わりました。将軍の独裁から北条氏による執権(将軍の補佐役)政治へと変わり、北条氏が実質的な幕府の支配者となりました。鎌倉時代は源氏の時代として始まり、北条氏の時代として終わったのです。

時宗を開いた一遍の像

さらに、鎌倉時代は文化も華美なものから実用性のある素朴なものが主流となりました。そして、平安末期の戦乱期からの社会不安から人々を救うべく、さまざまな仏教宗派が生まれます。仏教が武士や庶民の間にも浸透しはじめたのもこの時代の特徴です。

鎌倉時代の政治!守護と地頭が配置される

鎌倉幕府の仕組み

鎌倉時代の政治は、将軍独裁から執権政治、得宗政治へと途中で仕組みが変わります。

最初は鎌倉幕府を創設した初代将軍の源頼朝の独裁政治でした。頼朝の死後、2代目将軍頼家の時代、有力御家人の話し合いで決める合議制を経て、そのなかのひとりで頼家の外祖父である北条時政が実権を握ります。

以降、北条氏が代々執権(しっけん、将軍の補佐)の職について幕府を支配する執権政治が始まりました。とくに源氏将軍が3代目の源実朝(みなもとのさねとも)で断絶すると、貴族や皇族から名ばかりの将軍を迎え、北条氏が完全な実力者となります。鎌倉時代の後期になると、北条氏の中でも得宗(とくそう)と呼ばれる人たちが独断で思いのままに物事を決める専制体制になりました。

その幕府の政治機構は将軍、執権を頂点に、執権を補佐する連署(れんしょ)、幕府の意志政策決定を合議する評定衆(ひょうじょうしょう)があります。そして御家人を統率する侍所(さむらいどころ)、政務、財政を行なう政所(まんどころ)、裁判を担当する問注所(もんちゅうじょ)が置かれました。

地方支配には守護(しゅご)と地頭(じとう)が配されます。守護は国ごとに置かれた地方長官でその国の軍事や警察、地頭は年貢の徴収や治安維持などを担当しました。しかし、各土地には朝廷が命じた国司や土地を管理する荘官がいたため二元支配となり、しばしば争いが起こっています。

鎌倉時代の武士とは?御恩と奉公で結ばれた封建制度

堀や垣で囲まれた武士の屋敷

鎌倉時代は武士を中心とした社会です。鎌倉時代の武士といえば御家人ですが、この時代の武士がすべて御家人だったわけではありません。御家人とは将軍に忠誠を誓った武士のこと。もちろん地方の武士も将軍に忠誠を誓うしきたりを踏めば、御家人になれました。

そして将軍と御家人は御恩と奉公で結ばれました。御恩と奉公とは、将軍は御家人に領地を与え(御恩)、その御恩を受けた御家人は将軍のために働くことです(奉公)。具体的には将軍は御家人に対し、彼らの領地支配を保証する「所領安堵」や、功績に応じて所領を与える「新恩給与」を行ないます。

また御家人を地頭に任命することもありました。代わりに御家人は戦時は命をかけて将軍のために戦い、平時は幕府などの警護業務にあたったのです。

このように土地を仲介にした主従関係を封建制度(ほうけんせいど)と呼び、形を変えながら江戸時代まで受け継がれました。

鎌倉時代の武士が習得した流鏑馬

多くの御家人は先祖伝来の地で、農村を管理しながら武芸を磨いていました。とくに乗馬と弓は武士の必須技術。流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、笠懸(かさがけ)は騎射三物(きしゃみつもの)と呼ばれ代表的な武芸鍛錬でした。流鏑馬は走る馬上から的に向かって矢を射るもの、犬追物は馬に乗って犬を射止めるもの、笠懸はかぶる笠を的にしたものです。

鎌倉時代の主な出来事・年表

1185年 – 「源頼朝が守護と地頭の設置権を認められる」

源氏が平氏を滅亡させた壇ノ浦の戦い

1185年3月に源頼朝は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼします。さらに、頼朝は朝廷に圧力をかけ、11月に諸国の守護と地頭の設置権を得ました。

なお、すでにこれより前から幕府の原型は存在し、頼朝は朝廷から東国支配権も認められていました。そしてこの1185年の守護・地頭の設置権で全国支配を認められ、これをもって鎌倉時代の始まりとする説が有力です。

1192年に源頼朝は征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家政権・鎌倉幕府のトップに立ちました。

1221年 – 「承久の乱(じょうきゅうのらん)」

幕府が勝利し、その勢力を拡大させた承久の乱

3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺され、頼朝直系の源氏将軍が断絶します。これを見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は1221年、朝廷の権力回復を狙い、幕府の実権を握る執権の北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を出しました。こうして承久の乱が始まります。

逆賊になると恐れる鎌倉武士に対し、亡き頼朝の妻・北条政子が「頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い」と御家人たちに団結を訴えました。御家人たちも武家政権である鎌倉幕府が崩壊すれば、自分たちの権益も奪われてしまうと改めて気づきます。

こうして団結した鎌倉方は上皇方を次々と撃ち破り、ついに京都にまで攻め寄せたのです。勝利した幕府は後鳥羽上皇をはじめ3上皇を島流しにして、仲恭天皇は廃されて新しい天皇が立てられました。

幕府がこの承久の乱に勝利したことで、それまで朝廷の力が強かった西日本にも幕府の勢力が浸透。朝廷より優位に立った幕府は実質的に日本を統治することになりました。

1232年 – 「日本初の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」制定」

御成敗式目

3代執権北条泰時(ほうじょうやすとき)が日本初の武士のための法律「御成敗式目」を制定しました。鎌倉幕府の支配権の拡大に伴って各地で争いが増えたため、武士の道徳や慣例をまとめて全国的な規範を作ったのです。

その内容は守護・地頭の権限や裁判の規定、刑法、訴訟法、家族法、税制、土地の支配など多岐にわたります。土地について多く触れており、将軍が与えた土地の支配権を保証したこと、20年以上その土地を支配した場合、その知行主の支配と認めることなどが盛り込まれています。

この御成敗式目は、のちの時代の武家法や分国法などの基礎ともなりました。

1274年 – 「文永の役」・1281年 – 「弘安の役」

元軍の最新兵器に驚愕させられた日本軍

1274年と1281年、モンゴル高原と中国大陸を支配するフビライ・ハン率いる大帝国・元が日本に侵攻します。1度目を文永の役、2度目を弘安の役と呼び、総称して元寇または蒙古襲来といいます。

元の襲来に対し、執権の北条時宗は九州の御家人を動員して守らせましたが、元軍は「てつはう」という爆弾や毒矢も駆使して日本軍を圧倒。それでも日本軍も必死に抗戦して2度も元軍を退却させたのです。

今も福岡に残る防塁

元軍が撤退した理由について2度とも嵐が起こり、元軍を壊滅させたといわれてきました。しかし現在ではこの神風説は疑問視されています。

文永の役は、元軍は脅しのつもりで予定通りすぐに引き上げたとも、あるいは玄界灘の高波などで沈没したという説が有力です。

また、弘安の役では元軍は台風による打撃を受けたものの、それ以外にも九州沿岸に築いた防塁など日本の防衛策に圧倒されたこと、元軍の作戦失敗や食糧不足、疫病蔓延などの事情で引き上げざるを得なかったともいわれています。

日本は元軍を撃退しましたが、この戦いで幕府は新たな土地を獲得したわけでないため、御家人たちに満足な恩賞を与えることはできません。そのため出費がかさんでいた御家人たちは幕府に不満をもちました。

これをきっかけに、貨幣経済の浸透や分割相続もあり経済的に苦しくなっていた御家人たちの苦境が加速化します。幕府は1297年に借金を帳消しにする徳政令を出しますが効果はなく、逆に幕府への不満が高まり、倒幕の原動力になっていきました。

鎌倉時代の年表とは?流れや出来事の簡単な覚え方もわかりやすく紹介

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