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第二次世界大戦における日本の戦力や死者数は?参戦した経緯や影響も解説

「日本はどのように第二次世界大戦に参戦したの?」
「第二次世界大戦時の日本軍の戦力が知りたい!」
「もし日本が勝っていたらどうなってた?」
「日本の死者数はどのくらいだった?」

1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、アメリカ領ハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地に対して日本は奇襲攻撃をかけました。そして同日午前4時20分にアメリカに対して宣戦布告を行い太平洋戦争が勃発、これにより日本は第二次世界大戦に参戦しました。

激動の昭和半ばに起こったこの戦争は、その後の日本に計り知れない程の大きな影響を与えました。あまりの変化に「あの時こうしていたら」「もし戦争に勝っていたら」などと今でも語られています。

この記事では第二次世界大戦に日本が参戦することになった経緯や戦争から受けた影響、当時の日本の戦力などをご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

日本は第二次世界大戦にどのように参戦したのか?

第二次世界大戦の大まかな流れ

1939年9月1日、アドルフ・ヒトラーによるドイツ軍のポーランド侵攻が開始され、2日後の9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦は始まりました。9月17日にはソビエト社会主義共和国連邦がドイツの侵攻に対抗してバルト三国とフィンランドに侵攻を始めます。

アドルフ・ヒトラー

1940年に入るとドイツはさらに侵略を続けノルウェーやフランスを攻略しますが、イギリス上陸作戦に失敗しソ連侵攻を目論み始めます。9月の下旬にはドイツは日本、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結しました。

ドイツはソ連に侵攻を始め、日本がマレー半島とハワイを攻撃しイギリスやアメリカなどの連合国に宣戦布告します。これによって戦争は世界に広がり第二次世界大戦は激しさを増していきました。

快進撃を続けたドイツと日本でしたが徐々に連合軍に圧され始めます。1945年に連合軍とソ連軍がドイツ本土に侵攻、包囲された総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自ら命を絶ちます。日本は6月に沖縄戦で初めて本土を失い、8月には広島と長崎が原子爆弾の標的となります。

原子爆弾投下後の広島

1945年8月14日に日本はポツダム宣言を受諾し、約6年間続いた第二次世界大戦は終戦を迎えました。

日本の参戦と太平洋戦争

出兵する兵士たち

太平洋戦争とは第二次世界大戦の中でも日本対アメリカの争いのことを指しています。「太平洋戦争」という言い回しはアメリカなどの連合国側から見た呼称で、戦時中の日本国内では「大東亜戦争」と呼ばれていました。

中国に駐留していた大日本帝国陸軍の関東軍が1931年に起こした満州事変を発端として、日本と中国の抗争は激しさを増していました。そしてついに1937年に日中戦争が勃発し日本と中国の関係は悪化の一途をたどります。

泥沼化する戦局を打開するため、中国への補給物資を支援していたフランス領インドシナ政府に日本政府は圧力をかけます。これに反発する米英をけん制するため1940年に日独伊三国軍事同盟を締結させますが、かえって関係を悪化させる結果になり度重なる話し合いもむなしく交渉は決裂してしまいます。

真珠湾攻撃

1941年12月8日未明にイギリス領マレー半島とアメリカ領ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けたのち、宣戦布告を行い太平洋戦争が勃発しました。

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第二次世界大戦による日本の死者数は?

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多くの人が戦争で亡くなった。

第二次世界大戦における日本の戦没者数は「約310万人」とも言われ、そのうち軍人の戦死者数は日中戦争での犠牲者も含み約230万人とされています。

残り約80万人が軍人を除く民間人の被災者ということになります。日本国内で唯一戦場となった沖縄戦では12万人以上、東京大空襲約で約10万人、広島と長崎への原爆投下で20万人以上の民間人が犠牲となりました。

日本の戦力は?代表的な戦闘機や戦艦

零式艦上戦闘機

零式艦上戦闘機

零式艦上戦闘機は第二次世界大戦時に活躍した通称「零戦(れいせん、ゼロセン)」と呼ばれる日本でもっとも有名な戦闘機です。太平洋戦争の初期にはアメリカ兵に「地獄への使者」と恐れられ、空中での戦闘においてはほぼ無敵を誇っていました。

当時の他国の戦闘機と比べても非常に長い航続距離を持ち、3350キロもの距離を給油なしで飛行することができたといいます。爆撃機などの大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃が搭載されていました。

また零戦は機動力を上げるための徹底した軽量化が行われていました。そのため防弾燃料タンク、防弾板、防弾ガラス、自動消火装置などが搭載されておらず、被弾に弱かったという側面もあります。

米国プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館所有の飛行可能な零戦

現存する機体は「国立科学博物館」を始め日本国内外の資料館や博物館で展示されていてます。中には整備・修復が施され今でも飛行可能な機体もあり、航空ショーや映画の撮影に使用されているようです。

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