マリー・アントワネットの名言「パンが無ければ…」の真相とは?人物像や時代背景とともに紹介

マリー・アントワネットとは、18世紀後半を生きたフランス王国の王妃です。「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」のフレーズで知られており、その浪費癖が不景気に苦しむ国民の反感を買った結果、フランス革命において反革命派として処刑されました。

「マリーアントワネットの『パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない』はどういう意味?」
「『パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない』の真相について詳しく知りたい!」

この記事を見ているあなたはこのように思っているのではないでしょうか。そこで、マリーアントワネットの「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」とはどういう意味なのか、また、「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」の真相について詳しく紹介していきます。

そして、マリー・アントワネットによるこの名言について、時代背景から発言の真相まで迫っていきますので、ぜひ最後までご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

マリー・アントワネットとは

マリー・アントワネットは、1755年にオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア大公のマリア・テレジアの間に生まれました。マリー・アントワネットといえば、フランス王妃というイメージが強いかもしれませんが、出身地はオーストリアのウィーンだったのです。

1770年、マリー・アントワネットはフランス皇太子ルイと結婚しました。その後、皇太子ルイがフランス国王ルイ16世として即位したことにより、マリー・アントワネットはフランス王妃となりましたが、ヴェルサイユ宮殿で贅沢の限りを尽くすその姿は、民衆から非難を浴びる原因となったのです。

そして、1789年にフランス革命が発生すると、マリー・アントワネットは一家でオーストリアへの逃亡を図ります。しかし、逃亡計画が失敗に終わった結果、パリに幽閉されることになり、親国王派の国民からも信頼を失ってしまいました。最終的に、マリー・アントワネットは反革命派の中心人物として、ルイ16世と共にギロチン処刑されてしまったのです。

ギロチン処刑されるマリー・アントワネット

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マリー・アントワネットの名言「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」

名言の意味・内容

フランス発祥の菓子パンであるブリオッシュ

「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない」とは、マリー・アントワネットが言ったとされている「Qu’ils mangent de la brioche! (ブリオッシュを食べればいいじゃない)」を日本語に意訳したフレーズです。

この発言は、農民が主食としていたパンが無くなって食糧不足に陥っていることを知った、庶民の暮らしに疎い身分の高い女性が「ブリオッシュを食べればいいじゃない」と言い放った台詞として伝わっています。ブリオッシュとは、フランスの菓子パンであり、当時の一般的なパンと比較して贅沢な食べ物とされていました。

また、この台詞は英語の慣用句では「Let them eat cake」と言われているため、日本語で「ケーキを食べればいいじゃない」と訳されることもあります。

名言が生まれた背景

第三身分に属する市民や農民は苦しい生活を送っていた

この名言が生まれた背景には、ルイ16世の統治下におけるフランス国内で起きていた深刻な不景気がありました。その原因は、かつて農業と農民の国として知られていたフランスにおいて、気候不順な年が増えていたことにあったのです。

1770年代、ブドウの異常な豊作が続いた結果、ワインの供給量が激増してしまい、ワインの価格が下落。この値崩れは、南フランスのブドウ農家に大打撃を与えました。また、1780年代には大規模な干ばつが起こり、牧草が育たなかった結果、多くの家畜が死んでしまったのです。

そして、1780年代後半に続いた長雨や雹は穀物の栽培に被害を及ぼし、凶作が続いた結果、パンの価格が高騰しました。その影響を受けて、民衆による「パンをよこせ」と訴える暴動が発生。パンを主食としていた多くの民衆にとって、パンが手に入らなくなることは大問題だったのです。

パンを求めた暴動「ヴェルサイユ行進」を描いた絵画
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