【悲劇の王妃】マリー・アントワネットとはどんな人?性格や死因、逸話まとめ

マリー・アントワネット(以下、アントワネット)は、1755年11月2日、オーストリアのウィーンに生まれました。ハプスブルク家というヨーロッパの名門の家に生まれたお姫様です。

アントワネットは、オーストリアとフランスの同盟のため14歳という若さでフランスに嫁ぎ、フランス王妃として生きました。しかし、フランス革命が起き、38歳という若さで王妃という地位にも関わらず、処刑されて亡くなってしまいます。

アントワネットは、悲劇の王妃として語られることが多く、たくさんの映画、ミュージカル、漫画などでその生涯が描かれてきました。オーストリアの名門ハプスブルク家からフランスの名門ブルボン家に嫁ぎ、時代に翻弄されたアントワネットですが、もしも普通の貴族の家に生まれていたなら、一人の女性として幸せな人生を送れたかもしれませんね。

マリー・アントワネット

オーストリアのハプスブルク家の皇女として生まれたマリー・アントワネットは、祖国オーストリアのため、長い間敵国であったフランス王家に嫁ぎます。何も分からない遊びたい盛りの14歳という若さで結婚し、18歳の時フランス王妃となります。

当時のフランスは、以前からの財政赤字に苦しんでいたうえ、飢饉に襲われていました。貧しい暮らしを強いられていた庶民の怒りは、豪華な宮殿で贅沢な暮らしをしている国王たち、特に敵国オーストリアから嫁いできたアントワネットへと向けられます。

そうした中フランス革命が起き、国王一家はヴェルサイユからパリに連れてこられます。革命の激化と逃亡に失敗したことが原因となり、革命裁判にかけられた国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、処刑されることとなりました。

悲劇の王妃マリー・アントワネットは「本当に噂通りの悪女だったのか?」と疑問に思い真実のアントワネットの姿を求め、本や映画を見漁った私が筆をとります。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

マリー・アントワネットの来歴は?

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名前マリー=アントワネット=ジョセフ
=ジャンヌ・ド・アプスプール
=ロレーヌ・ドートリシュ
誕生日1755年11月2日
生地オーストリアのウィーン
没日1793年10月16日
没地フランスのパリ
配偶者ルイ16世
埋葬場所サン=ドニ大聖堂

マリー・アントワネットの生涯をダイジェスト

マリー・アントワネット

マリー・アントワネットは1755年11月2日、オーストリアの名門・ハプスブルク家に生まれました。父は神聖ローマ皇帝フランツ1世、母はオーストリア女大公マリア・テレジアです。アントワネットは11番目の娘でした。

14歳のとき、オーストリアの敵国であったフランスの王室に嫁ぎます。そのころオーストリアにはプロイセンという強敵があり、マリア・テレジアはフランスと手を組むことでこの難局を乗り切ろうとしたのです。アントワネットは王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)の妻となりました。

18歳のときに夫がフランス国王に即位、アントワネットは王妃となります。当時の彼女は宮廷生活に飽き飽きしてきて、賭博などの遊びに興じていることが多かったようです。けれども1977年には長女マリー・テレーズが、1781年には長男ルイ・ジョセフが、1785年には次男ルイ・シャルルが生まれ、3人の子供の子育てに力を注ぐようになりました。

国王一家が幽閉されたタンプル塔

1789年、アントワネットが34歳のときにフランス革命が勃発します。国王一家はアントワネットの愛人・フェルゼンの勧めもあって国外に逃亡しようとしたのですが、失敗してしまいました。一家は修道院だったタンプル塔に幽閉されることになりました。

1793年1月、ルイ16世が処刑されると、アントワネットにも死刑宣告が下りました。1793年10月6日の12時15分、アントワネットはギロチンによって処刑され、38年の生涯を閉じました。

マリー・アントワネットは本当に贅沢三昧の悪女だったのか?

マリー・アントワネットに関する噂には様々なものがありました。当時民衆の間では「アントワネットが贅沢したために財政が悪化した」「たくさんの愛人がいる」「女友達はみなアントワネットと同性愛関係にある」など数多くの誹謗中傷が溢れ、それらがまるで真実のように語られていたようです。

豪華なドレスを纏ったマリーアントワネット

確かに、豪華なドレスを身に纏い、賭博やパーティーに明け暮れた時期があったのは事実です。しかし、自分のために城を建築するような贅沢はせず、子供達におもちゃを我慢させることもあり、財政を悪化させるほどの贅沢はしていなかったようです。当時の貴族、特に王妃という立場にいる女性としては常識の範囲内での贅沢だったのではないでしょうか。

また、宮廷内では貧困者のためのカンパを募ることもあったようです。また、母マリア・テレジアへの手紙には、小麦が育ち始め飢饉から脱することができることを喜んでいる内容もあり、貧しい者や国民に寄り添う姿も見られます。

なぜこれらの誹謗中傷が広まったのでしょうか?アントワネットは王妃になってから、ヴェルサイユの古い習慣や儀式を廃止させたり、口うるさい者たちを遠ざけ、お気に入りの貴族たちを周りに置くようになりました。そのためアントワネットに反感を持った貴族たちや、敵国ハプスブルク家出身であることが気に食わない貴族たちが、このような悪い噂を広めたのが始まりだといわれています。

ギロチンによる処刑で死去

マリー・アントワネットの死因は、ギロチンによる処刑です。1793年におこなわれた革命裁判で死刑を宣告されました。

主な罪状は、国庫を浪費したこと、オーストリアに機密情報を漏らしたことなどでした。しかしフランスの財政はルイ16世以前から既に赤字であり、情報漏洩はアントワネットがオーストリア人であったが故の推測に過ぎないなど、これらの罪状に真実味はなく、アントワネットを死刑にするために作られたものだったようです。

処刑の日のマリー・アントワネット

アントワネットは、処刑当日の朝、部屋係から朝食についての希望を聞かれた際「もう何もいりません。全ては終わったのです」と言ったと伝えられています。髪を短く着られ、後ろで手を縛られ白衣を着たアントワネットは、荷車に乗せられ処刑場であるコンコルド広場に連れて行かれました。

処刑台に立ち、思わず処刑人の足を踏んでしまったアントワネットは、「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」と優しく伝えたと言われています。取り乱すことなく威厳を保ち、死の直前であってもその身のこなしは美しく優雅であったと言います。

マリー・アントワネットの死因と処刑日は?最後の言葉や名言も紹介

「パンがなければ…」という発言の真相

マリー・アントワネットの豪華な暮らしを表す一言

マリー・アントワネットの発言として有名なものに「 パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というものがあります。実はこの言葉をマリー・アントワネットが発したという歴史的な裏付けはなく、今ではマリー・アントワネットの言葉ではないことが明らかになっています。

では、この発言の出所はというと、ジャン・ジャック・ルソーの「告白」という自伝の中にあります。1740年頃、ルソーはパンを探していた時、「農民にはパンがない」と家臣から言われた高貴な女性が「それならブリオッシュを食べたら良い」というブラックジョークを言ったという話を思い出した、というエピソードがあります。

この話を、マリー・アントワネットのことを良く思わない当時の貴族たちが、彼女の言葉として面白おかしく広めたのではないかといわれています。

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2人の子供たちも幽閉された

フランス革命の勃発以降、マリー・アントワネットの子供である王子ルイ・シャルルと王女マリー・テレーズは、両親と共にパリのチュイルリー宮殿で過ごしていました。その後民衆によってチュイルリー宮殿が襲撃されると、家族と共にタンプル塔へと幽閉されます。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された後は、姉弟も引き離されてしまいました。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン「マリー・アントワネットと子供たち」

王子であるルイ・シャルルは独房に幽閉され、わずか10歳で亡くなってしまいました。王女のマリー・テレーズは、約3年の幽閉生活の後、父方の従兄ルイ・アントワーヌと結婚し、その時々の情勢に左右されながら流浪生活を送ります。72歳のとき肺炎で亡くなりました。

マリーアントワネットの子供たちはどんな人?革命後の末路を紹介

マリー・アントワネットの功績

功績1「フランスとオーストリアの和平の象徴」

オーストリアの名門・ハプスブルク家

15世紀からオーストリアとフランスは対立関係にあったのですが、18世紀中ごろ、オーストリアはプロイセンの脅威にさらされていました。1740年から1748年にかけてのオーストリア継承戦争で、オーストリアはプロイセンに領土を奪われていたのです。

この戦争でフランスはプロイセン側についていました。けれども戦争が終わった後、プロイセンはフランスと敵対するイギリスに接近していきます。プロイセンに裏切られてしまったフランスは、長年対立していたオーストリアと手を組むことにしたのです。

1756年にはオーストリアとフランスの外交協定であるヴェルサイユ条約が結ばれ、両国の間に防御同盟が成立しました。その結果、マリー・アントワネットはオーストリア・ハプスブルク家からフランス・ブルボン家に嫁ぐことになったのです。いわば、アントワネットはオーストリアとフランスが同盟を結んだことの象徴のような存在でした。

功績2「技術革新のきっかけになった」

バラの香りの香水もアントワネットの発案

オーストリアから来た王妃のために、フランスの職人たちはあらゆるものを作りました。例えば、バラの香りの香水が挙げられます。

あまりお風呂に入らなかったフランス貴族たちは香水をつけるのが慣習だったのですが、当時はムスク系の甘い香りのものが主流でした。けれどもガーデニングが好きでバラも育てていたアントワネットは、ナチュラルなバラの香りの香水を所望します。そのおかげで18世紀のフランスでは花の香りを抽出する技術が発展しました。

このように、アントワネットの発案から技術革新が進んだものがいくつかあります。彼女がフランス文化史に残した影響は大きいです。

功績3「当時の貴族女性たちのファッションリーダー」

貴族女性たちの間では奇抜なファッションが流行していた

高い美意識の持ち主だったマリー・アントワネットは、貴族の女性たちの間ではファッションリーダーのような存在でした。彼女のドレスは、ローズ・ベルタンという服飾デザイナーが作っていました。ベルタンのドレスを一目見たアントワネットは一目ぼれ、それからというものベルタンが宮廷を訪れると彼女は半日以上も自室で話し合っていたといいます。

また、ベルタンは「パフ」という髪型を生み出しました。髪を高く結い上げるその髪型をしたアントワネットを見て、当時の貴族女性たちも髪の高さや奇抜さを争うようになります。

アントワネットのファッションへの情熱は日に日に増していき、母マリア・テレジアから戒めの手紙が届くほどでした。また、第3身分という比較的低い身分の女性であるベルタンを気に入っていたことも貴族の反感を買います。アントワネットのファッションリーダーしての側面もまた、フランス革命のきっかけとなっていたのかもしれません。

マリー・アントワネットの名言

「私は恥ずべき死刑の判決を受けたのではありません。死刑は犯罪人にとって恥ずべきもの。これはあなたの兄上に会いに行くようにという判決なのです。良心の咎めがないので、私は平静な気持ちです。」

「不幸な暮らしをしながら私たちに尽くしてくれる人々を見たならば、彼らの幸せのためにこれまで以上に身を粉にして働くのが私のつとめだというのは当然のことです。」

「 ごめんなさい、ムッシュウ。わざとではありませんの。」

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