ベトナム戦争を語る上で欠かせない「あの写真」
ベトナム戦争を物語る資料は、その多くがホーチミン市にある戦争記念博物館に収蔵されています。しかし、人々に戦争の事実を訴えるのにもっとも効果的なコンテンツは映像であり、写真です。
時に、検索エンジンで「ベトナム戦争」と画像検索すると、家族で川を渡る写真が出てきます。これはベトナム戦争の一幕を切り抜いたものとして世界的に有名な写真なのです。では、この写真はいったい誰の手によって撮影されてなぜ有名になり、そして何を伝えたかったのでしょうか。
撮影したのは日本人
この写真を撮影したのは日本人戦場カメラマンの沢田教一。写真のタイトルは「安全への非難(Flight To Safety)」といい、ベトナム戦争開戦直後に撮影されました。
中学生のころに自身のアルバイト代で買ったカメラを皮切りに写真に没頭していた沢田は1964年に在籍していたUPI通信社にベトナム行きを打診。翌年にはベトナムへ向かい、開戦直後のベトナムを約1か月取材して回ったのです。その1か月後に滞在期間の満了を迎えて帰国したものの、再びベトナムへ向かいました。
「安全への非難」は2回目の取材期間中に撮影されたもので、沢田は撮影するとすぐにこの一家を救ったといいます。ベトナム戦争中の1970年、取材中のカンボジア・プノンペンで襲撃を受けて死亡。この知らせを聞いた被写体となった家族は、沢田の死にショックを受けたといいます。
ピュリッツァー賞を受賞した世界的な1枚
「安全への非難」は1965年にすぐさま発表され、世界に衝撃を与えました。この写真に映る当時8歳だったグエン・ティ・キム・リエンによると、朝食準備中に鳴り響いた爆撃の音から逃れるために川に飛び込んだところだったと回想、その時写真を撮影していた沢田に救われたと説明しています。
写真は世界的に高く評価され、1965年にはハーグ世界報道写真展で大賞を受賞、翌年には報道写真の頂点ともいうべきピュリッツァー賞を受賞しました。沢田はこの時の賞金36万円のうち6万円を被写体となった一家に、写真とともに贈ったといいます。写真に「幸せに」の言葉を添えて。
撮影者は何を伝えたかったのか
沢田は当時UPI通信社という会社にいたカメラマンでした。彼の元同僚であるボブ・ケイラーは、沢田の写真について次のようなコメントを寄せています。
沢田の写真は常に物語を伝えている。特に人間に対する物語だ。戦争が彼らに何をしたのか、何を意味するのかということだ。
また、沢田を題材にした映画『SAWADA』の監督を務めた五十嵐匠もまた、次のように述べています。
沢田さんが撮った写真は、戦争を描いているというより、『戦争がもたらしたもの』を描いている。
沢田が写真を伝えたかったことは、戦争そのものではなく、戦争によって人が受けた影響や生活の変化、意味を強烈に与える物なのです。
沢田は、亡くなるまでの間、「安全への非難」の被写体となった一家をたびたび訪問してはケーキなどを差し入れていたといいます。その人柄や伝えるべき意味を持った写真を撮影することに生涯をかけていたといっても過言ではないでしょう。
ベトナム戦争の大まかな流れ
ベトナム戦争はいつ始まったかが明確にされていません。「宣戦布告なき戦争」と呼ばれており、正式に国家間での開戦の合図が出されなかったことが原因ですが、一般的にトンキン湾事件が起きた1965年2月7日を開戦としています。
ここでは北爆からサイゴン陥落から南ベトナム崩壊、ベトナム統一が行われた1975年4月までの10年間についてお話していきます。
1964年8月:トンキン湾事件と北爆
1963年11月2日、北ベトナムと一触即発の状態にあった南ベトナムで軍軸クーデターが発生。このクーデターによりジエムが大統領の座からおろされた末に殺害され、新たにズオン・バン・ミンが大統領の座に就きます。
アメリカもこのクーデターに関与していたとされていますが、当時の大統領ケネディはこれを否定。真偽のほどはわかりませんが、アメリカはクーデター以後の南ベトナムの情勢安定を期待していました。
しかし、軍部の暴走を容認する形となったこのクーデター以降13回の軍事クーデターが発生し、最終的には首相をグエン・カオ・キ、大統領をグエン・バン・チューとなったのです。
1964年8月2日と4日に北ベトナムによるアメリカ駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃が発生。世にいうトンキン湾事件に対し、アメリカ大統領ジョンソンは報復を宣言し北爆が開始されます。
1965年3月8日、アメリカ軍がベトナム本土に上陸、最前線であるダナンに軍事基地を設置しました。こうしてベトナム全土での戦争が始まったのです。
1968年1月:テト攻勢
アメリカ軍上陸に対して、北ベトナムのホー・チ・ミンも「ホー・チ・ミンルート」を利用してカンボジア経由で南ベトナムにいる「ベトコン」と連絡を取り合い、山岳地帯に布陣。本格的に戦争が開始されました。
アメリカはこの山岳部隊への攻撃に苦戦したと言われています。それのみならず、北ベトナム軍の神出鬼没な戦法に惑わされ続けたアメリカ軍は苦戦を強いられており、いくつもの作戦が実行されました。
1968年1月29日、北ベトナム軍とベトコンはアメリカ軍と南ベトナム軍に対して攻撃を仕掛けます。旧正月下の奇襲攻撃であったため、これをテト攻勢と呼びます。結果的には物量差で圧勝していたアメリカ・南ベトナムの勝利で終わり、北ベトナムは手痛い被害を受けてしまいました。
しかし、テト攻勢の結果、アメリカではこの戦争に対する反戦運動が活発化。また戦争の様相も南ベトナム国内でアメリカvsベトコンの戦いというものから、北ベトナム正規軍との戦いへと変えていきました。