ベトナム戦争とは?原因から勝敗まで分かりやすく解説【日本への影響も紹介】

1969年1月:ベトナム反戦運動とニクソン

リンドン・B・ジョンソン大統領は北爆にこだわり続けたものの、成果を得ることはできなかった

テト攻勢、そして引き続き発生したフエ事件による南ベトナム政府関係者の殺害事件はアメリカ国内で反戦運動を拡大させました。また、すでにこの時点で3年が経過していたにも関わらず何の成果も上がらない北爆に対して対応をしないジョンソン大統領への批判もエスカレート。

「アメリカの良心」と呼ばれたクロンカイトが、

民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります

「アメリカの良心」と呼ばれ民衆の支持もあったジャーナリスト、ウォルター・クロンカイト

と声明を発したことに慌てたものの、2期目を目指した大統領選挙では敗北し、北爆全面停止を余儀なくされます。

代わりに大統領に就任したリチャード・ニクソンはすぐに第一陣25,000名の帰還を実行。水面下でキッシンジャーを送り込み北ベトナムとの和平交渉を進めていました。

しかしあくまでアメリカ優位の交渉を目指していたニクソンは、ラオス・カンボジアへの攻撃と北爆の強化を実施。戦争はジョンソン政権下よりも泥沼化していったのです。

1971年1月:ホー・チ・ミンルート遮断と戦火拡大

クメール共和国の国旗

1970年3月、隣国であるカンボジアでクーデターが発生し、アメリカの支援を受けたクメール共和国が成立。これに対して北ベトナムはクメール共和国への攻撃を開始します。

10か月後、アメリカ軍はラオスを通る補給ルート「ホー・チ・ミンルート」の遮断に乗り出します。ゲリラ戦を得意とする北ベトナムおよびベトコンの動きを封じ込めることとソビエト・中国からの補給路の遮断を目的としていましたが、成果は薄く、どちらも失敗に終わりました。

ホー・チ・ミンの遺体が安置されているホー・チ・ミン廟(ハノイ)

この背景には、1969年、それまで国家の独立を目指して戦ってきた指導者ホー・チ・ミンの死去による北ベトナムとベトコンの団結強化があります。いずれの2箇所での戦いでも北ベトナムとベトコンの動きは非常に早く、補給路回復と拠点奪還にいち早く成功しています。

ちなみに、ベトナム独立をその目で見ることのなかったホーの遺体は現在も残されており、ハノイ市にあるホー・チ・ミン廟にて生前の姿そのままに公開されているのです。時代・世代を超えて国民に愛され続けていることがよくわかります。

1969〜72年:アメリカ・ソビエトの方針転換

和平交渉を行ったリチャード・キッシンジャー

和平交渉を優位に進めるべく攻撃を続けていたアメリカは、北ベトナムとの交渉を急いではいたが幾度となく暗礁に乗り上げていました。

そこでニクソンは、北ベトナムへの支援を続けていた中国に接近。ニクソンが大統領に就任したころからソビエトと仲たがいを始めていた中国と関係を持つことで自分たちの攻撃を妨害されないようにと目論んだのです。

この目論みは北ベトナム軍の決定敵壊滅を招きました。アメリカとソビエトが「デタント」と呼ばれる緊張緩和状態にあったこともあり北ベトナムは孤立してしまったのです。

ニクソンと会談するソビエトの書記長、ブレジネフ

最終的にはパリ和平会議の場に北ベトナムを引きずりだすことに成功。アメリカの思惑通りにことは動き出したものの、戦争そのものには勝利できずに終わったのです。

ニクソンはその後、アメリカ軍の全軍撤退を完了させ自身をめぐるウォーターゲート事件の責任を取り辞任。後任となったフォード大統領のころにはベトナムへの興味を失っており、以降アメリカがベトナムに関わることはありませんでした。

1973〜75年:和平協定とサイゴン陥落

パリ協定の調印文章の原文

1973年1月に結ばれたパリ協定によってアメリカ軍は撤退したものの、ベトナム国内の戦争は続いていました。ベトナムの南北統一がなされていなかったからです。しかしすでにアメリカという後ろ盾を失っていた南ベトナムに、この戦争への勝機はありませんでした。

サイゴン陥落時の写真

1975年、ホー・チ・ミン作戦と銘打たれた北ベトナムによる最後の総攻撃が実行されます。サイゴン市を無傷で済ませたかった南ベトナムでしたが、和平交渉に望むべく選任された大統領たちを北ベトナムは真っ向から拒否。

そして同年の4月30日、サイゴン市は北ベトナムによって陥落しました。北ベトナムの勝利を決定づけたのです。

実に10年に及ぶ戦争にようやく終止符が打たれたのでした。

1976年以降:南北統一と新たな戦争

サイゴン市はホーチミン市と名を改められ、写真のような大都市となっている

1976年、サイゴン陥落後に樹立されていた臨時政府を統合する形でベトナムの南北統一が完成。国名をベトナム社会主義共和国と改め、通貨統一や官僚制度などの刷新、民間企業の国営化が徐々に進められました。

その一方で新たな戦争も勃発しました。ベトナムの勢力拡大を恐れたクメール・ルージュとの戦争であり、ラオス、そして中国を巻き込んだインドシナ半島全体を巻き込んだこれは第3次インドシナ戦争と呼ばれています。

結局ベトナムが本当の意味で戦争を終え、国際社会に復帰するには、南北統一からさらに17年後の1993年まで待たなければなりませんでした。

ベトナム戦争を題材にした映画

プラトーン

1986年に公開された、実際にベトナム戦争に従軍していた兵士の実体験をもとにした作品。ベトナム戦争を題材にした映画の中では特に有名なもので、主に従軍したアメリカ軍の内部事情について詳しく描かれています。

ベトナム民間人への強姦や誤爆といった軍の規則問題から実際の戦争の悲惨さを伝える作品であり、実際に従軍した人間でしか知りえない情報が詰め込まれたものです。

フルメタル・ジャケット

1987年公開の『フルメタル・ジャケット』は、これから従軍する若い兵士が受ける過酷な訓練とジッセンの場で直面した同僚の死を中心に描いた作品です。ベトナム戦争に志願して軍隊に入った青年を取り巻く人間の死についてのストーリー。

ただただベトナム戦争という1つのテーマに縛られることなく描かれたこの作品は、人間の本質を描いたものです。

グッドモーニング・ベトナム

ベトナム戦争の中でも特に異質なものが『グッドモーニング・ベトナム』です。残酷なシーンや強姦、略奪のシーンが少なく、むしろギャグ要素を含んだこの作品は、実際に従軍したDJ軍人をモデルにしたもの。

人気DJだったクロンナウアが、南ベトナムで知ったベトナム人との友情をめぐりストーリーが展開されていく一風変わったベトナム戦争を題材にした映画なのです。

ベトナム戦争に関するまとめ

ベトナム戦争はベトナム国内はもちろんのこと、多くの国、特に当時の大国であったアメリカとソビエトの関係を色濃く表した戦争でした。それともにベトナムにとっては「ベトナム」としての独立を目指した、意地とプライドをかけた戦いであったことは言うまでもないでしょう。

戦争終結から約半世紀が経とうとしている現在、ベトナムはすさまじい速さでの経済発展が進んでいます。その一方でベトナム戦争の爪痕は今もって残っており、現在も決して他人ごとではないことがそこからも分かるかと思います。

戦争を実際に知る世代は少なくなってきたものの、このような悲惨な戦争を今後起こしてはいけないと、我々はそのことを忘れてはいけないのです。今後のベトナムの発展にはぜひ目を見張りたいところです。

では、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

1 2 3 4

コメントを残す