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ベトナム戦争とは?原因から勝敗まで分かりやすく解説【日本への影響も紹介】

ベトナム戦争の日本への影響は?

ベトナムからたどり着いたボートピープルの過ごした環境は、常に死と隣り合わせの劣悪な環境だった

直接ベトナム戦争に参加しなかった日本にも、特に戦後余燼が降りかかることになります。ベトナム戦争終結から間もなく、日本には崩壊した南ベトナム国籍のベトナム人たちが次々と漁船やヨットに乗ってやってきました。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる人々です。

その受け入れ人数は11,000人とも言われており、ボートピープルは1989年までやってきました。背景には社会主義への反発もあったものの、一番は国内経済の先行き不安とベトナム戦争後に緊張感を増した中国との関係から逃れてきたというものが挙げられます。

しかし、その後ベトナム政府によるドイモイ政策によりベトナムに帰国するボートピープルも少なからず出てきました。

保護されたボートピープル

日本はボートピープルを受け入れはしましたが、世間の声は資本主義派と社会主義派に分かれており、決して十分な保護政策ができていたとは言えない状況。

2016年以降、新たなベトナム難民はいなくなったものの、今後日本が「難民」と呼ばれる人々を受け入れるにあたっての問題点を浮き彫りにしたのです。

ベトナム戦争を語る上で欠かせない「あの写真」

「あの写真」こと「安全への避難」

ベトナム戦争を物語る資料は、その多くがホーチミン市にある戦争記念博物館に収蔵されています。しかし、人々に戦争の事実を訴えるのにもっとも効果的なコンテンツは映像であり、写真です。

時に、検索エンジンで「ベトナム戦争」と画像検索すると、家族で川を渡る写真が出てきます。これはベトナム戦争の一幕を切り抜いたものとして世界的に有名な写真なのです。では、この写真はいったい誰の手によって撮影されてなぜ有名になり、そして何を伝えたかったのでしょうか。

撮影したのは日本人

「安全への避難」を撮影したカメラマン・沢田教一

この写真を撮影したのは日本人戦場カメラマンの沢田教一。写真のタイトルは「安全への非難(Flight To Safety)」といい、ベトナム戦争開戦直後に撮影されました。

中学生のころに自身のアルバイト代で買ったカメラを皮切りに写真に没頭していた沢田は1964年に在籍していたUPI通信社にベトナム行きを打診。翌年にはベトナムへ向かい、開戦直後のベトナムを約1か月取材して回ったのです。その1か月後に滞在期間の満了を迎えて帰国したものの、再びベトナムへ向かいました。

沢田が撮影したカンボジア国内の戦争写真

「安全への非難」は2回目の取材期間中に撮影されたもので、沢田は撮影するとすぐにこの一家を救ったといいます。ベトナム戦争中の1970年、取材中のカンボジア・プノンペンで襲撃を受けて死亡。この知らせを聞いた被写体となった家族は、沢田の死にショックを受けたといいます。

ピュリッツァー賞を受賞した世界的な1枚

沢田の写真展テープカットには妻(中央)と、「安全への避難」に映っていた女性が参加した

「安全への非難」は1965年にすぐさま発表され、世界に衝撃を与えました。この写真に映る当時8歳だったグエン・ティ・キム・リエンによると、朝食準備中に鳴り響いた爆撃の音から逃れるために川に飛び込んだところだったと回想、その時写真を撮影していた沢田に救われたと説明しています。

写真は世界的に高く評価され、1965年にはハーグ世界報道写真展で大賞を受賞、翌年には報道写真の頂点ともいうべきピュリッツァー賞を受賞しました。沢田はこの時の賞金36万円のうち6万円を被写体となった一家に、写真とともに贈ったといいます。写真に「幸せに」の言葉を添えて。

撮影者は何を伝えたかったのか

現在、UPI通信社は時事通信社として東京に事務所を構えている

沢田は当時UPI通信社という会社にいたカメラマンでした。彼の元同僚であるボブ・ケイラーは、沢田の写真について次のようなコメントを寄せています。

沢田の写真は常に物語を伝えている。特に人間に対する物語だ。戦争が彼らに何をしたのか、何を意味するのかということだ。

また、沢田を題材にした映画『SAWADA』の監督を務めた五十嵐匠もまた、次のように述べています。

沢田さんが撮った写真は、戦争を描いているというより、『戦争がもたらしたもの』を描いている。

『SAWADA』を手掛けた五十嵐匠監督

沢田が写真を伝えたかったことは、戦争そのものではなく、戦争によって人が受けた影響や生活の変化、意味を強烈に与える物なのです。

沢田は、亡くなるまでの間、「安全への非難」の被写体となった一家をたびたび訪問してはケーキなどを差し入れていたといいます。その人柄や伝えるべき意味を持った写真を撮影することに生涯をかけていたといっても過言ではないでしょう。

ベトナム戦争の大まかな流れ

ホーチミン市にある統一会堂

ベトナム戦争はいつ始まったかが明確にされていません。「宣戦布告なき戦争」と呼ばれており、正式に国家間での開戦の合図が出されなかったことが原因ですが、一般的にトンキン湾事件が起きた1965年2月7日を開戦としています。

ここでは北爆からサイゴン陥落から南ベトナム崩壊、ベトナム統一が行われた1975年4月までの10年間についてお話していきます。

1964年8月:トンキン湾事件と北爆

トンキン湾事件で攻撃を受けた駆逐艦「マドックス」

1963年11月2日、北ベトナムと一触即発の状態にあった南ベトナムで軍軸クーデターが発生。このクーデターによりジエムが大統領の座からおろされた末に殺害され、新たにズオン・バン・ミンが大統領の座に就きます。

アメリカもこのクーデターに関与していたとされていますが、当時の大統領ケネディはこれを否定。真偽のほどはわかりませんが、アメリカはクーデター以後の南ベトナムの情勢安定を期待していました。

しかし、軍部の暴走を容認する形となったこのクーデター以降13回の軍事クーデターが発生し、最終的には首相をグエン・カオ・キ、大統領をグエン・バン・チューとなったのです。

南ベトナムの大統領、グエン・バン・チュー

1964年8月2日と4日に北ベトナムによるアメリカ駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃が発生。世にいうトンキン湾事件に対し、アメリカ大統領ジョンソンは報復を宣言し北爆が開始されます。

1965年3月8日、アメリカ軍がベトナム本土に上陸、最前線であるダナンに軍事基地を設置しました。こうしてベトナム全土での戦争が始まったのです。

1968年1月:テト攻勢

テト攻勢をきっかけに南北ベトナムの国家間戦争へと発展した

アメリカ軍上陸に対して、北ベトナムのホー・チ・ミンも「ホー・チ・ミンルート」を利用してカンボジア経由で南ベトナムにいる「ベトコン」と連絡を取り合い、山岳地帯に布陣。本格的に戦争が開始されました。

アメリカはこの山岳部隊への攻撃に苦戦したと言われています。それのみならず、北ベトナム軍の神出鬼没な戦法に惑わされ続けたアメリカ軍は苦戦を強いられており、いくつもの作戦が実行されました。

テト攻勢のさなか、サイゴン市で撮影された1枚

1968年1月29日、北ベトナム軍とベトコンはアメリカ軍と南ベトナム軍に対して攻撃を仕掛けます。旧正月下の奇襲攻撃であったため、これをテト攻勢と呼びます。結果的には物量差で圧勝していたアメリカ・南ベトナムの勝利で終わり、北ベトナムは手痛い被害を受けてしまいました。

しかし、テト攻勢の結果、アメリカではこの戦争に対する反戦運動が活発化。また戦争の様相も南ベトナム国内でアメリカvsベトコンの戦いというものから、北ベトナム正規軍との戦いへと変えていきました。

1969年1月:ベトナム反戦運動とニクソン

リンドン・B・ジョンソン大統領は北爆にこだわり続けたものの、成果を得ることはできなかった

テト攻勢、そして引き続き発生したフエ事件による南ベトナム政府関係者の殺害事件はアメリカ国内で反戦運動を拡大させました。また、すでにこの時点で3年が経過していたにも関わらず何の成果も上がらない北爆に対して対応をしないジョンソン大統領への批判もエスカレート。

「アメリカの良心」と呼ばれたクロンカイトが、

民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります

「アメリカの良心」と呼ばれ民衆の支持もあったジャーナリスト、ウォルター・クロンカイト

と声明を発したことに慌てたものの、2期目を目指した大統領選挙では敗北し、北爆全面停止を余儀なくされます。

代わりに大統領に就任したリチャード・ニクソンはすぐに第一陣25,000名の帰還を実行。水面下でキッシンジャーを送り込み北ベトナムとの和平交渉を進めていました。

しかしあくまでアメリカ優位の交渉を目指していたニクソンは、ラオス・カンボジアへの攻撃と北爆の強化を実施。戦争はジョンソン政権下よりも泥沼化していったのです。

1971年1月:ホー・チ・ミンルート遮断と戦火拡大

クメール共和国の国旗

1970年3月、隣国であるカンボジアでクーデターが発生し、アメリカの支援を受けたクメール共和国が成立。これに対して北ベトナムはクメール共和国への攻撃を開始します。

10か月後、アメリカ軍はラオスを通る補給ルート「ホー・チ・ミンルート」の遮断に乗り出します。ゲリラ戦を得意とする北ベトナムおよびベトコンの動きを封じ込めることとソビエト・中国からの補給路の遮断を目的としていましたが、成果は薄く、どちらも失敗に終わりました。

ホー・チ・ミンの遺体が安置されているホー・チ・ミン廟(ハノイ)

この背景には、1969年、それまで国家の独立を目指して戦ってきた指導者ホー・チ・ミンの死去による北ベトナムとベトコンの団結強化があります。いずれの2箇所での戦いでも北ベトナムとベトコンの動きは非常に早く、補給路回復と拠点奪還にいち早く成功しています。

ちなみに、ベトナム独立をその目で見ることのなかったホーの遺体は現在も残されており、ハノイ市にあるホー・チ・ミン廟にて生前の姿そのままに公開されているのです。時代・世代を超えて国民に愛され続けていることがよくわかります。

1969〜72年:アメリカ・ソビエトの方針転換

和平交渉を行ったリチャード・キッシンジャー

和平交渉を優位に進めるべく攻撃を続けていたアメリカは、北ベトナムとの交渉を急いではいたが幾度となく暗礁に乗り上げていました。

そこでニクソンは、北ベトナムへの支援を続けていた中国に接近。ニクソンが大統領に就任したころからソビエトと仲たがいを始めていた中国と関係を持つことで自分たちの攻撃を妨害されないようにと目論んだのです。

この目論みは北ベトナム軍の決定敵壊滅を招きました。アメリカとソビエトが「デタント」と呼ばれる緊張緩和状態にあったこともあり北ベトナムは孤立してしまったのです。

ニクソンと会談するソビエトの書記長、ブレジネフ

最終的にはパリ和平会議の場に北ベトナムを引きずりだすことに成功。アメリカの思惑通りにことは動き出したものの、戦争そのものには勝利できずに終わったのです。

ニクソンはその後、アメリカ軍の全軍撤退を完了させ自身をめぐるウォーターゲート事件の責任を取り辞任。後任となったフォード大統領のころにはベトナムへの興味を失っており、以降アメリカがベトナムに関わることはありませんでした。

1973〜75年:和平協定とサイゴン陥落

パリ協定の調印文章の原文

1973年1月に結ばれたパリ協定によってアメリカ軍は撤退したものの、ベトナム国内の戦争は続いていました。ベトナムの南北統一がなされていなかったからです。しかしすでにアメリカという後ろ盾を失っていた南ベトナムに、この戦争への勝機はありませんでした。

サイゴン陥落時の写真

1975年、ホー・チ・ミン作戦と銘打たれた北ベトナムによる最後の総攻撃が実行されます。サイゴン市を無傷で済ませたかった南ベトナムでしたが、和平交渉に望むべく選任された大統領たちを北ベトナムは真っ向から拒否。

そして同年の4月30日、サイゴン市は北ベトナムによって陥落しました。北ベトナムの勝利を決定づけたのです。

実に10年に及ぶ戦争にようやく終止符が打たれたのでした。

1976年以降:南北統一と新たな戦争

サイゴン市はホーチミン市と名を改められ、写真のような大都市となっている

1976年、サイゴン陥落後に樹立されていた臨時政府を統合する形でベトナムの南北統一が完成。国名をベトナム社会主義共和国と改め、通貨統一や官僚制度などの刷新、民間企業の国営化が徐々に進められました。

その一方で新たな戦争も勃発しました。ベトナムの勢力拡大を恐れたクメール・ルージュとの戦争であり、ラオス、そして中国を巻き込んだインドシナ半島全体を巻き込んだこれは第3次インドシナ戦争と呼ばれています。

結局ベトナムが本当の意味で戦争を終え、国際社会に復帰するには、南北統一からさらに17年後の1993年まで待たなければなりませんでした。

ベトナム戦争を題材にした映画

プラトーン

1986年に公開された、実際にベトナム戦争に従軍していた兵士の実体験をもとにした作品。ベトナム戦争を題材にした映画の中では特に有名なもので、主に従軍したアメリカ軍の内部事情について詳しく描かれています。

ベトナム民間人への強姦や誤爆といった軍の規則問題から実際の戦争の悲惨さを伝える作品であり、実際に従軍した人間でしか知りえない情報が詰め込まれたものです。

フルメタル・ジャケット

1987年公開の『フルメタル・ジャケット』は、これから従軍する若い兵士が受ける過酷な訓練とジッセンの場で直面した同僚の死を中心に描いた作品です。ベトナム戦争に志願して軍隊に入った青年を取り巻く人間の死についてのストーリー。

ただただベトナム戦争という1つのテーマに縛られることなく描かれたこの作品は、人間の本質を描いたものです。

グッドモーニング・ベトナム

ベトナム戦争の中でも特に異質なものが『グッドモーニング・ベトナム』です。残酷なシーンや強姦、略奪のシーンが少なく、むしろギャグ要素を含んだこの作品は、実際に従軍したDJ軍人をモデルにしたもの。

人気DJだったクロンナウアが、南ベトナムで知ったベトナム人との友情をめぐりストーリーが展開されていく一風変わったベトナム戦争を題材にした映画なのです。

ベトナム戦争に関するまとめ

ベトナム戦争はベトナム国内はもちろんのこと、多くの国、特に当時の大国であったアメリカとソビエトの関係を色濃く表した戦争でした。それともにベトナムにとっては「ベトナム」としての独立を目指した、意地とプライドをかけた戦いであったことは言うまでもないでしょう。

戦争終結から約半世紀が経とうとしている現在、ベトナムはすさまじい速さでの経済発展が進んでいます。その一方でベトナム戦争の爪痕は今もって残っており、現在も決して他人ごとではないことがそこからも分かるかと思います。

戦争を実際に知る世代は少なくなってきたものの、このような悲惨な戦争を今後起こしてはいけないと、我々はそのことを忘れてはいけないのです。今後のベトナムの発展にはぜひ目を見張りたいところです。

では、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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