ベトナム戦争とは?原因から勝敗まで分かりやすく解説【日本への影響も紹介】

ベトナム戦争の原因

第1次インドシナ戦争終結を約束したジュネーブ協定の調印の様子

ベトナム戦争は第1次インドシナ戦争の延長として捉えられており、この戦争も第2次インドシナ戦争と呼ばれることもあります。

ベトナム戦争の主たる原因は独立の可否にありました。第1次インドシナ戦争終結とともに発行されたジュネーブ協定により、ベトナム民主共和国が成立し、名実ともども独立を果たすことが決定した矢先。途中介入してきたアメリカとそれに近い南ベトナムによって阻止されたのです。

南ベトナムの初代首相、ゴ・ディン・ジエム

アメリカは調査団と銘打った軍隊を南ベトナムに派遣。同時に南ベトナムの首相に、アメリカと友好関係が深いゴ・ディン・ジエムを選び、傀儡政権を誕生させました。

これに対し北ベトナムのホー・チ・ミンは、ジエムが反対していた南北統一選挙の実施を主張。南ベトナムを主体とした資本主義国家を作りたかったアメリカとの溝が深まり、戦争へと発展したのです。

インドシナ戦争とは?原因や結末、その後の影響までわかりやすく解説

ベトナム戦争の特徴

ベトナム戦争には、他の戦争にはない特徴がいくつかあります。その最たるものに、アメリカの敗戦、枯葉剤による奇形児の誕生、韓国軍の大虐殺や難民問題などがあり、ものによっては現在も続いているものも。

ここではそれぞれの特徴的な問題を取り上げ、詳しく説明していきます。

勝てなかったアメリカ

ベトナム戦争の反戦運動に参加した著名人の1人、モハメド・アリ

ベトナム戦争は、未だかつてないアメリカの敗戦を決定づけた戦争でした。それまで、建国から今日至るまでの度重なる対外戦争に勝利し続けてきたアメリカにとってこの敗戦は屈辱と言っても過言ではなかったでしょう。

敗戦の原因にはいくつかの原因が挙げられますが、その最たるものに北ベトナムによるゲリラ戦法があります。熱帯雨林のジャングルを主戦場としたベトナム戦争に、ただでさえ蒸し暑い環境も苦しかったアメリカ兵は苦戦を強いられました。さらに歩き慣れない密林の中で突如として攻撃を仕掛けてくるベトナム兵に手も足も出なかったのです。

ベトコンこと南ベトナム民族解放戦線を表している模型

アメリカは爆撃機や、後述する枯葉剤を使用してベトナム兵の隠れ家である密林を減らそうと腐心しました。しかし結果もむなしくベトナム戦争には敗戦。死者58,718人、行方不明者約2,000人、負傷者を加えた人的被害は約30万人ともいわれるおびただしい数字の損失を出しただけで得るものはなにもありませんでした。

枯葉剤と奇形児

枯葉剤を散布するアメリカ爆撃機

アメリカ軍が使用した兵器の中に「枯葉剤」と呼ばれるものがあります。その名のとおり植物を枯らすための有害物質を含んだもので、ジャングルに身をひそめるベトナム兵の隠れ蓑を減らす役割で投入されました。主成分はダイオキシン系化学物質で、容器の色によって「ブルー剤」「オレンジ剤」などの名があります。

この枯葉剤が原因で、密林の一部が減ったのはもちろんのこと、それを被ったベトナム人にも被害が出始めたのは1969年のことでした。生まれつき指がないまま生まれてきたり、脳がない「無脳症」で誕生したりした子どもの存在が確認されたのです。中には双子で身体の部分がくっついてしまったケースも。代表的な人物に「ベトちゃんドクちゃん」の愛称で知られるグエン・ベト、グエン・ドク兄弟がいます。

枯葉剤が原因で生まれたとされる「ベトちゃんドクちゃん」ことグエン・ベトとドクの兄弟

また、散布した側のアメリカ軍所属の兵も健康被害を訴え、1984年に製造会社を相手に集団提訴。加えて現在もベトナム各地で地下に眠る枯葉剤の除染作業が続くなど、戦争から半世紀近くたった現在もその爪痕を深く深く残しています。

韓国軍と虐殺問題

韓国軍に捕虜にされるベトナム人女性

ベトナム戦争にはアメリカ側に加担する国、ソビエト側に加担する国の一部が軍隊を派遣し戦闘に参加していました。彼らは時に大虐殺と呼ばれるような痛ましい虐殺事件を起こしますが、このベトナム戦争でも韓国軍による大虐殺があったのです。

韓国軍は1965~1968年までの約3年間、各地でベトナム人女性を中心とした強姦・虐殺を繰り返します。中には略奪も行われたといわれる一連の虐殺の背景には、先に休戦となった朝鮮戦争でのアメリカ軍から受けた援助への「お礼」の意味があったと、韓国政府が記者会見で発表しました。

ベトナム戦争後、始めて謝罪と賠償を口に出した金大中大統領

しかしこの禍根は決して消えることはありませんでした。2015年に朴槿恵大統領(当時)がアメリカを訪問した際、ウォールストリートジャーナル紙が当時韓国軍の被害に遭った女性が韓国政府に賠償と謝罪を求めている主旨の広告を掲載。これより前の2001年に金大中大統領がベトナム訪問の際に謝罪と賠償を約束したものの賠償は不十分で不満の声が上がり続けていたのです。

なお、韓国政府は2021年現在まで「証拠不十分」としてそれらの賠償と謝罪に関しては無視し続けています。

ベトナム戦争の日本への影響は?

ベトナムからたどり着いたボートピープルの過ごした環境は、常に死と隣り合わせの劣悪な環境だった

直接ベトナム戦争に参加しなかった日本にも、特に戦後余燼が降りかかることになります。ベトナム戦争終結から間もなく、日本には崩壊した南ベトナム国籍のベトナム人たちが次々と漁船やヨットに乗ってやってきました。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる人々です。

その受け入れ人数は11,000人とも言われており、ボートピープルは1989年までやってきました。背景には社会主義への反発もあったものの、一番は国内経済の先行き不安とベトナム戦争後に緊張感を増した中国との関係から逃れてきたというものが挙げられます。

しかし、その後ベトナム政府によるドイモイ政策によりベトナムに帰国するボートピープルも少なからず出てきました。

保護されたボートピープル

日本はボートピープルを受け入れはしましたが、世間の声は資本主義派と社会主義派に分かれており、決して十分な保護政策ができていたとは言えない状況。

2016年以降、新たなベトナム難民はいなくなったものの、今後日本が「難民」と呼ばれる人々を受け入れるにあたっての問題点を浮き彫りにしたのです。

1 2 3 4

コメントを残す