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ルネ・デカルトとはどんな人?生涯・年表まとめ【思想や性格、名言についても紹介】

デカルトといえば、「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム cogito,ergo,sum)」という有名な命題でしょう。

ルネ・デカルト

一般的には、このコギトを哲学の第一原理とし、近代哲学の基礎を築いた人物と言われています。 しかし彼は、一生をただの机上の思想家では終わらせず、古代から現代にかけての思想家の中で、いくつもの国を渡り歩き、波乱の生涯を送った人物なのです。

デカルトは、最終的にパリに滞在して多くの文人、科学者、神学者と交流し、その間逸話には事欠かないと言う、正に波乱万丈、修行と冒険の人生を送りました。

ヨーロッパをまたにかけ、文武、両道を渡ったデカルトの生涯はいったいどんなものだったのか、詳しく紹介してまいります。

デカルトとはどんな人物か?

名前ルネ・デカルト
英語名René Descartes
誕生日1596年3月31日
生地フランス王国・アンドル
=エ=ロワール県ラ・エー
没日1650年2月11日
没地スウェーデン・バルト帝国
・ストックホルム
配偶者独身(諸説あり)
埋葬場所サン・ジェルマン・デ・プレ教会

デカルトの生涯をハイライト

近代哲学の父と呼ばれ、科学で数々の功績を残したデカルトは、どのような生涯を送ったのでしょうか。まずはデカルトの生涯をハイライトで見ていきましょう。

1596年の3月31日、デカルトはフランスのトゥレーヌ州の医師の家系に生まれました。生まれた頃から病弱だった彼は、1607年に1年遅れでラ・フレーシュ学院へ入学します。デカルトはこの学院で知的好奇心のおもむくまま、貪欲に知識を吸収し、基礎を固めました。

しかし学院で教えられていたスコラ哲学に疑念を抱いたデカルトは、18歳のときにこれまで得たものをすべて捨て、「世間という大きな書物」を見聞きするために旅に出ました。

デカルトの人生

オランダで志願兵として入隊し、自然学者ベークマンと共に研究をし、ドイツで三十年戦争が始まれば、ドイツへ赴き軍隊へ入ります。ドイツの軍隊へ入隊後、デカルトは3つの神秘的な夢を見ました。その3つの夢はデカルトに影響を与え、哲学者としての道を示しました。

ドイツを出たデカルトは、ヴェネツィア、ローマ、イタリアを渡り歩いたあと、パリにしばらく滞在することにしました。滞在中にはメルセンヌやホッブズといった哲学者や、その他さまざまな分野の専門家と交流します。

1628年、知識と経験を積んだデカルトはいよいよ新たな学問体系の構築に取り掛かりました。集中できる環境と自由を求めて、彼はオランダへと渡ります。そこから、デカルトは数々の功績を残しました。

1637年に彼の代表作である『方法序説』が出版され、1641年には『省察』が刊行。デカルトの評判は徐々に高まりました。その評判はプファルツ公女エリーザベトの耳に届き、彼女と書簡のやりとりが始まります。書簡のやりとりをきっかけに、デカルトは心身問題についても興味を持ち始めました。

1649年にはスウェーデンの女王クリスティーナから、講師として国へ招待したいという内容の手紙を3度受け取ります。4月には軍艦が迎えに向かったほどです。熱心な誘いを受けたデカルトは、9月にクリスティーナ女王の招待を受け入れ、スウェーデンへ出発しました。

しかしスウェーデンの冬は厳しく、生活習慣が変化したこともあり、デカルトは1650年に肺炎を患って亡くなりました。

死を宣告された青白い少年デカルト

デカルトが生まれたトゥーレーヌ州の現在

デカルトは1596年3月21日にフランスのトゥーレ州、ラ・エーに生まれました。しかし、デカルトの母は、彼が一歳になって間もなく、弟を産んだ後、肺の病気で亡くなっています。

母の病気のせいか、デカルトも幼少の頃から、青白い肌でいつも空咳をする子供でした。医師である祖父の元で育ったデカルトは、20歳までに若死にする予言され、自分もそれを信じていました。

しかし、病弱だったおかげで、1年遅れて入学したラ・フレーシュ学院では、個室が与えられ、朝寝も許されています。成長してデカルトが医学に興味を示すようになったのは、必然と言えるでしょう。

デカルトは健康に気を使っていた

健康の維持はデカルトにとって重要なことだった

生まれた頃から病弱だったデカルトは、健康にとても気を使っていました。食に注意し、適度な運動を心がけていたため、30年ほどは病気らしい病気もなく過ごしています。また健康の維持は、デカルトの哲学の主題でもありました。

健康こそが、この世のあらゆる善の基礎である

ともデカルトは言っています。健康管理を徹底していたデカルトですが、皮肉なことに風邪をこじらせ、54歳の若さで死去します。生活習慣の変化は、デカルトにとってかなりの痛手だったのでしょう。

デカルトは行動力のある性格だった?

さらなる知識を求めて旅に出たデカルト

デカルトは知的好奇心旺盛で、行動力のある性格をしていました。それは彼が残した科学の功績が物語っています。デカルトは8年間の学生生活を終えたのち、書物の知識ではなく、「世間という大きな書物」から得られる経験を求めて旅に出ました。

デカルトは自然科学への興味から、当時研究が盛んだったオランダの軍隊に入ったり、アルプス超えの道を歩いたり、ドイツやフランス、イタリアを巡ったりと研究のために各地をめぐりました。

それ以外にも、尊敬する人(親友や有名な学僧、研究者など)との交流を大切にしており、フットワークの軽い人でした。

数学者デカルトの始まりとは

デカルト座標(直交座標)

オランダで軍隊に従事していた時のこと、彼は散歩の途中で、壁に貼られた一枚のポスターに目を止めました。 そこには、未解決の数学の問題が書かれており、「この問題を解くものはいないか」と、問いかけてあるようでした。

しかし、デカルトはオランダ語ができないため、たまたま隣にいた紳士に訳してくれないかと頼んだのです。すると紳士は「問題を解く気がなければ訳しても無駄だ。問題を解いてみたまえ。」とデカルトに提案しました。「解けたらその紳士のところへ持参する。」との条件にデカルトが応じ、紳士は問題を訳しました。

翌日、デカルトは見事命題を解き、紳士を驚かせます。しかも、その問題は素晴らしい解決法で解かれていたのです。

このオランダ紳士こそ、有名な数学者、イサク・ベークマンでした。この出会いをきっかけに、二人は親しくなり、「デカルト座標」を築くきっかけとなります。

愛した娘の死とデカルトの孤独

娘の名前をつけた自動人形をそばに置いた

デカルトは生涯独身をとおしていますが、オランダ時代に召使のヘレナと言う女性と恋に落ち、娘を授かっています。フランシーヌと名付けました。

母娘はデカルトの家の近くに住み、定期的にデカルトの屋敷へ通っていました。公式には姪と偽っていましたが、デカルトはフランシーヌを溺愛していたそうです。

しかし、フランシーヌが5歳になった時、彼女は病により早世します。

娘を失ったデカルトの悲しみは、予想以上に深く、生前のフランシーヌの姿そっくりの、「フランシーヌ人形」を作り傍に置きました。これにより、澁沢龍彦の「デカルト・コンプレックス」という言葉が産まれてくるのです。

デカルトの死因は風邪をこじらせたこと!?

スウェーデンの冬はデカルトにとって厳しかった

デカルトは肺炎でなくなりましたが、そのきっかけとなったのが風邪です。風邪をこじらせたと聞くと、体調管理に無頓着な人だったのかと思ってしまいますが、デカルトはむしろ健康に気を使っていた人物でした。

肺炎で亡くなる直前、デカルトはクリスティーナ女王の求めに応じて、スウェーデンに滞在していました。生まれたときから体が丈夫でなかったデカルトにとって、スウェーデンの冬は厳しいものでした。

さらに追い討ちをかけたのは、多忙なクリスティーナ女王に教えるため、彼女の要請に従って朝5時に図書館へ通っていたことです。厳しい寒さと生活習慣の変化により、デカルトは風邪を引いてしまいます。

風邪が悪化して肺炎となり、デカルトは54歳という若さでこの世を去りました。

デカルトの功績

功績1「近代哲学の父と呼ばれた」

近代哲学の父と呼ばれたデカルト

デカルトは科学が急速に発達した時代に生まれ、近代哲学の父と呼ばれました。

今までの常識をいったん引き離し、すべてを疑うことが本当に科学的で合理的な立場だとデカルトは考え、哲学を展開します。

精神と身体は別々の実体を持つ2つのもので、互いに影響を与えるとする「心身二元論」や、デカルトの形而上学(世界の成り立ちや人間の存在理由、意味を追求する学問)を表す「我思う、ゆえに我あり」などを提唱しました。

これらの思想はのちの哲学者たちに影響を及ぼし、彼ら独自の哲学体系を展開するきっかけとなります。

功績2「デカルトは物理学で重要な法則を発見し、定式化した」

慣性の法則、運動保存の法則、虹の原理など数々の法則を発見、定式化した

デカルトは物理学で重要な法則(慣性の法則、運動保存の法則、虹の原理)を発見し、科学の発展に貢献しました。慣性の法則とは力が加わらない限り、止まっている物体は動かない。そして動いている物体は一定の速度で動き続ける、という法則です。

慣性の法則の身近な例に、だるま落としがあります。積み上げた木片を一つ、ハンマーで横に叩き飛ばしても、上に乗っただるまは宙に浮いて、重力に従って下へ落ちます。

次に運動保存の法則ですが、これは外部から力が加わらない限り、運動量の総和は変わらないという法則です。主にロケットの速度などを求めるときに使われます。現代物理学でも重要な公式の一つで、デカルトが公式化しました。

虹の原理は、虹がどのようにしてできるかを説明しています。デカルトによると、虹は空気中の水蒸気に差し込んだ光の屈折と反射によって生み出されているそうです。このように、デカルトは物理学で重要な法則を発見しました。

デカルトがもしいなかったら、今の便利な世の中はなかったかもしれません。

功績3「真理を追求するために編み出された『方法序説』 」

『方法序説』は信仰に頼らない、合理的な真理の探究法を記している

デカルトは41歳のとき、真理を追求するための方法を記した『方法序説』を出版します。真理追求の方法として、デカルトは『方法序説』で4つのルールを取り決めました。簡単にまとめると次のようになります。

  • 自分が明確に正しいと認めたもの以外は、何も受け入れない
  • 問題をできるだけ小さな要素に分けて考える
  • 追求するさいは一番単純なものから始め、徐々に複雑なものへ移る
  • 見落としがないか、最後にすべて再度考える

この考え方のすごいところは、真理を信仰ではなく理性的で合理的な方法で探究しようとした点にあります。

デカルトのいた時代は、神の存在を人々が信じていた時代でした。有名な科学者であるガリレオやニュートンも、神の存在を疑っていなかったほどです。

そんな時代でデカルトが示した方法は、近代科学の分野で利用され、今の科学文明へとつながっています。

デカルトの名言

科学、哲学の分野で活躍したデカルトの名言

デカルトといえば、「我思うゆえに、我あり」という名言が有名ですが、デカルトはそれ以外にも数々の名言を残しています。

死を恐れず生を愛すること

デカルトは身体だけでなく、精神の健康にも気を使っていました。上記の名言は、精神の健康を保つ秘訣です。デカルトにとって、生を愛する、ということは尊敬する人々との交流を楽しむことです。

家族や友人から遠く離れた地での生活は、たまに訪れる親しい人との交流をひときわ楽しいものにします。デカルトもそうだったことがこの名言から伝わってきますね。

難問は、それを解くのに適切かつ必要なところまで分割せよ

解決が難しい問題は、大抵の場合小さな問題の集まりであることが多いです。そのため、できる限り小さな要素に分けると、案外簡単に解決できます。

科学者であり、哲学者だったデカルトの含蓄あふれる名言です。

疑いは知のはじまりである

デカルトは今ある常識をすべて疑い、数々の功績を残しました。当たり前のことに注目してみると、意外と世の中は不思議で満ちています。

わたしたちはなぜスマホでインターネットを見られるのか、なぜ鳥は空を飛べるのか、注目し調べたり考えたりしてみると、新しい発見がありますよ。

弟子レギウスとデカルトの関係

レギウスとデカルトは良好な関係だったが、最後には決裂した

レギウスとデカルトの関係は師匠と弟子でした。

レギウスはオランダの大学の医学者・自然学者です。彼がデカルトの弟子となったきっかけは、1637年に出版された『方法序説および三試論』でした。レギウスはこれを熱心に読み、いたく感激します。

彼はデカルトの原理を使って「生理学」を子弟に教えました。単純かつ明快な解説は評判になり、レギウスは大学の教授に推薦されました。この時レギウスは初めて、デカルトへの感謝と敬意の気持ちを書簡で伝えます。

見知らぬ人からの手紙にデカルトは驚きましたが、これをきっかけに2人の交流が始まりました。そして書簡での交流だけでなく家族ぐるみの付き合いもあり、2人は大変良好な関係を築いていました。

しかしある日形而上学の分野で意見が合わず、最後は喧嘩別れしました。

デカルトにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「旅の途中、船乗りに殺されそうになったデカルト」

船乗りに襲われそうになったデカルト

「世間という大きな書物」からの経験を求めて旅に出たデカルトは、船で移動するとき船乗りに殺されそうになりました。

1621年、デカルトが25歳のときです。ドイツの北西部から、オランダ北部へ船で移動するとき、船に乗っていた船乗りがデカルトの荷物を殺して奪おうと画策しました。

礼儀正しく、ひ弱な外国人。この土地の言葉などわからないだろう、と考えた船乗りたちは、目の前でデカルトを襲う算段を話していました。

しかし、デカルトは彼らが本気だと見て、突然立ち上がります。礼儀正しい態度をがらりと変え、威厳をもって剣を抜き放ち、彼らの言葉で「あえて無礼をはたらくならば、刺殺すぞ」と有無を言わさぬ調子で言いました。

船乗りは突然のことに呆然とし、自分たちの有利な立場を忘れてデカルトの言うことを聞きました。結果、デカルトは無事に目的地までたどり着けたそうです。

この話は『デカルト殿の生涯』(伝記)に書かれていたもので、著者であるバイエはデカルトに会ったことがありません。そのため、事実かどうかは定かではないです。ですが、現代でも海外を旅していると、スリや詐欺など恐ろしい目にあってしまうことがあります。

そう考えると、あながち嘘ではないかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝2「旅するデカルトの頭蓋骨」

デカルトの頭骨がある人類博物館

1650年、デカルトはスウェーデンで客死しました。しかし、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。

16年後の1666年、デカルトの遺骨はパリのサント・ジュヌヴィエーブ修道院に移されました。そこで永遠の眠りにつくはずだったのですが・・・

それから100年後の18世紀。フランスの偉人たちが眠るパンテオンにデカルトも改めて埋葬する提案が持ち上がります。しかし、当時デカルトの宇宙論に賛同するものと、ニュートンの引力理論を支持するものとで意見が分かれ、結局デカルトの遺骨はパンテオンには葬られませんでした。

ところが、また100年経った1812年、いきなりデカルトの頭蓋骨がストックホルムで発見されます。その後も借金のカタにビール屋に売られたり、オークションにかけられたり、聖遺物として崇められたりと、頭蓋骨だけが、ヨーロッパじゅうを転々と渡っていったのです。

いったいいつ、そして、なぜ、頭蓋骨だけが持ち去られたのかは、今だに謎のままです。

現在は、パリ市内の人類博物館に、ネアンデルタール人、クロマニヨン人の巣骸骨の横に、「ホモサピエンス」と掲示され、彼の本とともに展示されています。

デカルトの簡単年表

1596年
デカルトの誕生
1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーにて生まれました。父はブルターニュの高等法院評定官でしたが、元々医者の家系であり、祖父、曾祖父とも医師です。

1歳の時に病弱だった母が死去。デカルトは、その虚弱体質を受け継ぎ、「若死にする」と言われ、祖母と乳母に育てられています。

1607年-1614
学問への扉
11歳でラフレーシュ学院へ入学。

フランス王アンリ4世が邸宅を提供したラ・フレーシュ学院は、イエズス会の学校の中でも優秀な教師、生徒が集められており、18歳で大学へ進学するまで、思想の元となる、スコラ哲学や論理学・形而上学・自然学、占星術や魔術まで、ありとあらゆる知識を得たと言われています。

1618年-1623年
軍隊と放浪の時代
大学卒業と共に、「書物を捨て世に出る」決意をしたデカルトは、1618年、22歳の時にオランダで、ナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わります。

そのころ、マウリッツの軍隊は近代化されており、新兵器の開発も盛んであったことから、技術者や数学者との交流を求めていたと考えられます。

1628年-1650年
オランダへ移住。スウェーデンでの最期
軍隊生活を送りながら、ドイツ、イタリア、フランスなどを渡り歩いたデカルトは、最終的にオランダで隠棲生活を送ります。1637年の『方法序説』を皮切りに、『省察』『哲学原理』『情念論』など、代表作はこの時期に書かれました。

1649年、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取り、スゥエーデンへ。1650年、肺炎をこじらせ逝去。

朝寝の習慣をやめ、女王のために朝5時からの講義を行ったためと言われています。

デカルトの年表

1596年 -1614~ 0-18歳「 デカルトの誕生から青年期」

デカルト博物館となっているデカルトの生家

母の死がもたらした伝説

デカルトは、1596年3月31日にフランスのトゥレーヌ州のラ・エーに生まれました。祖父、曾祖父とも医者と言う、医師の家系ではありましたが、父はブルターニュ高等法院官でした。

1歳の時に、弟を出産後、病弱だった母が亡くなります。弟も3日しか生きませんでした。早逝したからなのか、デカルトには、この弟のことは知らされておらず、デカルトは、大人になってからも、母親は自分を産んだ後に亡くなったと思い込んでいたそうです。

後に、愛弟子で文通相手となったエリーザベト王女に書き送っています。

「私は、私が産まれてすぐに、肺の病にかかって亡くなった母から空咳と青白い肌を受け継ぎ、私を診た医師はすべて、私が若死にすると宣告しておりました。」

彼は、自分が母親の死の原因と言う重荷を背負い、「20歳過ぎるまでに、若死にする」という予言の元に生きねばなりませんでした。

ラ・フレーシュ学院での実りの時

ラ・フレーシュ学院

母亡き後デカルトは、医師である祖父の元で育てられました。病弱だったため、1607年の復活祭の時に1年遅れの11歳で、ラ・フレーシュ学院に入学します。

このラ・フレーシユ学院は、生地、ラ・エーの近くにあって、1604年、国王アンリ四世によって創設され、反宗教改革、カソリック教団イエス会によって運えされていました。現代風に言えば、中高一貫の寄宿学校です。

デカルトは、この学院のことを「ヨーロッパでもっとも有名な学校の一つ」と言い、「この地のどこかに学識ある人がいるならば、ここにいるはずだと思っていた」と述べています。

また、後年、友人に息子の教育のことを相談された時、デカルトは迷わず、「この世の中で、ラ・フレーシュ学院以上に哲学を学べると判断するところはない」と言い切りました。

実際に、この学院にはフランスじゅうから優秀な若者が集まっており、旅行をするのと同様の体験が出来ました。さらに「イエスズ会士が身分差無く、すべての生徒たちに接し、平等感を与えていた」ことも賞賛しています。

とはいえ、時の学院長が彼の親戚シェルレ神父であったことから、病弱なデカルトは特別待遇を受け、個室を与えられ、朝寝が許されていました。これは最期まで習慣化されており、亡くなった理由も、スウェーデン王女へ講義をするため、朝5時に起きたことから体調を壊したと言われています。

ラ・フレーシュ学院への評価と成長

熱意ある学生だったデカルト

18歳までの時期を過ごした、ラ・フレーシュ学院において、デカルトは「学べるものは全て学ぶ」と言う、非常な熱意を持っていました。

それには「人生に有用」であるかそうでないかのラインがあり、様々な勉学に対して評価をしています。

例えば言語に対して、「古代の書物を理解するために色々な言語が必要である(特に、ロシア語やラテン語)」と述べ、「すべての良書を読むことは、その著書であるところの過去の世紀の最も立派な人の、思想の最良の部分のみを示してくれる、良く練られた会話である」と評しています。

その会話は「雄弁は比類ない、強さと美しさとを持っており、詩はまことに人の心を奪う優美さと美しさを持っている」と高評しました。

のちにその分野で画期的な功績をあげる数学にたいしても「大変巧妙な工夫をもたらし、それらの工夫は、全ての技術を容易にして、人間の労苦を減じるのにも大変役に立ちうる」と述べておりながら、当時はまだ本当の用途に気づいていなかったと回想しています。

肝心の哲学については、「あらゆる事柄について真実らしく語り、学識の浅い人々から賞賛される術を与えるものである」と述べています。

それというのも、学院ではスコラ哲学を用い、教育では「討論」形式をとっていたことに起因します。

問題提起された事柄にたいして、否定的、肯定的意見を吟味すると言うやり方が、デカルトには、しっかりした基盤が感じられず、ただ「真実らしいもの」を導き出すように思え、結果的には、スコラ哲学から離れる道を選ぶことになるのです。

こうして彼が18歳までに得たものは、成年になった途端、全て放棄され、「自分自身の内にみいだされうる学問、あるいは世界という、大きな書物のうちにみいだされうる学問の他、いかなる学問も求めまいと決心」させる大きな理由となったのです。

1618年 -1623年 22歳-27歳「 軍隊への志願。世界という大きな書物を開く」

オランダ・ブレダ

ベークマンとの出会い。数学者としての礎を築く

デカルトが志願兵として入隊したのは、オランダのブレダにあった、ナッサウ公マウリッツの軍事学校でありました。

偶然とはいえ、このブレダで、オランダ人の自然学者、イサーク・ベークマンと知り合い、共同研究を行うことになります。これは、その後の彼の学問的方向を決定する大切な出会いとなりました。

1619年4月、三十年戦争勃発。デカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと向かいました。ベークマンとの学問的向上があったにせよ、休戦状態の続くマウリッツの軍隊で生活に退屈していたデカルトには、好機であったのです。

この機を逃すまいと、フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席すると、そのままバイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入るのでした。

そして5か月後の10月、デカルトは精神力のすべてをかけて、自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもり、翌11月10日の夜、有名な3つの神秘的な夢をみることになります。

「デカルトの夢」

激しい雷鳴に飛び起きた2番目の夢

この3つの神秘的な夢は、デカルト研究において、様々な解釈のなされているものです。

まず、一つ目の夢はデカルトが激しい風の中、何故か、身体の右側に弱さを感じながら、母校の神学校に向かって歩いて行くと、そこに男がいて「異国から運ばれてきたメロンをもらいにいけ」と言われます。風が強かったにも関わらず、大勢の男たちが、強風の中、力を入れず、普通に立っていたと言う夢。

二つ目の夢は、突然、稲妻が落ちたような音を聞き、飛び起きたらば、部屋が無数の閃光に包まれていたというもの。

そして、三つ目の夢は、机の上に辞書と詩集がおいてあり、そこで、一人の男から詩集について質問されたので、詩を捜しますが、なぜか詩集には、詩はなく、人物肖像の銅版画ばかりが描いてあり、焦って捜すうちに、詩集も男も消えて目が覚めたと言うものでありました。

これらが夢である以上、その意味を確定するものでもありませんが、実は、同じ11月の10日の昼間に「驚くべき学問の基礎」(数学の統一が、あらゆる学問を統一する)を発見し、彼に精神の高揚と、霊感をもたらしたとされ、それによって、現れた夢だと解釈されています。

パリでの滞在と交流の始まり

マラン・メルセンヌ

1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩き、イタリアへの旅を終えたデカルトは、パリにしばらく住むことになります。

滞在中、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな見識者と交流を始めます。

そして、教皇使節ド・バニュの屋敷において、彼は初めて公衆に、自分の哲学的構想を明らかにします。

そこにはオラトリオ修道会の神父たちもおり、中でも枢機卿ド=ベリュルはデカルトの新しい哲学の構想を良く理解し、さらに、それを実現させるべく努めることが、デカルトの「良心の義務」だと強く言い、研究に取り組むことを勧めました。

1628年、オランダ移住直前に、自らの哲学的構想の方法について考察した『精神指導の規則』をラテン語で書きましたが、未完で終わっています。

1628年-1650年 -32-54歳「 オランダでの隠棲生活と最期の時」

フラネカーの街

オランダへでの生活と諸学問の構築

デカルトは、遍歴と修行を重ねた後、いよいよ新たな学問体系の構築に専念すべく、1628年の終わりに、自由と独居を求めて再びオランダへ渡ります。

フリースラントの北方、フラネカーに居を定めると、以後1649年にスウェーデンに赴くまで、ずっとオランダに住みました。

ここで彼は、全哲学の基礎である形而上学に没頭し、その成果がデカルトの最終的な哲学の第一の礎石となります。

この頃に書かれた著作、『世界論』は、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものでありました。

しかし、1633年に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイに対し、ローマの異端審問所が、審問を受け、地動説の破棄を求める事件が起ったため、デカルトは『世界論』の公刊を断念しています。

そして、1637年には代表的著作である、『方法序説』を公刊。1641年、パリで『省察』を公刊しました。

この『省察』は、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して、あらかじめ反論をもらい、それに対しての、再反論を付したものです。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まっていきます。

1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりが始まりました。

これはデカルトが死ぬまで続き、この時のエリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始めたとされています。

人生最期の旅

サンジェルマン・デ・プレ教会

1649年の年明けから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナからの招聘親書を3度受け取ります。

そして、4月には、改めてスウェーデンの海軍提督が軍艦をもってして、デカルトを迎えにきました。

招聘を受け入れたデカルトは、女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着します。

そして、翌1650年1月から、女王のために、朝5時からの講義を始めました。
献身的な奉仕により、クリスティーナ女王のカトリックの帰依にも貢献しています。

しかし、幼少の頃から朝寝の習慣があるデカルトにとって、真冬の早朝講義は、身体的に非常に辛い毎日でありました。そして、2月に風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去します。

この時、デカルトはスウエーデンでの客死となりましたが、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。

1666年、改めてフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移され、やっと、波乱万丈の生涯が本当の終わりを迎えたのでした。

デカルトの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

「デカルト入門」 小林道夫 著


本書は、コギトの確立に体系の集約点をみるドイツ観念論の桎梏を解き放ち、認識論と形而上学から、自然学や宇宙論にまで及ぶ壮大な知の体系のもとに、デカルトの真実の姿を見いだそうとする本格的な入門書です。

デカルトの思想を心の哲学や環境世界などの現代的視点から読みなおした本でもあります。

「方法序説」 ルネ・デカルト 著


すべての人が真理を見いだすための方法を求めて,思索を重ねたデカルト。本書は、その彼がいっさいの外的権威を否定して達した,思想の独立宣言と言えるでしょう。

本書で示される新しい哲学の根本原理と方法,自然の探求の展望などは,近代の礎を築くものとしてわたしたちの学問の基本的な枠組みをなしています。

「省察・情念論」ルネ・デカルト 著


形而上学から出発して道徳問題の解明に向かう哲学的探究と言われています。

デカルトをよく知れるオススメ本6選【入門編から上級編まで】

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「哲学入門21 デカルト 我思う、ゆえに我あり」 白坂慎太郎

経営管理指導士の白坂慎太郎氏が近代哲学について、レクチャーしているチャンネル。
解説がわかりやすく、初心者でも入門的に気軽に観れます。

関連外部リンク

デカルトについてのまとめ

「われ思うゆえに、われあり」

この言葉の真意は、「常に疑うという思考をする自分は、正しい存在だ」ということです。デカルトは、貴族階級であり、本来、苦労をすることなく人生を全う出来たはずでした。

しかし、学問を捨て、兵隊に志願し、「疑う自分」を満足させるがごとく、ヨーロッパを渡り歩き、様々な経験と知識と人脈を得、最終の地スウェーデンで、あっけなく逝去しました。

54年の短い生涯で、彼の学術的好奇心は、どれだけ満たされていたのでしょうか。残されたホルマリン漬けの彼の「脳」に、問うてみたくなりました。

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