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ルネ・デカルトの生涯を歴史年表付きで解説【名言や思想も紹介】

デカルトと言えば、「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム cogito,ergo,sum)」と言う有名な命題でしょう。

一般的には、このコギトを哲学の第一原理とし、近代哲学の基礎を築いた人物と言われています。 しかし彼は、一生をただの机上の思想家では終わらせず、古代から現代にかけての思想家の中で、いくつもの国を渡り歩き、波乱の生涯を送った人物なのです。

生を受けたのは1596年のフランス。20歳を過ぎたころ、志願してオランダの軍事学校へ入学し、軍人となります。 そして、当時、30年戦争(ドイツとスイスでの宗教改革による新教派とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争)の戦場であるドイツへと渡った後、一時フランスへ戻り、その後イタリア旅行へ。

最終的にパリに滞在して、多くの文人、科学者、神学者と交流し、その間逸話には事欠かないと言う、正に波乱万丈、修行と冒険の人生を送っているのです。32歳の時に、オランダへ隠棲した折、有名な「方法序説」、「省察」等を執筆しますが、スウェーデン女王の懇請に応じてストックホルムへ赴いたところで、終焉。54歳。正に、ヨーロッパをまたにかけ、文武、両道を渡った生涯でありました。

デカルトの名言は?

「我思うゆえに、我あり」

「真理を探求した人たちの中で、明白な論拠を見出すことができたのは、数学者に他ならない」

「疑いは真理を追求するときに限られる。実生活ではもっともらしいことを採用すること」

「神は三つの驚くべきものを創りあげた。宇宙すべてのの諸物。自由意志。そして、イエス・キリスト」

「読書の旅は、ほどほどがいい。あまり長く旅を続けると、自分の国でよそ者になってしまうし、歴史にのめりこみすぎると、現代に対して無知になる」

「自信をもって、人生を生きよ。そのためには、本当のことと、間違っていることの見分け方を学ぶことだ」

「肉体の喜びは、必要なものを獲得した瞬間に消滅するが、魂が得る喜びは不滅である」

デカルトの来歴は?

名前ルネ・デカルト
英語名René Descartes
誕生日1596年3月31日
生地フランス王国・アンドル
=エ=ロワール県ラ・エー
没日1650年2月11日
没地スウェーデン・バルト帝国
・ストックホルム
配偶者独身(諸説あり)
埋葬場所サン・ジェルマン・デ・プレ教会

死を宣告された青白い少年デカルト

デカルトは1596年3月21日にフランスのトゥーレ州、ラ・エーに生まれました。しかし、デカルトの母は、彼が一歳になって間もなく、弟を産んだ後、肺の病気で亡くなっています。
母の病気のせいか、デカルトも幼少の頃から、青白い肌でいつも空咳をする子供でした。医師である祖父の元で育ったデカルトは、20歳までに若死にする予言され、自分もそれを信じていました。
しかし、病弱だったおかげで、1年遅れて入学したラ・フレーシュ学院では、個室が与えられ、朝寝も許されています。
成長してデカルトが医学に興味を示すようになったのは、必然と言えるでしょう。

数学者デカルトの始まりは?

オランダで軍隊に従事していた時のこと、彼は散歩の途中で、壁に貼られた一枚のポスターに目を止めました。 そこには、未解決の数学の問題が書かれており、「この問題を解くものはいないか」と、問いかけてあるようでした。

しかし、デカルトはオランダ語ができないため、たまたま隣にいた紳士に訳してくれないかと頼んだのです。すると紳士は「問題を解く気がなければ訳しても無駄だ。問題を解いてみたまえ。」とデカルトに提案しました。「解けたらその紳士のところへ持参する。」との条件にデカルトが応じ、紳士は問題を訳しました。

翌日、デカルトは見事明代を解き、紳士を驚かせます。しかも、その問題は素晴らしい解決法で解かれていたのです。このオランダ紳士こそ、有名な数学者、イサク・ベークマンでした。この出会いをきっかけに、二人は親しくなり、「デカルト座標」を築くきっかけとなります。

愛した娘の死とデカルトの孤独

デカルトは生涯独身をとおしていますが、オランダ時代に召使のヘレナと言う女性と恋に落ち、娘を授かています。フランシーヌと名付けました。 母娘はデカルトの家の近くに住み、定期的にデカルトの屋敷へ通っていました。公式には姪と偽っていましたが、デカルトはフランシーヌを溺愛していたそうです。

しかし、フランシーヌが5歳になった時、彼女は病により早世します。娘を失ったデカルトの悲しみは、予想以上に深く、生前のフランシーヌの姿そっくりの、「フランシーヌ人形」を作り傍に起きました。これにより、澁沢龍彦の「デカルト・コンプレックス」という言葉が産まれてくるのです。

デカルトにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「旅するデカルトの頭蓋骨」

1650年、デカルトはスウェーデンで客死しました。しかし、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。16年後の1666年、デカルトの遺骨はパリのサント・ジュヌヴィエーブ修道院に移されました。そこで永遠の眠りにつくはずだったのですが・・・

それから100年後の18世紀。フランスの偉人たちが眠るパンテオンにデカルトも改めて埋葬する提案が持ち上がります。しかし、当時デカルトの宇宙論に賛同するものと、ニュートンの引力理論を支持するものとで意見が分かれ、結局デカルトの遺骨はパンテオンには葬られませんでした。

ところが、また100年経った1812年、いきなりデカルトの頭蓋骨がストックホルムで発見されます。その後も借金のカタにビール屋に売られたり、オークションにかけられたり、聖遺物として崇められたりと、頭蓋骨だけが、ヨーロッパじゅうを転々と渡っていったのです。いったいいつ、そして、なぜ、頭蓋骨だけが持ち去られたのかは、今だに謎のままです。

現在は、パリ市内の人類博物館に、ネアンデルタール人、クロマニヨン人の巣骸骨の横に、「ホモサピエンス」と掲示され、彼の本とともに展示されています。

デカルトの早見年表

1596年
デカルトの誕生
1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーにて生まれました。父はブルターニュの高等法院評定官でしたが、元々医者の家系であり、祖父、曾祖父とも医師です。

1歳の時に病弱だった母が死去。デカルトは、その虚弱体質を受け継ぎ、「若死にする」と言われ、祖母と乳母に育てられています。

1607年-1614
学問への扉
11歳でラフレーシュ学院へ入学。

フランス王アンリ4世が邸宅を提供したラ・フレーシュ学院は、イエズス会の学校の中でも優秀な教師、生徒が集められており、18歳で大学へ進学するまで、思想の元となる、スコラ哲学や論理学・形而上学・自然学、占星術や魔術まで、ありとあらゆる知識を得たと言われています。

1618年-1623年
軍隊と放浪の時代
大学卒業と共に、「書物を捨て世に出る」決意をしたデカルトは、1618年、22歳の時にオランダで、ナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わります。

そのころ、マウリッツの軍隊は近代化されており、新兵器の開発も盛んであったことから、技術者や数学者との交流を求めていたと考えられます。

1628年-1650年
オランダへ移住。スウェーデンでの最期
軍隊生活を送りながら、ドイツ、イタリア、フランスなどを渡り歩いたデカルトは、最終的にオランダで隠棲生活を送ります。1637年の『方法序説』を皮切りに、『省察』『哲学原理』『情念論』など、代表作はこの時期に書かれました。

1649年、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取り、スゥエーデンへ。1650年、肺炎をこじらせ逝去。

朝寝の習慣をやめ、女王のために朝5時からの講義を行ったためと言われています。

デカルトの具体年表

1596年 -1614~ 0-18歳「 デカルトの誕生から青年期」

母の死がもたらした伝説

デカルトは、1596年3月31日にフランスのトゥレーヌ州のラ・エーに生まれました。祖父、曾祖父とも医者と言う、医師の家系ではありましたが、父はブルターニュ高等法院官でした。

1歳の時に、弟を出産後、病弱だった母が亡くなります。弟も3日しか生きませんでした。早逝したからなのか、デカルトには、この弟のことは知らされておらず、デカルトは、大人になってからも、母親は自分を産んだ後に亡くなったと思い込んでいたそうです。

後に、愛弟子で文通相手となったエリーザベト王女に書き送っています。

「私は、私が産まれてすぐに、肺の病にかかって亡くなった母から空咳と青白い肌を受け継ぎ、私を診た医師はすべて、私が若死にすると宣告しておりました。」

彼は、自分が母親の死の原因と言う重荷を背負い、「20歳過ぎるまでに、若死にする」という予言の元に生きねばなりませんでした。

ラ・フレーシュ学院での実りの時

母亡き後デカルトは、医師である祖父の元で育てられました。病弱だったため、1607年の復活祭の時に1年遅れの11歳で、ラ・フレーシュ学院に入学します。

このラ・フレーシユ学院は、生地、ラ・エーの近くにあって、1604年、国王アンリ四世によって創設され、反宗教改革、カソリック教団イエス会によって運えされていました。現代風に言えば、中高一貫の寄宿学校です。

デカルトは、この学院のことを「ヨーロッパでもっとも有名な学校の一つ」と言い、「この地のどこかに学識ある人がいるならば、ここにいるはずだと思っていた」と述べています。

また、後年、友人に息子の教育のことを相談された時、デカルトは迷わず、「この世の中で、ラ・フレーシュ学院以上に哲学を学べると判断するところはない」と言い切りました。

実際に、この学院にはフランスじゅうから優秀な若者が集まっており、旅行をするのと同様の体験が出来ました。さらに「イエスズ会士が身分差無く、すべての生徒たちに接し、平等感を与えていた」ことも賞賛しています。

とはいえ、時の学院長が彼の親戚シェルレ神父であったことから、病弱なデカルトは特別待遇を受け、個室を与えられ、朝寝が許されていました。これは最期まで習慣化されており、亡くなった理由も、スウェーデン王女へ講義をするため、朝5時に起きたことから体調を壊したと言われています。

ラ・フレーシュ学院への評価と成長

18歳までの時期を過ごした、ラ・フレーシュ学院において、デカルトは「学べるものは全て学ぶ」と言う、非常な熱意を持っていました。

それには「人生に有用」であるかそうでないかのラインがあり、様々な勉学に対して評価をしています。

例えば言語に対して、「古代の書物を理解するために色々な言語が必要である(特に、ロシア語やラテン語)」と述べ、「すべての良書を読むことは、その著書であるところの過去の世紀の最も立派な人の、思想の最良の部分のみを示してくれる、良く練られた会話である」と評しています。

その会話は「雄弁は比類ない、強さと美しさとを持っており、詩はまことに人の心を奪う優美さと美しさを持っている」と高評しました。

のちにその分野で画期的な功績をあげる数学にたいしても「大変巧妙な工夫をもたらし、それらの工夫は、全ての技術を容易にして、人間の労苦を減じるのにも大変役に立ちうる」と述べておりながら、当時はまだ本当の用途に気づいていなかったと回想しています。

肝心の哲学については、「あらゆる事柄について真実らしく語り、学識の浅い人々から賞賛される術を与えるものである」と述べています。

それというのも、学院ではスコラ哲学を用い、教育では「討論」形式をとっていたことに起因します。問題提起された事柄にたいして、否定的、肯定的意見を吟味すると言うやり方が、デカルトには、しっかりした基盤が感じられず、ただ「真実らしいもの」を導き出すように思え、結果的には、スコラ哲学から離れる道を選ぶことになるのです。

こうして彼が18歳までに得たものは、成年になった途端、全て放棄され、「自分自身の内にみいだされうる学問、あるいは世界という、大きな書物のうちにみいだされうる学問の他、いかなる学問も求めまいと決心」させる大きな理由となったのです。

1618年 -1623年 22歳-27歳「 軍隊への志願。世界という大きな書物を開く」

ベークマンとの出会い。数学者としての礎を築く

デカルトが志願兵として入隊したのは、オランダのブレダにあった、ナッサウ公マウリッツの軍事学校でありました。

偶然とはいえ、このブレダで、オランダ人の自然学者、イサーク・ベークマンと知り合い、共同研究を行うことになります。これは、その後の彼の学問的方向を決定する大切な出会いとなりました。

1619年4月、三十年戦争勃発。デカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと向かいました。ベークマンとの学問的向上があったにせよ、休戦状態の続くマウリッツの軍隊で生活に退屈していたデカルトには、好機であったのです。

この機を逃すまいと、フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席すると、そのままバイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入るのでした。

そして5か月後の10月、デカルトは精神力のすべてをかけて、自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもり、翌11月10日の夜、有名な3つの神秘的な夢をみることになります。

「デカルトの夢」

この3つの神秘的な夢は、デカルト研究において、様々な解釈のなされているものです。

まず、一つ目の夢はデカルトが激しい風の中、何故か、身体の右側に弱さを感じながら、母校の神学校に向かって歩いて行くと、そこに男がいて「異国から運ばれてきたメロンをもらいにいけ」と言われます。風が強かったにも関わらず、大勢の男たちが、強風の中、力を入れず、普通に立っていたと言う夢。

二つ目の夢は、突然、稲妻が落ちたような音を聞き、飛び起きたらば、部屋が無数の閃光に包まれていたというもの。

そして、三つ目の夢は、机の上に辞書と詩集がおいてあり、そこで、一人の男から詩集について質問されたので、詩を捜しますが、なぜか詩集には、詩はなく、人物肖像の銅版画ばかりが描いてあり、焦って捜すうちに、詩集も男も消えて目が覚めたと言うものでありました。

これらが夢である以上、その意味を確定するものでもありませんが、実は、同じ11月の10日の昼間に「驚くべき学問の基礎」(数学の統一が、あらゆる学問を統一する)を発見し、彼に精神の高揚と、霊感をもたらしたとされ、それによって、現れた夢だと解釈されています。

パリでの滞在と交流の始まり

1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩き、イタリアへの旅を終えたデカルトは、パリにしばらく住むことになります。

滞在中、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな見識者と交流を始めます。

そして、教皇使節ド・バニュの屋敷において、彼は初めて公衆に、自分の哲学的構想を明らかにします。

そこにはオラトリオ修道会の神父たちもおり、中でも枢機卿ド=ベリュルはデカルトの新しい哲学の構想を良く理解し、さらに、それを実現させるべく努めることが、デカルトの「良心の義務」だと強く言い、研究に取り組むことを勧めました。

1628年、オランダ移住直前に、自らの哲学的構想の方法について考察した『精神指導の規則』をラテン語で書きましたが、未完で終わっています。

1628年-1650年 -32-54歳「 オランダでの隠棲生活と最期の時」

オランダへでの生活と諸学問の構築

デカルトは、遍歴と修行を重ねた後、いよいよ新たな学問体系の構築に専念すべく、1628年の終わりに、自由と独居を求めて再びオランダへ渡ります。

フリースラントの北方、フラネカーに居を定めると、以後1649年にスウェーデンに赴くまで、ずっとオランダに住みました。

ここで彼は、全哲学の基礎である形而上学に没頭し、その成果がデカルトの最終的な哲学の第一の礎石となります。

この頃に書かれた著作、『世界論』は、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものでありました。

しかし、1633年に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイに対し、ローマの異端審問所が、審問を受け、地動説の破棄を求める事件が起ったため、デカルトは『世界論』の公刊を断念しています。

そして、1637年には代表的著作である、『方法序説』を公刊。1641年、パリで『省察』を公刊しました。

この『省察』は、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して、あらかじめ反論をもらい、それに対しての、再反論を付したものです。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まっていきます。

1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりが始まりました。

これはデカルトが死ぬまで続き、この時のエリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始めたとされています。

人生最期の旅

1649年の年明けから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナからの招聘親書を3度受け取ります。

そして、4月には、改めてスウェーデンの海軍提督が軍艦をもってして、デカルトを迎えにきました。

招聘を受け入れたデカルトは、女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着します。

そして、翌1650年1月から、女王のために、朝5時からの講義を始めました。
献身的な奉仕により、クリスティーナ女王のカトリックの帰依にも貢献しています。

しかし、幼少の頃から朝寝の習慣があるデカルトにとって、真冬の早朝講義は、身体的に非常に辛い毎日でありました。そして、2月に風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去します。

この時、デカルトはスウエーデンでの客死となりましたが、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。

1666年、改めてフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移され、やっと、波乱万丈の生涯が本当の終わりを迎えたのでした。

デカルトの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

「デカルト入門」 小林道夫 著

本書は、コギトの確立に体系の集約点をみるドイツ観念論の桎梏を解き放ち、認識論と形而上学から、自然学や宇宙論にまで及ぶ壮大な知の体系のもとに、デカルトの真実の姿を見いだそうとする本格的な入門書です。デカルトの思想を心の哲学や環境世界などの現代的視点から読みなおした本でもあります。

「方法序説」 ルネ・デカルト 著

すべての人が真理を見いだすための方法を求めて,思索を重ねたデカルト。本書は、その彼がいっさいの外的権威を否定して達した,思想の独立宣言と言えるでしょう。本書で示される新しい哲学の根本原理と方法,自然の探求の展望などは,近代の礎を築くものとしてわたしたちの学問の基本的な枠組みをなしています。

「省察・情念論」ルネ・デカルト 著

形而上学から出発して道徳問題の解明に向かう哲学的探究と言われています。

おすすめ動画

「哲学入門21 デカルト 我思う、ゆえに我あり」 白坂慎太郎

経営管理指導士の白坂慎太郎氏が近代哲学について、レクチャーしているチャンネル。
解説がわかりやすく、初心者でも入門的に気軽に観れます。

関連外部リンク

デカルトについてのまとめ

「われ思うゆえに、われあり」

この言葉の真意は、「常に疑うという思考をする自分は、正しい存在だ」ということです。

デカルトは、貴族階級であり、本来、苦労をすることなく人生を全う出来たはずでした。

しかし、学問を捨て、兵隊に志願し、「疑う自分」を満足させるがごとく、ヨーロッパを渡り歩き、様々な経験と知識と人脈を得、最終の地オランダで、あっけなく逝去しました。

54年の短い生涯で、彼の学術的好奇心は、どれだけ満たされていたのでしょうか。
残されたホルマリン漬けの彼の「脳」に、問うてみたくなりました。

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