デカルトといえば、「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム cogito,ergo,sum)」という有名な命題でしょう。
一般的には、このコギトを哲学の第一原理とし、近代哲学の基礎を築いた人物と言われています。 しかし彼は、一生をただの机上の思想家では終わらせず、古代から現代にかけての思想家の中で、いくつもの国を渡り歩き、波乱の生涯を送った人物なのです。
デカルトは、最終的にパリに滞在して多くの文人、科学者、神学者と交流し、その間逸話には事欠かないと言う、正に波乱万丈、修行と冒険の人生を送りました。
ヨーロッパをまたにかけ、文武、両道を渡ったデカルトの生涯はいったいどんなものだったのか、詳しく紹介してまいります。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
デカルトとはどんな人物か?
名前 | ルネ・デカルト |
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英語名 | René Descartes |
誕生日 | 1596年3月31日 |
生地 | フランス王国・アンドル =エ=ロワール県ラ・エー |
没日 | 1650年2月11日 |
没地 | スウェーデン・バルト帝国 ・ストックホルム |
配偶者 | 独身(諸説あり) |
埋葬場所 | サン・ジェルマン・デ・プレ教会 |
デカルトの生涯をハイライト
近代哲学の父と呼ばれ、科学で数々の功績を残したデカルトは、どのような生涯を送ったのでしょうか。まずはデカルトの生涯をハイライトで見ていきましょう。
1596年の3月31日、デカルトはフランスのトゥレーヌ州の医師の家系に生まれました。生まれた頃から病弱だった彼は、1607年に1年遅れでラ・フレーシュ学院へ入学します。デカルトはこの学院で知的好奇心のおもむくまま、貪欲に知識を吸収し、基礎を固めました。
しかし学院で教えられていたスコラ哲学に疑念を抱いたデカルトは、18歳のときにこれまで得たものをすべて捨て、「世間という大きな書物」を見聞きするために旅に出ました。
オランダで志願兵として入隊し、自然学者ベークマンと共に研究をし、ドイツで三十年戦争が始まれば、ドイツへ赴き軍隊へ入ります。ドイツの軍隊へ入隊後、デカルトは3つの神秘的な夢を見ました。その3つの夢はデカルトに影響を与え、哲学者としての道を示しました。
ドイツを出たデカルトは、ヴェネツィア、ローマ、イタリアを渡り歩いたあと、パリにしばらく滞在することにしました。滞在中にはメルセンヌやホッブズといった哲学者や、その他さまざまな分野の専門家と交流します。
1628年、知識と経験を積んだデカルトはいよいよ新たな学問体系の構築に取り掛かりました。集中できる環境と自由を求めて、彼はオランダへと渡ります。そこから、デカルトは数々の功績を残しました。
1637年に彼の代表作である『方法序説』が出版され、1641年には『省察』が刊行。デカルトの評判は徐々に高まりました。その評判はプファルツ公女エリーザベトの耳に届き、彼女と書簡のやりとりが始まります。書簡のやりとりをきっかけに、デカルトは心身問題についても興味を持ち始めました。
1649年にはスウェーデンの女王クリスティーナから、講師として国へ招待したいという内容の手紙を3度受け取ります。4月には軍艦が迎えに向かったほどです。熱心な誘いを受けたデカルトは、9月にクリスティーナ女王の招待を受け入れ、スウェーデンへ出発しました。
しかしスウェーデンの冬は厳しく、生活習慣が変化したこともあり、デカルトは1650年に肺炎を患って亡くなりました。
死を宣告された青白い少年デカルト
デカルトは1596年3月21日にフランスのトゥーレ州、ラ・エーに生まれました。しかし、デカルトの母は、彼が一歳になって間もなく、弟を産んだ後、肺の病気で亡くなっています。
母の病気のせいか、デカルトも幼少の頃から、青白い肌でいつも空咳をする子供でした。医師である祖父の元で育ったデカルトは、20歳までに若死にする予言され、自分もそれを信じていました。
しかし、病弱だったおかげで、1年遅れて入学したラ・フレーシュ学院では、個室が与えられ、朝寝も許されています。成長してデカルトが医学に興味を示すようになったのは、必然と言えるでしょう。
デカルトは健康に気を使っていた
生まれた頃から病弱だったデカルトは、健康にとても気を使っていました。食に注意し、適度な運動を心がけていたため、30年ほどは病気らしい病気もなく過ごしています。また健康の維持は、デカルトの哲学の主題でもありました。
健康こそが、この世のあらゆる善の基礎である
ともデカルトは言っています。健康管理を徹底していたデカルトですが、皮肉なことに風邪をこじらせ、54歳の若さで死去します。生活習慣の変化は、デカルトにとってかなりの痛手だったのでしょう。
デカルトは行動力のある性格だった?
デカルトは知的好奇心旺盛で、行動力のある性格をしていました。それは彼が残した科学の功績が物語っています。デカルトは8年間の学生生活を終えたのち、書物の知識ではなく、「世間という大きな書物」から得られる経験を求めて旅に出ました。
デカルトは自然科学への興味から、当時研究が盛んだったオランダの軍隊に入ったり、アルプス超えの道を歩いたり、ドイツやフランス、イタリアを巡ったりと研究のために各地をめぐりました。
それ以外にも、尊敬する人(親友や有名な学僧、研究者など)との交流を大切にしており、フットワークの軽い人でした。
数学者デカルトの始まりとは
オランダで軍隊に従事していた時のこと、彼は散歩の途中で、壁に貼られた一枚のポスターに目を止めました。 そこには、未解決の数学の問題が書かれており、「この問題を解くものはいないか」と、問いかけてあるようでした。
しかし、デカルトはオランダ語ができないため、たまたま隣にいた紳士に訳してくれないかと頼んだのです。すると紳士は「問題を解く気がなければ訳しても無駄だ。問題を解いてみたまえ。」とデカルトに提案しました。「解けたらその紳士のところへ持参する。」との条件にデカルトが応じ、紳士は問題を訳しました。
翌日、デカルトは見事命題を解き、紳士を驚かせます。しかも、その問題は素晴らしい解決法で解かれていたのです。
このオランダ紳士こそ、有名な数学者、イサク・ベークマンでした。この出会いをきっかけに、二人は親しくなり、「デカルト座標」を築くきっかけとなります。
愛した娘の死とデカルトの孤独
デカルトは生涯独身をとおしていますが、オランダ時代に召使のヘレナと言う女性と恋に落ち、娘を授かっています。フランシーヌと名付けました。
母娘はデカルトの家の近くに住み、定期的にデカルトの屋敷へ通っていました。公式には姪と偽っていましたが、デカルトはフランシーヌを溺愛していたそうです。
しかし、フランシーヌが5歳になった時、彼女は病により早世します。
娘を失ったデカルトの悲しみは、予想以上に深く、生前のフランシーヌの姿そっくりの、「フランシーヌ人形」を作り傍に置きました。これにより、澁沢龍彦の「デカルト・コンプレックス」という言葉が産まれてくるのです。