ラ・フレーシュ学院への評価と成長
18歳までの時期を過ごした、ラ・フレーシュ学院において、デカルトは「学べるものは全て学ぶ」と言う、非常な熱意を持っていました。
それには「人生に有用」であるかそうでないかのラインがあり、様々な勉学に対して評価をしています。
例えば言語に対して、「古代の書物を理解するために色々な言語が必要である(特に、ロシア語やラテン語)」と述べ、「すべての良書を読むことは、その著書であるところの過去の世紀の最も立派な人の、思想の最良の部分のみを示してくれる、良く練られた会話である」と評しています。
その会話は「雄弁は比類ない、強さと美しさとを持っており、詩はまことに人の心を奪う優美さと美しさを持っている」と高評しました。
のちにその分野で画期的な功績をあげる数学にたいしても「大変巧妙な工夫をもたらし、それらの工夫は、全ての技術を容易にして、人間の労苦を減じるのにも大変役に立ちうる」と述べておりながら、当時はまだ本当の用途に気づいていなかったと回想しています。
肝心の哲学については、「あらゆる事柄について真実らしく語り、学識の浅い人々から賞賛される術を与えるものである」と述べています。
それというのも、学院ではスコラ哲学を用い、教育では「討論」形式をとっていたことに起因します。
問題提起された事柄にたいして、否定的、肯定的意見を吟味すると言うやり方が、デカルトには、しっかりした基盤が感じられず、ただ「真実らしいもの」を導き出すように思え、結果的には、スコラ哲学から離れる道を選ぶことになるのです。
こうして彼が18歳までに得たものは、成年になった途端、全て放棄され、「自分自身の内にみいだされうる学問、あるいは世界という、大きな書物のうちにみいだされうる学問の他、いかなる学問も求めまいと決心」させる大きな理由となったのです。
1618年 -1623年 22歳-27歳「 軍隊への志願。世界という大きな書物を開く」
ベークマンとの出会い。数学者としての礎を築く
デカルトが志願兵として入隊したのは、オランダのブレダにあった、ナッサウ公マウリッツの軍事学校でありました。
偶然とはいえ、このブレダで、オランダ人の自然学者、イサーク・ベークマンと知り合い、共同研究を行うことになります。これは、その後の彼の学問的方向を決定する大切な出会いとなりました。
1619年4月、三十年戦争勃発。デカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと向かいました。ベークマンとの学問的向上があったにせよ、休戦状態の続くマウリッツの軍隊で生活に退屈していたデカルトには、好機であったのです。
この機を逃すまいと、フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席すると、そのままバイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入るのでした。
そして5か月後の10月、デカルトは精神力のすべてをかけて、自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもり、翌11月10日の夜、有名な3つの神秘的な夢をみることになります。
「デカルトの夢」
この3つの神秘的な夢は、デカルト研究において、様々な解釈のなされているものです。
まず、一つ目の夢はデカルトが激しい風の中、何故か、身体の右側に弱さを感じながら、母校の神学校に向かって歩いて行くと、そこに男がいて「異国から運ばれてきたメロンをもらいにいけ」と言われます。風が強かったにも関わらず、大勢の男たちが、強風の中、力を入れず、普通に立っていたと言う夢。
二つ目の夢は、突然、稲妻が落ちたような音を聞き、飛び起きたらば、部屋が無数の閃光に包まれていたというもの。
そして、三つ目の夢は、机の上に辞書と詩集がおいてあり、そこで、一人の男から詩集について質問されたので、詩を捜しますが、なぜか詩集には、詩はなく、人物肖像の銅版画ばかりが描いてあり、焦って捜すうちに、詩集も男も消えて目が覚めたと言うものでありました。
これらが夢である以上、その意味を確定するものでもありませんが、実は、同じ11月の10日の昼間に「驚くべき学問の基礎」(数学の統一が、あらゆる学問を統一する)を発見し、彼に精神の高揚と、霊感をもたらしたとされ、それによって、現れた夢だと解釈されています。
パリでの滞在と交流の始まり
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩き、イタリアへの旅を終えたデカルトは、パリにしばらく住むことになります。
滞在中、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな見識者と交流を始めます。
そして、教皇使節ド・バニュの屋敷において、彼は初めて公衆に、自分の哲学的構想を明らかにします。
そこにはオラトリオ修道会の神父たちもおり、中でも枢機卿ド=ベリュルはデカルトの新しい哲学の構想を良く理解し、さらに、それを実現させるべく努めることが、デカルトの「良心の義務」だと強く言い、研究に取り組むことを勧めました。
1628年、オランダ移住直前に、自らの哲学的構想の方法について考察した『精神指導の規則』をラテン語で書きましたが、未完で終わっています。
1628年-1650年 -32-54歳「 オランダでの隠棲生活と最期の時」
オランダへでの生活と諸学問の構築
デカルトは、遍歴と修行を重ねた後、いよいよ新たな学問体系の構築に専念すべく、1628年の終わりに、自由と独居を求めて再びオランダへ渡ります。
フリースラントの北方、フラネカーに居を定めると、以後1649年にスウェーデンに赴くまで、ずっとオランダに住みました。
ここで彼は、全哲学の基礎である形而上学に没頭し、その成果がデカルトの最終的な哲学の第一の礎石となります。
この頃に書かれた著作、『世界論』は、デカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものでありました。
しかし、1633年に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイに対し、ローマの異端審問所が、審問を受け、地動説の破棄を求める事件が起ったため、デカルトは『世界論』の公刊を断念しています。
そして、1637年には代表的著作である、『方法序説』を公刊。1641年、パリで『省察』を公刊しました。
この『省察』は、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して、あらかじめ反論をもらい、それに対しての、再反論を付したものです。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まっていきます。
1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりが始まりました。
これはデカルトが死ぬまで続き、この時のエリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始めたとされています。
人生最期の旅
1649年の年明けから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナからの招聘親書を3度受け取ります。
そして、4月には、改めてスウェーデンの海軍提督が軍艦をもってして、デカルトを迎えにきました。
招聘を受け入れたデカルトは、女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着します。
そして、翌1650年1月から、女王のために、朝5時からの講義を始めました。
献身的な奉仕により、クリスティーナ女王のカトリックの帰依にも貢献しています。
しかし、幼少の頃から朝寝の習慣があるデカルトにとって、真冬の早朝講義は、身体的に非常に辛い毎日でありました。そして、2月に風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去します。
この時、デカルトはスウエーデンでの客死となりましたが、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。
1666年、改めてフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移され、やっと、波乱万丈の生涯が本当の終わりを迎えたのでした。
デカルトの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
「デカルト入門」 小林道夫 著
本書は、コギトの確立に体系の集約点をみるドイツ観念論の桎梏を解き放ち、認識論と形而上学から、自然学や宇宙論にまで及ぶ壮大な知の体系のもとに、デカルトの真実の姿を見いだそうとする本格的な入門書です。
デカルトの思想を心の哲学や環境世界などの現代的視点から読みなおした本でもあります。
「方法序説」 ルネ・デカルト 著
すべての人が真理を見いだすための方法を求めて,思索を重ねたデカルト。本書は、その彼がいっさいの外的権威を否定して達した,思想の独立宣言と言えるでしょう。
本書で示される新しい哲学の根本原理と方法,自然の探求の展望などは,近代の礎を築くものとしてわたしたちの学問の基本的な枠組みをなしています。
「省察・情念論」ルネ・デカルト 著
形而上学から出発して道徳問題の解明に向かう哲学的探究と言われています。
【24年11月最新】デカルトをよく知れるオススメ本ランキングTOP7
おすすめ動画
「哲学入門21 デカルト 我思う、ゆえに我あり」 白坂慎太郎
経営管理指導士の白坂慎太郎氏が近代哲学について、レクチャーしているチャンネル。
解説がわかりやすく、初心者でも入門的に気軽に観れます。
関連外部リンク
デカルトについてのまとめ
「われ思うゆえに、われあり」
この言葉の真意は、「常に疑うという思考をする自分は、正しい存在だ」ということです。デカルトは、貴族階級であり、本来、苦労をすることなく人生を全う出来たはずでした。
しかし、学問を捨て、兵隊に志願し、「疑う自分」を満足させるがごとく、ヨーロッパを渡り歩き、様々な経験と知識と人脈を得、最終の地スウェーデンで、あっけなく逝去しました。
54年の短い生涯で、彼の学術的好奇心は、どれだけ満たされていたのでしょうか。残されたホルマリン漬けの彼の「脳」に、問うてみたくなりました。