ルネ・デカルトとはどんな人?生涯・年表まとめ【思想や性格、名言についても紹介】

デカルトの死因は風邪をこじらせたこと!?

スウェーデンの冬はデカルトにとって厳しかった

デカルトは肺炎でなくなりましたが、そのきっかけとなったのが風邪です。風邪をこじらせたと聞くと、体調管理に無頓着な人だったのかと思ってしまいますが、デカルトはむしろ健康に気を使っていた人物でした。

肺炎で亡くなる直前、デカルトはクリスティーナ女王の求めに応じて、スウェーデンに滞在していました。生まれたときから体が丈夫でなかったデカルトにとって、スウェーデンの冬は厳しいものでした。

さらに追い討ちをかけたのは、多忙なクリスティーナ女王に教えるため、彼女の要請に従って朝5時に図書館へ通っていたことです。厳しい寒さと生活習慣の変化により、デカルトは風邪を引いてしまいます。

風邪が悪化して肺炎となり、デカルトは54歳という若さでこの世を去りました。

デカルトの功績

功績1「近代哲学の父と呼ばれた」

近代哲学の父と呼ばれたデカルト

デカルトは科学が急速に発達した時代に生まれ、近代哲学の父と呼ばれました。

今までの常識をいったん引き離し、すべてを疑うことが本当に科学的で合理的な立場だとデカルトは考え、哲学を展開します。

精神と身体は別々の実体を持つ2つのもので、互いに影響を与えるとする「心身二元論」や、デカルトの形而上学(世界の成り立ちや人間の存在理由、意味を追求する学問)を表す「我思う、ゆえに我あり」などを提唱しました。

これらの思想はのちの哲学者たちに影響を及ぼし、彼ら独自の哲学体系を展開するきっかけとなります。

功績2「デカルトは物理学で重要な法則を発見し、定式化した」

慣性の法則、運動保存の法則、虹の原理など数々の法則を発見、定式化した

デカルトは物理学で重要な法則(慣性の法則、運動保存の法則、虹の原理)を発見し、科学の発展に貢献しました。慣性の法則とは力が加わらない限り、止まっている物体は動かない。そして動いている物体は一定の速度で動き続ける、という法則です。

慣性の法則の身近な例に、だるま落としがあります。積み上げた木片を一つ、ハンマーで横に叩き飛ばしても、上に乗っただるまは宙に浮いて、重力に従って下へ落ちます。

次に運動保存の法則ですが、これは外部から力が加わらない限り、運動量の総和は変わらないという法則です。主にロケットの速度などを求めるときに使われます。現代物理学でも重要な公式の一つで、デカルトが公式化しました。

虹の原理は、虹がどのようにしてできるかを説明しています。デカルトによると、虹は空気中の水蒸気に差し込んだ光の屈折と反射によって生み出されているそうです。このように、デカルトは物理学で重要な法則を発見しました。

デカルトがもしいなかったら、今の便利な世の中はなかったかもしれません。

功績3「真理を追求するために編み出された『方法序説』 」

『方法序説』は信仰に頼らない、合理的な真理の探究法を記している

デカルトは41歳のとき、真理を追求するための方法を記した『方法序説』を出版します。真理追求の方法として、デカルトは『方法序説』で4つのルールを取り決めました。簡単にまとめると次のようになります。

  • 自分が明確に正しいと認めたもの以外は、何も受け入れない
  • 問題をできるだけ小さな要素に分けて考える
  • 追求するさいは一番単純なものから始め、徐々に複雑なものへ移る
  • 見落としがないか、最後にすべて再度考える

この考え方のすごいところは、真理を信仰ではなく理性的で合理的な方法で探究しようとした点にあります。

デカルトのいた時代は、神の存在を人々が信じていた時代でした。有名な科学者であるガリレオやニュートンも、神の存在を疑っていなかったほどです。

そんな時代でデカルトが示した方法は、近代科学の分野で利用され、今の科学文明へとつながっています。

デカルトの名言

科学、哲学の分野で活躍したデカルトの名言

デカルトといえば、「我思うゆえに、我あり」という名言が有名ですが、デカルトはそれ以外にも数々の名言を残しています。

死を恐れず生を愛すること

デカルトは身体だけでなく、精神の健康にも気を使っていました。上記の名言は、精神の健康を保つ秘訣です。デカルトにとって、生を愛する、ということは尊敬する人々との交流を楽しむことです。

家族や友人から遠く離れた地での生活は、たまに訪れる親しい人との交流をひときわ楽しいものにします。デカルトもそうだったことがこの名言から伝わってきますね。

難問は、それを解くのに適切かつ必要なところまで分割せよ

解決が難しい問題は、大抵の場合小さな問題の集まりであることが多いです。そのため、できる限り小さな要素に分けると、案外簡単に解決できます。

科学者であり、哲学者だったデカルトの含蓄あふれる名言です。

疑いは知のはじまりである

デカルトは今ある常識をすべて疑い、数々の功績を残しました。当たり前のことに注目してみると、意外と世の中は不思議で満ちています。

わたしたちはなぜスマホでインターネットを見られるのか、なぜ鳥は空を飛べるのか、注目し調べたり考えたりしてみると、新しい発見がありますよ。

弟子レギウスとデカルトの関係

レギウスとデカルトは良好な関係だったが、最後には決裂した

レギウスとデカルトの関係は師匠と弟子でした。

レギウスはオランダの大学の医学者・自然学者です。彼がデカルトの弟子となったきっかけは、1637年に出版された『方法序説および三試論』でした。レギウスはこれを熱心に読み、いたく感激します。

彼はデカルトの原理を使って「生理学」を子弟に教えました。単純かつ明快な解説は評判になり、レギウスは大学の教授に推薦されました。この時レギウスは初めて、デカルトへの感謝と敬意の気持ちを書簡で伝えます。

見知らぬ人からの手紙にデカルトは驚きましたが、これをきっかけに2人の交流が始まりました。そして書簡での交流だけでなく家族ぐるみの付き合いもあり、2人は大変良好な関係を築いていました。

しかしある日形而上学の分野で意見が合わず、最後は喧嘩別れしました。

デカルトにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「旅の途中、船乗りに殺されそうになったデカルト」

船乗りに襲われそうになったデカルト

「世間という大きな書物」からの経験を求めて旅に出たデカルトは、船で移動するとき船乗りに殺されそうになりました。

1621年、デカルトが25歳のときです。ドイツの北西部から、オランダ北部へ船で移動するとき、船に乗っていた船乗りがデカルトの荷物を殺して奪おうと画策しました。

礼儀正しく、ひ弱な外国人。この土地の言葉などわからないだろう、と考えた船乗りたちは、目の前でデカルトを襲う算段を話していました。

しかし、デカルトは彼らが本気だと見て、突然立ち上がります。礼儀正しい態度をがらりと変え、威厳をもって剣を抜き放ち、彼らの言葉で「あえて無礼をはたらくならば、刺殺すぞ」と有無を言わさぬ調子で言いました。

船乗りは突然のことに呆然とし、自分たちの有利な立場を忘れてデカルトの言うことを聞きました。結果、デカルトは無事に目的地までたどり着けたそうです。

この話は『デカルト殿の生涯』(伝記)に書かれていたもので、著者であるバイエはデカルトに会ったことがありません。そのため、事実かどうかは定かではないです。ですが、現代でも海外を旅していると、スリや詐欺など恐ろしい目にあってしまうことがあります。

そう考えると、あながち嘘ではないかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝2「旅するデカルトの頭蓋骨」

デカルトの頭骨がある人類博物館

1650年、デカルトはスウェーデンで客死しました。しかし、デカルトはカトリック教徒であり、スウェーデンがプロテスタントであったため、遺体は共同墓地に埋葬されます。

16年後の1666年、デカルトの遺骨はパリのサント・ジュヌヴィエーブ修道院に移されました。そこで永遠の眠りにつくはずだったのですが・・・

それから100年後の18世紀。フランスの偉人たちが眠るパンテオンにデカルトも改めて埋葬する提案が持ち上がります。しかし、当時デカルトの宇宙論に賛同するものと、ニュートンの引力理論を支持するものとで意見が分かれ、結局デカルトの遺骨はパンテオンには葬られませんでした。

ところが、また100年経った1812年、いきなりデカルトの頭蓋骨がストックホルムで発見されます。その後も借金のカタにビール屋に売られたり、オークションにかけられたり、聖遺物として崇められたりと、頭蓋骨だけが、ヨーロッパじゅうを転々と渡っていったのです。

いったいいつ、そして、なぜ、頭蓋骨だけが持ち去られたのかは、今だに謎のままです。

現在は、パリ市内の人類博物館に、ネアンデルタール人、クロマニヨン人の巣骸骨の横に、「ホモサピエンス」と掲示され、彼の本とともに展示されています。

デカルトの簡単年表

1596年
デカルトの誕生

1596年に、中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーにて生まれました。父はブルターニュの高等法院評定官でしたが、元々医者の家系であり、祖父、曾祖父とも医師です。

1歳の時に病弱だった母が死去。デカルトは、その虚弱体質を受け継ぎ、「若死にする」と言われ、祖母と乳母に育てられています。

1607年-1614
学問への扉

11歳でラフレーシュ学院へ入学。

フランス王アンリ4世が邸宅を提供したラ・フレーシュ学院は、イエズス会の学校の中でも優秀な教師、生徒が集められており、18歳で大学へ進学するまで、思想の元となる、スコラ哲学や論理学・形而上学・自然学、占星術や魔術まで、ありとあらゆる知識を得たと言われています。

1618年-1623年
軍隊と放浪の時代

大学卒業と共に、「書物を捨て世に出る」決意をしたデカルトは、1618年、22歳の時にオランダで、ナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わります。

そのころ、マウリッツの軍隊は近代化されており、新兵器の開発も盛んであったことから、技術者や数学者との交流を求めていたと考えられます。

1628年-1650年
オランダへ移住。スウェーデンでの最期

軍隊生活を送りながら、ドイツ、イタリア、フランスなどを渡り歩いたデカルトは、最終的にオランダで隠棲生活を送ります。1637年の『方法序説』を皮切りに、『省察』『哲学原理』『情念論』など、代表作はこの時期に書かれました。

1649年、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取り、スゥエーデンへ。1650年、肺炎をこじらせ逝去。

朝寝の習慣をやめ、女王のために朝5時からの講義を行ったためと言われています。

デカルトの年表

1596年 -1614~ 0-18歳「 デカルトの誕生から青年期」

デカルト博物館となっているデカルトの生家

母の死がもたらした伝説

デカルトは、1596年3月31日にフランスのトゥレーヌ州のラ・エーに生まれました。祖父、曾祖父とも医者と言う、医師の家系ではありましたが、父はブルターニュ高等法院官でした。

1歳の時に、弟を出産後、病弱だった母が亡くなります。弟も3日しか生きませんでした。早逝したからなのか、デカルトには、この弟のことは知らされておらず、デカルトは、大人になってからも、母親は自分を産んだ後に亡くなったと思い込んでいたそうです。

後に、愛弟子で文通相手となったエリーザベト王女に書き送っています。

「私は、私が産まれてすぐに、肺の病にかかって亡くなった母から空咳と青白い肌を受け継ぎ、私を診た医師はすべて、私が若死にすると宣告しておりました。」

彼は、自分が母親の死の原因と言う重荷を背負い、「20歳過ぎるまでに、若死にする」という予言の元に生きねばなりませんでした。

ラ・フレーシュ学院での実りの時

ラ・フレーシュ学院

母亡き後デカルトは、医師である祖父の元で育てられました。病弱だったため、1607年の復活祭の時に1年遅れの11歳で、ラ・フレーシュ学院に入学します。

このラ・フレーシユ学院は、生地、ラ・エーの近くにあって、1604年、国王アンリ四世によって創設され、反宗教改革、カソリック教団イエス会によって運えされていました。現代風に言えば、中高一貫の寄宿学校です。

デカルトは、この学院のことを「ヨーロッパでもっとも有名な学校の一つ」と言い、「この地のどこかに学識ある人がいるならば、ここにいるはずだと思っていた」と述べています。

また、後年、友人に息子の教育のことを相談された時、デカルトは迷わず、「この世の中で、ラ・フレーシュ学院以上に哲学を学べると判断するところはない」と言い切りました。

実際に、この学院にはフランスじゅうから優秀な若者が集まっており、旅行をするのと同様の体験が出来ました。さらに「イエスズ会士が身分差無く、すべての生徒たちに接し、平等感を与えていた」ことも賞賛しています。

とはいえ、時の学院長が彼の親戚シェルレ神父であったことから、病弱なデカルトは特別待遇を受け、個室を与えられ、朝寝が許されていました。これは最期まで習慣化されており、亡くなった理由も、スウェーデン王女へ講義をするため、朝5時に起きたことから体調を壊したと言われています。

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