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アレクサンドル・デュマ・ペールとはどんな人?生涯・年表まとめ

アレクサンドル・デュマ・ペールの功績

功績1「“小説工場”とすら呼ばれた多作ぶり」

凄まじい多作である大デュマ。しかしそこにはある噂も付きまとっていたようで…。

復讐物語である『モンテクリスト伯』や騎士道物語である『三銃士』だけでなく、大デュマは歴史ものから恋愛ものまで、非常に多種多様な作品を残しました。その作品総数は余裕で100作品を超え、特に彼の全盛期であった1844年~1845年には14本もの作品を出版しています。

当時の大デュマは「1日の内12時間から14時間は働いていた」という記録があるほか、その速筆によって「小説工場だ」と評されていた記録も残り、それらは端的に彼の異様な仕事量を物語っていると言えるでしょう。

オーギュスト・マケとの訴訟合戦は、大デュマの名誉を汚すことにもつながった。

ただし多作ぶりは良いことばかりではなく、大デュマは生前に何度も著作権訴訟を起こされ、特に『三銃士』の執筆で協力したオーギュスト・マケとの泥沼の訴訟合戦は、彼の名誉を汚す結果にもつながりました。現在でこそ「偉大な作家」と評される大デュマですが、当時は人気作家であると同時に、疎まれる一面も多い人物でもあったようです。

功績2「成りあがりと不屈の男でもあった」

成りあがりからの没落を経験した大デュマだが、彼は自分の趣味を実益に変える不屈の男でもあった。

派手な生活や名声の部分がクローズアップされやすい大デュマですが、彼は決して恵まれた環境で作家になったわけではありません。むしろ少年期の彼は貧困の中にあり、そうした意味で彼は、非常に成りあがり性が強い人物だと言えるでしょう。

また、晩年の没落後も大デュマは諦めることなく執筆を続けています。その頃の大デュマは「小説の腕が落ちてきた」と評され、落ち目の作家となりつつありましたが、彼は今度は自分のグルメ志向を生かして『料理大辞典』を執筆。彼の生前にそれが出版されることはありませんでしたが、筆を折ることのない不屈性と柔軟さが、彼の偉業を支える骨子となったのかもしれません。

功績3「多くの作家と交流を持った人物 」

『レ・ミゼラブル』で有名なヴィクトル・ユーゴーは、大デュマの『三銃士』を絶賛していたとか。

有名作家であると同時に、現代で言うところの“パリピ”に近しい性格だった大デュマは、当然ながら多くの人物と知り合っており、その中にはやはり有名作家も数多く存在していました。

とりわけ親交が深かったのは『レ・ミゼラブル』で有名なヴィクトル・ユーゴー。彼は大デュマの『三銃士』を非常に高く評価していたことが記録され、大デュマが劇作家として大成するための助力をした人物だとも言われています。

あの童話作家アンデルセンにも影響を与えたと言われる。

他にも、フェミニズム運動の先駆けでもあったジョルジュ・サンドとも親交が深く、童話作家であるアンデルセンとも親交を結び、その作風に少なくない影響を与えたことが示唆されています。異常な多作とテーマの広さで知られる大デュマですが、その多作の根源は多くの作家や人物との交流にあったのかもしれません。

アレクサンドル・デュマ・ペールの名言

主にチームスポーツで使われるあの名言も大デュマによるものである。

一人は皆のために、皆は一人のために

スローガンなどでよく掲げられる言葉ですが、これは実は『三銃士』の作中に登場する、作品を象徴する言葉です。

説明不要なほど有名で、元ネタを知らずともこの言葉を知る人がいると言う時点で、大デュマの功績と類稀な言語センスが理解できるというものでしょう。

待て、而して希望せよ!

『モンテクリスト伯』を象徴する言葉です。最近では『Fate/Grand Order』作中で使われることが多く、そちらのイメージで覚えている方もいるかもしれません。

復習を主軸に置きながら、重厚な人間ドラマを象徴するこの言葉。この言葉がどれほど思い物なのかは、是非作品を読んで体感してほしいと思います。

アレクサンドル・デュマ・ペールにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は小説家であり料理研究家でもあった」

大デュマの遺作にして新境地となったのは、なんとグルメ志向を活かした『料理大辞典』だった。

グルメ志向ということで生前から有名だった大デュマは、自信が作家として落ち目になってきた晩年には『料理大辞典』と呼ばれる辞典の執筆を行っていたことが記録されています。

残念ながらこれは、大デュマの生前に出版されることはありませんでしたが、その死からほどなくして出版され、彼の多才ぶりを世に知らしめる一冊となりました。

また、大デュマは料理以外にも旅行記も多数出版するほどの旅行好きであり、彼の書いた多数の旅行記は、現代における旅行ガイドのような働きの他、現在では当時の市井の生活を知る歴史的資料としても活用されているようです。

都市伝説・武勇伝2「あのナポレオンと確執があったと言われるが…?」

フランスの英雄ナポレオンと大デュマには、大きな確執があったとも噂されるが…?

父が軍人恩給や年金の受給権を剥奪されたことで、貧しい生活を強いられることになった幼少期の大デュマ。普通に考えればナポレオンへ恨みを抱きそうな大デュマですが、実のところ彼はさほどナポレオンに恨みを抱いてはいなかったようです。

実際、彼が描いた歴史系作品には、主役脇役を問わずにナポレオンの登場が多く、その扱いも善悪入り乱れる形となっています。ブレイク前に上演された『ナポレオン・ボナパルト、またはフランスの30年史』ではナポレオンが主軸となって物語が進み、代表作である『モンテ・クリスト伯』においても、ナポレオンは物語の始まりとなる役どころだと言うのもその証拠でしょう。

とはいえ、「大デュマがナポレオンを恨んでいなかった」という確たる証拠も存在せず、真相は本人たちしか知らないというのが正しい認識だと言えそうです。

アレクサンドル・デュマ・ペールの生涯年表

1802年 – 0歳「アレクサンドル・デュマ・ペールの誕生」

大デュマの父であるトマは、優秀な軍人だったがナポレオンを批判したことで没落してしまった。

この年の7月、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)は、北フランスのヴィレル・コントレと呼ばれる地方で誕生しました。父は陸軍中将でもあったトマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー(トマ=アレクサンドル・デュマ)であり、順当に考えれば裕福な家庭の生まれとなるはずでした。

しかし大デュマの誕生の数年前、父はナポレオンのエジプト遠征を批判したことで要職から閉め出され、恩給すら満足に給付されない状況に陥ってしまいました。そのため、生活はむしろ困窮していたことが記録されています。

更に悪いことに、大デュマが4歳になった1806年に父は43歳の若さで死去。ナポレオンはこの時、デュマ母子に遺族年金すら給付することはなく、これにより大デュマと幼い妹は、母方の祖父母によって養育を受けることになりました。

1811年 – 9歳「グレゴワール神父の私塾に入学」

大デュマは勉学よりも、森で動物と戯れることを好む子供だったという。

成長していく大デュマでしたが、その経済状況が良くなることはなく、9歳になった彼は正規の学校ではなく、グレゴワール神父が開いていた私塾で勉強に励むことになります。

その私塾の教育水準は決して高くなく、大デュマは習字こそ得意だったものの、算数やお祈りがほとんど身に付かない、どちらかと言えば腕白な少年として成長していきました。

一方で、後年に大デュマが著した小説『カトリーヌ・ブルム』の中に、グレゴワール神父への感謝や思い出がつづられているため、この時期の経験を大デュマが大切にしていたことは間違いないようです。

1820年or1821年 – 18歳or19歳「アドルフ・ド・ルーヴァンと共に初めて台本を作る」

友人であるアドルフと共に台本を作ったことが、大デュマの転換点となった。

この年、大デュマは友人であるアドルフ・ド・ルーヴァンと共に、人生で初めて台本の創作を行いました。もちろんこれは上演には至りませんでしたが、この出来事が後の大デュマに多大な影響を与えたことは間違いないでしょう。

また、アドルフは大デュマの才能を非常に高く買っていたらしく、後にシェイクスピア俳優のタルマと大デュマを引き合わせるなど、大デュマの活動をサポートしたことが記録されています。

1823年 – 21歳「就職と私生児の誕生」

後に父と同様に作家の道を歩む小デュマは、実は私生児としての誕生だった。

オルレアン公の秘書課に就職

父の友人だったフォア将軍の伝手によって、オルレアン公の秘書課で公証人として就職した大デュマは、給料を得て自立することに成功。母をアパートに呼び寄せて、ようやく貧困から脱却することには成功しました。

この頃の大デュマは専門知識こそないものの、公証人として真面目に働いていたようで、次第に給料も上がって観劇にお金を使える部分も増えていったようです。

後の小デュマが誕生

公証人としては真面目だった大デュマでしたが、一方でこの時期の彼はアパートの隣人女性に次々と手を出し、私生児を生ませるという中々にクズなエピソードも残しています。

そしてこの時期、縫製師であるカトリーヌ・ラペーに産ませた男児が、後の小デュマであるアレクサンドル・デュマ・フィスでした。

1829年 – 27歳「『アンリ3世とその宮廷』」

アンリ3世をモデルとした戯曲によって、大デュマはスターダムにのし上がった。

『クリスチーヌ』の上演決定。しかし…

この時期、大デュマは戯曲『クリスチーヌ』を王立劇団の代表であるイジドール・テイラー男爵に認められ、その上演が決定されます。

これによって大デュマはスターダムにのし上がるか…と目されていましたが、なんと『クリスチーヌ』の上演は突如として延期となってしまいました。これにより大デュマは、自身の戯曲に新たな題材を求めることを余儀なくされます。

『アンリ3世とその宮廷』

そして大デュマは、新たに“歴史”という題材を見つけて戯曲を執筆。書き上げられた『アンリ3世とその宮廷』は、大劇場で初めて上演された大デュマの作品となりました。

そして上演された『アンリ3世とその宮廷』は瞬く間に大ヒットを記録。彼は一躍フランスの文壇におけるトップスターにまで昇りつめることになりました。

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