アレクサンドル・デュマ・ペールの名言
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一人は皆のために、皆は一人のために
スローガンなどでよく掲げられる言葉ですが、これは実は『三銃士』の作中に登場する、作品を象徴する言葉です。
説明不要なほど有名で、元ネタを知らずともこの言葉を知る人がいると言う時点で、大デュマの功績と類稀な言語センスが理解できるというものでしょう。
待て、而して希望せよ!
『モンテクリスト伯』を象徴する言葉です。最近では『Fate/Grand Order』作中で使われることが多く、そちらのイメージで覚えている方もいるかもしれません。
復習を主軸に置きながら、重厚な人間ドラマを象徴するこの言葉。この言葉がどれほど思い物なのかは、是非作品を読んで体感してほしいと思います。
アレクサンドル・デュマ・ペールにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実は小説家であり料理研究家でもあった」
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グルメ志向ということで生前から有名だった大デュマは、自信が作家として落ち目になってきた晩年には『料理大辞典』と呼ばれる辞典の執筆を行っていたことが記録されています。
残念ながらこれは、大デュマの生前に出版されることはありませんでしたが、その死からほどなくして出版され、彼の多才ぶりを世に知らしめる一冊となりました。
また、大デュマは料理以外にも旅行記も多数出版するほどの旅行好きであり、彼の書いた多数の旅行記は、現代における旅行ガイドのような働きの他、現在では当時の市井の生活を知る歴史的資料としても活用されているようです。
都市伝説・武勇伝2「あのナポレオンと確執があったと言われるが…?」
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父が軍人恩給や年金の受給権を剥奪されたことで、貧しい生活を強いられることになった幼少期の大デュマ。普通に考えればナポレオンへ恨みを抱きそうな大デュマですが、実のところ彼はさほどナポレオンに恨みを抱いてはいなかったようです。
実際、彼が描いた歴史系作品には、主役脇役を問わずにナポレオンの登場が多く、その扱いも善悪入り乱れる形となっています。ブレイク前に上演された『ナポレオン・ボナパルト、またはフランスの30年史』ではナポレオンが主軸となって物語が進み、代表作である『モンテ・クリスト伯』においても、ナポレオンは物語の始まりとなる役どころだと言うのもその証拠でしょう。
とはいえ、「大デュマがナポレオンを恨んでいなかった」という確たる証拠も存在せず、真相は本人たちしか知らないというのが正しい認識だと言えそうです。
アレクサンドル・デュマ・ペールの生涯年表
1802年 – 0歳「アレクサンドル・デュマ・ペールの誕生」
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この年の7月、アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)は、北フランスのヴィレル・コントレと呼ばれる地方で誕生しました。父は陸軍中将でもあったトマ=アレクサンドル・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー(トマ=アレクサンドル・デュマ)であり、順当に考えれば裕福な家庭の生まれとなるはずでした。
しかし大デュマの誕生の数年前、父はナポレオンのエジプト遠征を批判したことで要職から閉め出され、恩給すら満足に給付されない状況に陥ってしまいました。そのため、生活はむしろ困窮していたことが記録されています。
更に悪いことに、大デュマが4歳になった1806年に父は43歳の若さで死去。ナポレオンはこの時、デュマ母子に遺族年金すら給付することはなく、これにより大デュマと幼い妹は、母方の祖父母によって養育を受けることになりました。
1811年 – 9歳「グレゴワール神父の私塾に入学」
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成長していく大デュマでしたが、その経済状況が良くなることはなく、9歳になった彼は正規の学校ではなく、グレゴワール神父が開いていた私塾で勉強に励むことになります。
その私塾の教育水準は決して高くなく、大デュマは習字こそ得意だったものの、算数やお祈りがほとんど身に付かない、どちらかと言えば腕白な少年として成長していきました。
一方で、後年に大デュマが著した小説『カトリーヌ・ブルム』の中に、グレゴワール神父への感謝や思い出がつづられているため、この時期の経験を大デュマが大切にしていたことは間違いないようです。
1820年or1821年 – 18歳or19歳「アドルフ・ド・ルーヴァンと共に初めて台本を作る」
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この年、大デュマは友人であるアドルフ・ド・ルーヴァンと共に、人生で初めて台本の創作を行いました。もちろんこれは上演には至りませんでしたが、この出来事が後の大デュマに多大な影響を与えたことは間違いないでしょう。
また、アドルフは大デュマの才能を非常に高く買っていたらしく、後にシェイクスピア俳優のタルマと大デュマを引き合わせるなど、大デュマの活動をサポートしたことが記録されています。