アレクサンドル・デュマ・ペールとはどんな人?生涯・年表まとめ

1823年 – 21歳「就職と私生児の誕生」

後に父と同様に作家の道を歩む小デュマは、実は私生児としての誕生だった。

オルレアン公の秘書課に就職

父の友人だったフォア将軍の伝手によって、オルレアン公の秘書課で公証人として就職した大デュマは、給料を得て自立することに成功。母をアパートに呼び寄せて、ようやく貧困から脱却することには成功しました。

この頃の大デュマは専門知識こそないものの、公証人として真面目に働いていたようで、次第に給料も上がって観劇にお金を使える部分も増えていったようです。

後の小デュマが誕生

公証人としては真面目だった大デュマでしたが、一方でこの時期の彼はアパートの隣人女性に次々と手を出し、私生児を生ませるという中々にクズなエピソードも残しています。

そしてこの時期、縫製師であるカトリーヌ・ラペーに産ませた男児が、後の小デュマであるアレクサンドル・デュマ・フィスでした。

1829年 – 27歳「『アンリ3世とその宮廷』」

アンリ3世をモデルとした戯曲によって、大デュマはスターダムにのし上がった。

『クリスチーヌ』の上演決定。しかし…

この時期、大デュマは戯曲『クリスチーヌ』を王立劇団の代表であるイジドール・テイラー男爵に認められ、その上演が決定されます。

これによって大デュマはスターダムにのし上がるか…と目されていましたが、なんと『クリスチーヌ』の上演は突如として延期となってしまいました。これにより大デュマは、自身の戯曲に新たな題材を求めることを余儀なくされます。

『アンリ3世とその宮廷』

そして大デュマは、新たに“歴史”という題材を見つけて戯曲を執筆。書き上げられた『アンリ3世とその宮廷』は、大劇場で初めて上演された大デュマの作品となりました。

そして上演された『アンリ3世とその宮廷』は瞬く間に大ヒットを記録。彼は一躍フランスの文壇におけるトップスターにまで昇りつめることになりました。

1830年代 – 28歳~37歳ごろ「劇作家として名声を得る」

劇場を満員にするほどのスターとなった大デュマは、劇作と並行して歴史研究にも没頭した。

『アントニー』『ネールの塔』など

スターダムにのし上がった大デュマの創作意欲は衰えることなく、彼は凄まじい速筆ぶりと創作意欲で、多くの戯曲を執筆。その全てが上演されて大ヒットを記録しました。

特に1831年に上演された『アントニー』は、社会現象を巻き起こすほどの大ヒットを記録したことが記録されています。歴史劇ではなく現代劇のような本作は、大デュマの不倫経験が元になっているそうです。

また1832年の『ネールの塔』は、フレデリック・ガイヤルデという青年の原作を大デュマが改稿した作品であり、近親相姦や政治的謀略を描いた歴史秘話として、ガイヤルデと大デュマの才兵作との呼び声高い作品となりました。

歴史研究と旅行記執筆の生活

非常に高額な収入を得るようになった大デュマは、かねてより否定的な意見が多かった歴史考証についても、この時期から研究を開始。

それと並行して旅行記の執筆なども積極的に行うようになり、その旅行記の中で磨かれた文章表現が、彼を次のステージへと運ぶことにもつながりました。

1838年 – 36歳「『ポール船長』で連載小説デビュー」

現代でも新聞に掲載される連載小説だが、その先駆けとなったのはデュマたちフランスの作家だった。

この頃、新聞の新たな試みとして連載小説が注目され始め、大デュマもまた求めに応じて小説の世界に足を踏み入れることになります。

そして1838年、新聞『世紀』に寄稿した『ポール船長』によって大デュマは連載小説家としてデビュー。約1か月ほどの連載で、『世紀』の購読者が5000人近く増えるという大成功を収め、大デュマは新聞の連載小説でも花形としてデビューすることになりました。

1844年~1846年 – 42歳~44歳「『三銃士』『モンテ・クリスト伯』etc…」

児童文学としても親しまれる『三銃士』も、この時期に連載小説として誕生した。

12時間稼働の小説工場

この時期、連載小説家のトップとなっていた大デュマに対し、全ての新聞社が彼に小説の執筆を依頼。大デュマはそれらとすべて契約を結び、連載小説のほぼ全てを成功させるというあり得ない快挙を成し遂げました。

特にこの時期に連載された『三銃士』は非常に人気となり、読者はおろか同業者である作家からも賞賛の声が絶えなかったほか、長期連載となった『モンテ・クリスト伯』も大ヒットを記録。もはや大デュマは押しも押されぬ人気作家となりました。

この頃の大デュマは、一日の内12時間以上は小説を執筆していたとされ、その異常な連載の多さから、「大デュマは他の作家に作品を代筆させている」という噂が立つほどだったと言います。

派手好きが仇となり始める

大デュマが建てたモンテクリスト城だが、この散財が結果的に彼の首を絞めることになる。

文字通りに文壇の大スターとなった大デュマでしたが、この頃になるとその派手好きな性格が仇となり、徐々にその名声に陰りが見え始めてしまいます。

『ラ・プレス』で連載していた作品を放棄したことで、契約違反として罰金刑を受けたことを皮切りに、モンテ・クリスト城と名付けた豪邸を建てたことで経済的な余裕にも陰りが生じ始め、大デュマの絶頂期は着々と終わりに向かっていきました。

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