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オイルショック(石油危機)とは?原因や経済への影響を分かりやすく解説

「オイルショックってどんな出来事だったの?」
「オイルショックの原因や結果が知りたい!」

オイルショック(石油危機)とは1970年代、二度にわたり産油国の集中するアラブ諸国の情勢悪化を受けて発生した経済的混乱さします。

テレビで昭和の事件などが放映されるとき、「オイルショック」の字幕とともにトイレットペーパーを求めてもみ合いになっている映像を観たことはありませんか?オイルショックのもっとも象徴的なできごととして定番になっています。

しかし、特に若い世代の方は、オイルショックについて、言葉は聞いたはあっても具体的にどのような出来事だったのかを知らない方も多いかと思います。

今回は、その原因から与えた影響、どのように収束したのかについて、分かりやすく解説していきます。「逆オイルショック」といった現象についての解説もするのでぜひ最後までご覧下さい。

オイルショックとは?

店頭に積まれたトイレットペーパーを求める人々

オイルショックを分かりやすく解説すると?

オイルショックとは、1970年代の2度にわたり、産油国の集中するアラブ諸国が原油生産量の削減と価格の引き上げを行うことにより発生した経済的混乱をさします。1973年にはじまる混乱を第一次オイルショック、1979年にはじまる混乱を第二次オイルショックとよび両者を区別しています。

原油の価格高騰と供給不足は、これを原料とするガソリン、灯油、電力、プラスチックなどの製品の値上げを引き起こします。当時の日本は、1970年代初頭からのインフレーション(インフレ)により物価の高騰が進んでいたところでした。このタイミングで第一次オイルショックが起きたことにより、「狂乱物価」と呼ばれる異常な物価上昇を招くことになったのです。

原因は何だったのか?

オイルショックの舞台は、産油国の集中する中東

1.産油国の資源外交

原因の一つは、中東において発生した紛争・内紛にあります。例えば、第一次オイルショックは、1973年に勃発した第4次中東戦争が発端となっており、第二次オイルショックでは1979年のイラン革命とつづくイラン・イラク戦争が発端となっています。この背景には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった宗教的な摩擦や民族的な対立がありました。

もう一つの原因は原油という資源です。世界有数の原油埋蔵量を誇るアラビア半島を中心に、産油国は原油を重要な外交上のカードとして利用してきました。とりわけ当時のアラブ諸国はイスラエルとの関係を含めて政情が不安定であり、かつ産業構造が原油に依存していた面からもこうした資源外交がさかんに行われていました。

2.限られた産油国に依存していた構造

日本はいまでも原油の多くを中東に頼っている

この図は2016年度の原油の輸入先をグラフにしたものですが、大部分をサウジアラビア・アラブ首長国連邦などの中東の国々に依存していることが分かります。オイルショックへの反省から、輸入先の多様化を進めリスクヘッジを重ねてきたところですが、新興国を中心とする内需の高まりなどもあり、中東依存に逆戻りしている状況があります。

これは裏を返せば、現在でも状況によってはオイルショックが再発しうることを意味しています。このことは、脱酸素社会の実現や温暖化防止・地球環境保護といったグローバルな問題と並んで、日本のエネルギー政策における大きな課題の一つということができます。

第一次と第二次、ふたつのオイルショックの違いは?

1970年代におきた二度のオイルショック。ではそのうちの第一次オイルショックと第二次オイルショックとは、なにがどうちがうのでしょう。単純化していえば、第一次オイルショックの背景にはユダヤ人対パレスチナ人という構造がありましたが、第二次オイルショックの背景はイラン国内の政情不安とイラン・イラクというイスラム教国同士の争いでした。以下で詳しく説明します。

第一次オイルショックの原因と影響、結果について

原因は第4次中東戦争

第4次中東戦争

1973年10月6日、エジプト・シリアなどアラブ諸国は4度目の対イスラエル戦争に突入しました。これに伴い、アラブ諸国側は資源外交を展開。まずOPEC(石油輸出国機構)に加盟するペルシア湾岸の6か国が原油公示価格を70%値上げすることを発表し、ついでOAPEC(アラブ石油輸出機構)が原油生産を徐々に削減することを決定しました。

さらにイスラエル軍の撤退までという条件のもと、イスラエルを支援する国々に経済制裁として石油の禁輸を決定します。1974年に入ると、ペルシア湾岸の6か国は原油公示価格をさらに引き上げました。当初3.01ドル/バレルだった価格が、半年にも満たない間に11.65ドルまで上昇したことになります。

背景にあったパレスチナ問題

イスラエルとパレスチナの関係が読みとれる地図

中東戦争の背景には、いわゆるパレスチナ問題がありました。第二次世界大戦中のドイツにおいて、ナチスから迫害を受けたユダヤ人だち。戦後、彼らの多くはかつての故郷であるパレスチナに帰還しユダヤ人国家を建設しようという「シオニズム運動」がおこります。

ユダヤ人の希望は1947年の国連決議と翌1948年5月のイスラエル国独立宣言され結実するのですが、問題は約2000年間パレスチナに居住していたアラブ人(パレスチナ人)です。周辺アラブ諸国は、イスラム教徒が多いという宗教的背景もあり、パレスチナ人を支援するため、イスラエル国との戦争を重ねてゆくことになります。これが今なお中東に悲劇を生み続ける「パレスチナ問題」です。

社会経済・生活への影響

物価の高騰

消費者物価指数を示したグラフ

さまざまな製造業分野で使用される原油。その原油が大幅に値上がりしてしまったわけですから、ガソリンや灯油、その他石油関連製品を中心に物価が跳ねあがります。消費者物価の上昇率は年20%を越えるなど激しいインフレがおこり、「狂乱物価」と名づけられるほどに日本経済は大きな打撃を受けました。

トイレットペーパーの買占め騒動

商店の店から姿を消したトイレットペーパー

オイルショックを象徴するイメージとして定着しているのが、トイレットペーパーの買占め騒動です。

原因のひとつに、当時の通産大臣・中曽根康弘が「紙の節約」に言及したことがありました。これが10月18日のこと。その後10月下旬には「紙が無くなるらしい」という噂となって拡散します。

11月1日、大阪の千日中央の大丸ピーコックストア(当時)で、特売のトイレットペーパーが売り切れたことから、その後も続々とトイレットペーパーを求める行列ができ、これが報じられると全国的な騒動となって広がりました。実際にはトイレットペーパーが不足しているという事実はなかったにも関わらず、マスコミと口コミによる伝聞が事実確認を経ずに広まったことにより、多くの人が無駄な購買に走るという結果に繋がったのでした。

オイルショックによるトイレットペーパー騒動とは?原因や影響を解説

政府の対応と公共事業やインフラへの影響

着工延期という形でオイルショックの影響を受けた瀬戸大橋

日本政府が本格的に対策本部を設置したのは11月。内閣総理大臣を本部長とし石油対策推進本部を立ち上げ、「石油緊急対策要綱」を取りまとめ閣議決定しています。主な内容は次のとおりです。

  • 消費節約運動を展開
  • 石油・電力の使用を10%節約
  • 便乗値上げ、不当利得などの取締り及び公共施設等への必要量確保
  • 総需要抑制策、物価対策の強化
  • エネルギー供給確保の努力

12月には三木武夫副総理(当時)を中東に派遣。日本の対アラブ政策について説明を行いました。これは、アラブ諸国がアメリカをはじめとする「イスラエル支援国」に対し原油の禁輸政策をとったためです。日本はアメリカの同盟国として禁輸対象国となる可能性がありました。三木副総理はサウジアラビア、エジプト、クウェートと歴訪し、日本は辛うじて友好国として見なされることになりました。

このほか、大型公共事業が凍結・延期され、特に整備新幹線や本州・四国連絡橋などインフラ整備への影響も生じています。

その他身近な生活への影響

瞬く間に価格が高騰した原油

影響は国民生活の中にも押し寄せてきました。そこでスローガンとして掲げられたのは「石油節約運動」です。例えば、日曜ドライブは自粛しよう、高速道路では低速で走ろう、というように。ガソリンスタンドは日曜営業をとりやめ、テレビの深夜帯放送が止まり、夜の街からはネオンが消え……政府と国民とが一体となって難局を乗り越えようとしたのでした。

その他、緊急立法として石油二法(石油需給適正化法と国民生活安定緊急措置法)が制定されました。1973年に制定された石油需給適正化法は、国が石油精製業者などに対し生産計画の作成指示ができると定めています。この法律にあわせ、1974年度には「60日備蓄増強計画」が、1975年にはさらに石油備蓄法が制定され「90日備蓄増強計画」がスタートしました。また、国民生活安定緊急措置法では、物価が高騰した場合に政令で生活関連物資を指定し標準価格を定めることとしています。

どのように収束したのか?

雪解けのように待ち遠しかった収束

1973年12月、産油国であるアラブ諸国は、原油生産削減を15%に緩和し、翌1974年3月には生産削減の維持を各産油国の判断に任せることとしています。これにあわせ対アメリカ禁輸を解除し、第一次オイルショックは終息へと向かいました。

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