トイレットペーパーの買占め騒動
オイルショックを象徴するイメージとして定着しているのが、トイレットペーパーの買占め騒動です。
原因のひとつに、当時の通産大臣・中曽根康弘が「紙の節約」に言及したことがありました。これが10月18日のこと。その後10月下旬には「紙が無くなるらしい」という噂となって拡散します。
11月1日、大阪の千日中央の大丸ピーコックストア(当時)で、特売のトイレットペーパーが売り切れたことから、その後も続々とトイレットペーパーを求める行列ができ、これが報じられると全国的な騒動となって広がりました。実際にはトイレットペーパーが不足しているという事実はなかったにも関わらず、マスコミと口コミによる伝聞が事実確認を経ずに広まったことにより、多くの人が無駄な購買に走るという結果に繋がったのでした。
オイルショックによるトイレットペーパー騒動とは?原因や影響を解説
政府の対応と公共事業やインフラへの影響
日本政府が本格的に対策本部を設置したのは11月。内閣総理大臣を本部長とし石油対策推進本部を立ち上げ、「石油緊急対策要綱」を取りまとめ閣議決定しています。主な内容は次のとおりです。
- 消費節約運動を展開
- 石油・電力の使用を10%節約
- 便乗値上げ、不当利得などの取締り及び公共施設等への必要量確保
- 総需要抑制策、物価対策の強化
- エネルギー供給確保の努力
12月には三木武夫副総理(当時)を中東に派遣。日本の対アラブ政策について説明を行いました。これは、アラブ諸国がアメリカをはじめとする「イスラエル支援国」に対し原油の禁輸政策をとったためです。日本はアメリカの同盟国として禁輸対象国となる可能性がありました。三木副総理はサウジアラビア、エジプト、クウェートと歴訪し、日本は辛うじて友好国として見なされることになりました。
このほか、大型公共事業が凍結・延期され、特に整備新幹線や本州・四国連絡橋などインフラ整備への影響も生じています。
その他身近な生活への影響
影響は国民生活の中にも押し寄せてきました。そこでスローガンとして掲げられたのは「石油節約運動」です。例えば、日曜ドライブは自粛しよう、高速道路では低速で走ろう、というように。ガソリンスタンドは日曜営業をとりやめ、テレビの深夜帯放送が止まり、夜の街からはネオンが消え……政府と国民とが一体となって難局を乗り越えようとしたのでした。
その他、緊急立法として石油二法(石油需給適正化法と国民生活安定緊急措置法)が制定されました。1973年に制定された石油需給適正化法は、国が石油精製業者などに対し生産計画の作成指示ができると定めています。この法律にあわせ、1974年度には「60日備蓄増強計画」が、1975年にはさらに石油備蓄法が制定され「90日備蓄増強計画」がスタートしました。また、国民生活安定緊急措置法では、物価が高騰した場合に政令で生活関連物資を指定し標準価格を定めることとしています。
どのように収束したのか?
1973年12月、産油国であるアラブ諸国は、原油生産削減を15%に緩和し、翌1974年3月には生産削減の維持を各産油国の判断に任せることとしています。これにあわせ対アメリカ禁輸を解除し、第一次オイルショックは終息へと向かいました。
第二次オイルショックの原因と影響、結果について
1979年から1980年代初頭にかけて原油価格は再び高騰し、3年間で約3倍ちかくにまで跳ねあがりました。この影響により、国内では再びインフレとなり、景気も悪化をしています。
原因はイラン革命とイラン・イラク戦争
1979年にイランで革命が起こり、イラン国内での石油生産が中断します。また革命の影響が及ぶことをきらったイラクがイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発しました。このため、イラクの原油生産も減産に転じます。こうした政情不安や国家間対立が巻き起こると、もともと1978年以降OPECが大幅な値上げを実施していたこともあり、原油価格は3年間で2.7倍という上げ幅を記録しました。
背景のイランの国内情勢
当時のイランは、1925年にはじまるパフレヴィー王朝による立憲君主制を敷いていました。1935年から国号を「イラン」とした一方、サウジアラビアに次ぐ石油産出国として第二次大戦以降イギリス、ソ連から軍事支配を受けたのです。
第2代皇帝・パフレヴィー2世は、1941年に即位すると、1953年にイラン=クーデターを起こし独裁的な実権の握りました。しかし、パフレヴィー2世の治世は石油利権をメジャーズ(国際石油資本)に握らせ、欧米化政策を進めるなどイラン国民の民族的・宗教的な支持を欠きます。これが1979年のイラン革命を招くことになり、結果として石油理研の国有化が実現しました。
第一次に比べると影響は小さかった
トイレットペーパーの買占め騒動は起きなかった
第二次オイルショックの影響は、第一次のそれと比べて各段に小さいものでした。というのも、第一次オイルショック当時に策定した「90日備蓄増強計画」が既に動き出しており、1981年度末にむけ石油会社は90日分の備蓄を蓄えつつありました。と同時に国家備蓄の制度も法制化され、対オイルショック体制ができていたためです。日銀の金融引き締めや、企業における労使の強調など、第一次オイルショックを経た危機管理意識の高まりから、比較的早期に危機を脱することができたのです。
生活の一部に生じた影響
わずかながら、生活に生じた影響としては、テレビの深夜放送が自粛されたり、ガソリンスタンドが日曜休業を行ったりといった点が挙げられます。規模や期間ともに第一次よりは小さかったとはいえ、物価上昇や経済成長率の減速も見られました。
どのように収束したのか?
イランのクーデターからイラン・イラク戦争にかけてのこの時期、確かにイラン・イラク両国の原油は減産していますが、サウジアラビアやメキシコ、北海の油田は増産しており、これが世界の需要に応えていました。イラン・イラクの政情が鎮静化するにつれ、収束へと向かいます。