孝明天皇とはどんな人物?生涯・年表まとめ【功績や死因、子孫についても解説】

孝明天皇は日本の第121代天皇です。幕末を生きた人で、生涯を通じて平安京で過ごした最後の天皇となりました。また、写真が残っている最初の天皇でもあります。

孝明天皇の肖像画・かなり写実的だ

ずっと安泰であると思われてきた徳川幕府でしたが、幕末の時代、外国からの圧力もあり、徐々にその力は弱まってきます。徳川幕府からあらゆる面で規制されてきた朝廷は、本来あるべき姿を取り戻そうとするようになるのです。

孝明天皇はそんな時代に要として活躍しました。朝廷と幕府が一体となって日本を守ろうとする公武合体を実践、妹の和宮を徳川家に嫁入りさせたことはあまりにも有名です。

しかし尊王攘夷派の勢力が強まるとともに、孝明天皇の立場は危ういものになっていきます。そして、わずか35歳で突然亡くなってしまいますが、その死には多くの謎が残っています。

今回はそんな孝明天皇がどんな人物なのかを詳しく解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

孝明天皇とはどんな人物か

名前孝明天皇
煕宮(ひろのみや)→統仁親王
誕生日1831年7月22日
没日1867年1月30日
生地京都平安京
没地京都御所 常御殿
配偶者英照皇太后
埋葬場所高月輪東山陵

孝明天皇の生涯をハイライト

孝明天皇の即位礼の様子

1831年、孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子として、京都の平安京に生まれました。1835年には親王、1840年に皇太子となり、父の後を継いで天皇として即位したのは1846年のことでした。

即位してすぐに幕府に対して海防強化と、外国との情勢を報告するように命じるなど、海外列強への危機感を持っていたと思われます。

幕府が朝廷の許しがないままに、アメリカと日米修好通商条約を結んだときには大変怒り、譲位も辞さないほどでした。

また、孝明天皇は幕府と対立するだけでなく、協力もしています。妹の和宮を将軍家に嫁入りさせて、公武合体を狙い、日本を海外列強から守ろうとしたのです。

しかし、尊王攘夷派の勢力が増すとともに、孝明天皇の立場は危うくなり、突然の死を迎えることになりました。天皇の朝廷のあるべき姿を取り戻し、日本を守りたいという思いは子孫に伝えられることとなりました。

異人嫌い故に攘夷を望んでいた孝明天皇

1854年、横浜に来航した黒船の様子

攘夷とは異人(外国人)を打ち払って、日本の国を守るという考え方です。孝明天皇はもともと異人嫌いとして有名でした。その理由は、危機的な状況の中で、日本は諸外国に立ち向かえないことがよくわかっていたからに違いありません。

1840年に清(現在の中国)とイギリスが起こしたアヘン戦争は多くの日本人にショックを与えたはずです。大国である清がイギリスに負けて不平等な条約を結んでしまったことは、日本にとっては他人事ではなかったはずです。

即位してすぐの頃から、孝明天皇が海外の動きを気にかけていたのは、日本にも危機が迫っていたことがわかっていた証拠です。

そしてその危機感を裏付けるように黒船が日本にやって来ました。黒船が来航した1853年には大地震や御所の火事まであり、国内は大変な状況でした。こうした中で迫ってくる、海外列強の恐怖の前に、孝明天皇は攘夷を望まざるを得なくなったのです。

孝明天皇は倒幕派ではなかった

倒幕派はみな錦旗を掲げていたような印象が…

幕末に幕府を倒そうと画策した人々は、みな帝のためにという旗印を掲げていたために、孝明天皇は幕府を倒そうとしていたと受け取る人もいるかもしれませんが、実は彼は倒幕派ではありませんでした。

孝明天皇が幕府に規制されていた朝廷を本来の姿に戻したいと思っていたことは事実ですし、日本を守るために異人を国に入れたくないと思っていたのも事実です。

しかし、そのために幕府を倒そうとは考えておらず、幕府と協力し、一枚岩となって日本を守ろうとしたのです。朝廷が政治の舞台から遠ざかっていた期間はあまりにも長かったため、幕府を倒したところで、政治を行うのは無理だと判断したのかもしれません。

幕府と朝廷の結びつきを強固にするために、妹を将軍家に嫁がせたのかもしれません。

暗殺説も噂される孝明天皇の死因とは

孝明天皇の墓所・後月輪東山陵

孝明天皇が亡くなったのは1867年のことでした。まだ35歳の若さであり、突然の死でした。孝明天皇は悪性の痔があったといいますが、後は至って健康でした。

孝明天皇が亡くなると、それまで天皇により追放されていた長州が力を取り戻したために、孝明天皇の死は暗殺ではないかと言われ続けているのです。

1867年1月16日、風邪気味だった孝明天皇は宮中の行事に参加し、翌日に発熱しました。5日後には天然痘にかかっていると診断され、24時間体制での治療が始まりましたが、30日には亡くなってしまいます。

亡くなる数カ月前、孝明天皇は、尊王攘夷派の人々(つまり幕府を倒したいと思っている長州や薩摩の勢力)に激しい批判を受けるようになっていました。孝明天皇は尊王攘夷派の人々にとって邪魔な存在になっていたようです。尊王攘夷派の人々にとってあまりに都合の良い死は、暗殺と言われても仕方がないように思えます。

妻や子供は誰?子孫はいるのか

英照皇太后は大正天皇の皇后、貞明皇后の伯母にあたる

孝明天皇に繋がりのある人の中でもっとも有名なのは、息子である明治天皇でしょう。近代日本の基礎を作った人物であり、現在の日本の皇室の祖とも言えます。しかし、明治天皇は孝明天皇の正妻の子ではなく、いわゆる側室の子どもです。

孝明天皇の妻は英照皇太后(結婚するまでの名前は九条夙子・くじょうあさこ)。1845年にまだ親王だった孝明天皇と結婚し、1848年には女御という身分になります。女御というのは、皇后、中宮に次ぐ位です。孝明天皇は彼女を皇后にすることを望みましたが、最初から皇后にすることを幕府に反対されたそうです。

英照皇太后には男の子が生まれなかったため(実子は早逝)、1860年に9歳だった明治天皇を実子としました。

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