孝明天皇の生涯年表
1831年 – 0歳「孝明天皇 誕生」
孝明天皇、即位する
1846年、父の仁孝天皇が亡くなったために、孝明天皇が即位をします。即位してすぐに、幕府に海防を強化すること、日本と外国の国々の状況を朝廷に報告するように命じました。
幕府もこれに応えて、異国船の来航状況を報告しています。同じ年に行われた石清水臨時祭では異国を打ち払って、天下泰平であるようにと願っています。
1840年にすでに清がアヘン戦争に敗れて、不平等な条約を結ばざるを得なくなっていました。孝明天皇にも危機感があったのだと思われます。
黒船来航、安政の大地震、御所の火事
1854年にはペリーの黒船が来航しただけでなく、大地震が起こり、御所が火事になるなどさまざまなことが起きました。自らが大変なときも、孝明天皇は民の心配をしていたと言います。長い間、政治から遠ざかっていた朝廷でしたが、孝明天皇には国を守ろうとする気持ちがあったのです。
また、このときに幕府はアメリカと日米和親条約を結びました。この条約締結によって、下田と箱館(現在の函館)が開港され、日本の鎖国は終わったのですが、孝明天皇はそれほど問題視していませんでした。
日米和親条約は、難破船の乗組員の救助やアメリカ船への水と食料の補給が大きな目的だったため、このまま開国させられるとは孝明天皇も考えなかったのかもしれません。
1858年 – 27歳「日米修好通商条約調印」
日米修好通商条約が締結されたとき、孝明天皇は激怒したと伝えられています。そこにはどんな理由があったのでしょうか。
孝明天皇はなぜ怒ったのか?
日米修好通商条約を結びたいと幕府から求められたとき、孝明天皇は反対します。この条約は日本が本格的にアメリカと交易をすること、つまり開国をすることを意味していました。天皇は、自分の代で開国しては今までの天皇たちにも申し訳がない、という内容の書簡を関白に送ったほどです。
開国に反対する88人の公卿たちが宮中で座り込みをするという事件も起きました(現在のデモのようなもの)。
それでも幕府は何とか天皇の許可を取りたいと粘りましたが、アメリカ側が日本の態度にしびれを切らしてしまいます。やむなく朝廷の許可のないまま、幕府はアメリカと条約を結んでしまいます。このとき幕府側の責任者だったのが、後に安政の大獄を起こす井伊直弼です。
完全に幕府に無視されたことが天皇の怒りの原因だったのではないでしょうか。
孝明天皇の反撃「戊午の密勅」
幕府は天皇を無視して条約を締結したことに、大した申し開きができなかっただけでなく、ロシアやイギリスとも条約を締結、交易を始めることになりました。そこで天皇は昔から天皇を敬う気風が強かった水戸藩に意見書を送ります。
これが戊午の密勅で、内容は日米修好通商条約を締結した理由を説明して欲しいということ、諸藩は幕府に協力し、幕府は攘夷を実行できるように政治改革を行って欲しいということでした。
もっともな内容に思われますが、天皇が幕府を無視して、水戸藩に意見書を送ったことが問題でした。水戸藩は有力な藩ではありましたが、幕府とは主従関係があります。天皇が主である幕府を無視したわけですから、幕府の怒りも頂点に達したのです。
こうして、日米修好通商条約を締結したときの責任者である井伊直弼によって、日米修好通商条約に反対する者が次々と投獄されました。これが安政の大獄と呼ばれる事件です。
1860年 – 29歳「和宮の降嫁を決定する」
天皇への脅迫「安政の大獄」
安政の大獄では、孝明天皇の周りの者までが投獄されていきました。そうしておきながら、幕府は再度日米修好通商条約への許可を求めたのです。
天皇に心理的圧迫を加えながら、許可を求めるのは脅迫に通じるものがあります。事態は泥沼化すると思われました。
あくまでも許可を出さない天皇に対して、幕府はもし許可をくれたら、数年後には日本を鎖国状態に戻すと約束をしたのです。これで天皇も納得、事態は丸く収まるかと思われました。
「桜田門外の変」で事態は急転!
安政の大獄を行った井伊直弼が桜田門外の変で急死すると、事態は急転します。権威が失墜した幕府は朝廷と歩み寄ることでそれを回復しようとするのです。
そのための方法が孝明天皇の妹和宮と、14代将軍徳川家茂の結婚でした。当時婚約者がいた和宮はもちろん、承諾しませんでした(他にも関東に行きたくなかったなど、いろいろな理由があったようです)。
しかし、孝明天皇は強引にこの結婚を推し進めていきます。和宮が家茂と結婚しなければ、自分は譲位、和宮は出家させるとまで言ったそうですから、これは決して幕府だけの考えではなく、天皇自身が日本を守るにはこれしかないと考えていたのでしょう。
1867年 – 35歳「孝明天皇 死去」
とうとう開国を許可する
1865年、なかなか開国が進まないのは孝明天皇に原因があると考えた諸外国が、大坂湾に戦艦を入れて条約締結を認めるように訴えました。
天皇もついに開国を認めざるを得なくなりましたが、京都に近い兵庫の開港は拒むなど、全面的な許しとは程遠いものでした。
このため、孝明天皇はいつまでも攘夷にしがみついている頑固な人物だと言われるようになってしまいます。岩倉具視などは国内の対立の原因は天皇にある、とまで言っています。
立場が危うくなった孝明天皇
1866年には天皇の方針に反して追放されていた22人の公卿が復帰を望み、宮中で座り込みを行うという事件まで起きました。これらの公卿の処分を見直そうとした内大臣に対して、孝明天皇は元服以来の官位昇進を宣下したのは誰なのだという怒りに満ちた文書を送っています。
そして翌年の1867年、孝明天皇は突然天然痘によって亡くなります。それまでの健康状態は良く、年齢もまだ35歳だったために暗殺されたのだという説がいまだに残っています。
前年の宮中での座り込み事件には岩倉具視が関わっていたと言われており、天皇の死にも岩倉具視が関与したのではないかと見られているのです。
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この流れからいつしか孝明天皇がはじき出されて、微妙な立場になっていくところも、とても納得できます。この作品を読めば、幕末という時代がよくわかるようになると思います。
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孝明天皇についてのまとめ
孝明天皇の人生について振り返ってきました。孝明天皇は幕末という時代の変わり目に生きることの大変さとともに、新しい時代がやって来るという希望を持っていたのではないかと思います。
だから、自ら発言する天皇として、それまでの天皇たちとは違った魅力を見せてくれました。
そして彼の息子が明治天皇であったからこそ、現代への道筋ができたのではないでしょうか。孝明天皇は歴史の1ページにいる人物であるとともに、私たちと深いつながりを持っていたのです。私たちが忘れてはならない、大切な人物だと思います。