孝明天皇の功績
功績1「皇室のあるべき姿を探り続けた」
孝明天皇は祖父の光格天皇の想いを継いで、朝廷を本来あるべき姿に戻そうと力を注ぎました。光格天皇は公家や皇族のための学校を作ろうとして果たせませんでしたが、孝明天皇はそれを実現して学習院(現在の学習院とは別)を開講します。
それというのも、江戸時代になってから、朝廷は幕府によって規制をされ続けてきました。幕府は帝にも和歌でも詠んでいれば良いと、政治に触れることを許さなかったのです。また、金銭的にも厳しい規制をしたため、皇族や公家の生活は苦しいものでした。孝明天皇は公家や皇族の状況を変えようとしていたのです。
自身が即位したときにも、光格天皇が復興した石清水臨時祭で、四海静謐(天下泰平)を願うなど、光格天皇の意志を継ぎ、皇室のあるべき姿を追い求めている様子が伝わってきます。
功績2「公武合体のため、妹の結婚を決断」
1862年、孝明天皇の妹・和宮と第14代将軍・徳川家茂の婚礼が行われました。和宮の身分は内親王。これは征夷大将軍よりも高い地位だったため、嫁入りした和宮が主人で、徳川家は客分という異例の婚礼となりました。
この結婚には、身分の他にも、武家と公家の生活の違いや和宮の婚約者の存在など、さまざまな障害がありました。しかし、幕府と朝廷が一体となれば、また鎖国政策を行い、日本を守ることができると孝明天皇は考えたようです。
功績3「近代国家の基礎を作った明治天皇の父 」
明治天皇の父となったことは孝明天皇の大きな功績の1つと言えるでしょう。理由は明治天皇の活躍にあります。
孝明天皇が亡くなり、明治天皇が即位をしたときはまだ14歳の少年でした。14歳は当時としてもまだ元服前で、早い即位だったことが伺えます。
しかし、若き明治天皇は、幕末の動乱を乗り切り、即位してからは新政府を整え、大日本帝国憲法を発布。現在の日本の基礎を作り出しました。
日清・日露戦争では直接戦争指導を行い、日本は列強の仲間入りを果たし、1911年には、アメリカやイギリスとの不平等な条約をすべて改正することができたのです。
孝明天皇は明治を迎える直前にこの世を去ってしまいましたが、その遺志は息子の明治天皇に引き継がれたのです。
孝明天皇と関わりの深い人物
ここで孝明天皇と関わりの深い人物を紹介します。妹、側室、息子を紹介することで、孝明天皇の人となりを一層理解できると思います。
孝明天皇の妹・皇女和宮
朝廷と幕府が一体となるための政策、公武合体のために徳川将軍家に嫁いだ皇女和宮。彼女は孝明天皇の妹にあたりますが、母親は孝明天皇とは違います。
当初は和宮に婚約者がいたこともあり、嫁入りを断っていた孝明天皇でしたが、和宮と将軍の結婚が実現すれば、日本の鎖国を復活させ、攘夷も実行するという条件で結婚が成立します。
1862年に結婚をした和宮でしたが、夫となった徳川家茂は1866年に死去。わずか5年の結婚生活でした。しかも同じ年に孝明天皇も死去しますから、和宮の悲しみは大きかったことでしょう。
孝明天皇の側室・中山慶子
中山慶子(なかやまよしこ)は孝明天皇の典侍(ないしのすけ、てんじとも)を務めた人物であり、明治天皇の実母でもあります。
典侍というのは、宮中の官職の名前ですが、天皇の秘書的な役割を果たすとともに、寵愛を受けて子どもをもうけるという役割も持っていました。
慶子の父・中山忠能は権大納言という役職についていましたが、家禄は200石とそれほど裕福ではなかったようです。慶子の出産のためには産屋を作らなくてはならず、そのために借金をしなくてはならなかったということです。
あくまでも側室の立場でしたが、明治天皇の実母だったため、慶子はそれ相応な扱いを受けたようです。
孝明天皇の息子・明治天皇
中山慶子が生んだ明治天皇は5歳まで中山家で養育されました。それ以降は宮中で生活しましたが、孝明天皇に他に男子が生まれなかったため(第一皇子は早逝)、英照皇太后の実子とされました。孝明天皇が突然亡くなってしまうと、わずか14歳で即位します。
戊辰戦争では、旧幕府軍を鎮圧することに力を注ぎましたし、首都を東京に移し、廃藩置県を行いました。また、太陽暦を採用して、現在の私たちの生活の基礎を作りました。
それだけでなく牛肉を食べ、牛乳を飲むなど、国民に先駆けて新しい食生活を取り入れました。また、断髪令が出た折も、先頭に立って西洋風の断髪にするなど、自らが手本になるように心がけていた節があります。
朝廷を本来あるべき姿に、との孝明天皇の願いはすべて明治天皇によって叶えられたと言っても過言ではありません。
孝明天皇の名言
我よりも民のまづしきともがらに恵ありたくおもふのみかは
黒船が来港した年には大地震があり、さらには御所が火事になるという不幸が続きました。この和歌は火事に際して詠まれたものです。大変な思いをしているのは、自分だけではないから、私よりも貧しい民に恵みがあって欲しいという意味です。
「ともがら」には、同じ仲間という意味があります。この言葉に、自分と民は大変な思いをしている者同士なのだという孝明天皇の優しい思いを感じることができます。
國のこと深く思へといましめの雪のつもるか園のくれ竹
幕府の規制によって政治から離れていた朝廷でしたが、本来あるべき姿に戻りたいと願っていた孝明天皇。いつも国のこと、民のことを考えていたようです。積もる雪さえいましめと見る孝明天皇は、本当に真面目な人物だったと言えるでしょう。
骨肉の愛情で国家を捨てられない。
こちらも孝明天皇の言葉だと言われています。骨肉の愛情とは、肉親の愛情という意味ですから、肉親への愛情を優先して国家を捨てることはできないと考えたわけです。
これは妹の和宮を京都から遠く離れた江戸に嫁がせたことを意味していたのかもしれません。自分の妹を、縁もゆかりもない江戸に嫁がせるのは辛かったでしょうが、すべては日本を守るためだったのです。
孝明天皇にまつわる逸話
逸話1「松平容保への信頼の証・宸翰、御製」
孝明天皇は京都守護職に就いていた松平容保を大変信頼していました。容保が藩主をしていた会津藩の藩祖・保科正之は、3代将軍・徳川家光の異母弟です。容保が就任した京都守護職も幕府が設けた役職ですから、本来2人に接点はないように思われます。
しかし、孝明天皇は折り目正しい容保の態度や、外国船への開港を延期する、異人へは毅然とした態度で応対するという方針が気に入って、深い信頼を寄せるようになります。
そんな容保に尊王攘夷派が偽の手紙を送り、会津藩を京都から追い出そうとしたことがありました。そのときに孝明天皇は慣例を破り、宸翰(直筆の手紙)と御製(和歌)を容保に送ったと言います。
感激した容保は頂いた手紙を竹筒に収め、生涯誰にも見せず、大切に保管したということです。
逸話2「異人嫌いでもこれは別!孝明天皇の遺品とは」
孝明天皇の遺品の1つに、懐中時計がありました。これは1859年に当時のアメリカ大統領だったジェームズ・ブキャナンから贈られた時計で、アメリカ最古の時計メーカー、ウォルサム・ウォッチ・カンパニー製でした。
同じメーカーの時計を第16代アメリカ大統領を務めたリンカーンも愛用していました。また、ブキャナン本人、時代が下ると川端康成も愛用していたことからも、時計としては一級品だったと思われます。
孝明天皇は異人嫌いとして有名でしたが、こうして贈られた懐中時計を持っていことを見ると、決して西洋文明を何もかも否定していわけではなかったことがわかります。
逸話3 「今でも見られる可愛い孝明さん」
孝明天皇が亡くなった後に、宝鏡寺(代々天皇の娘が住職を務めている寺)に遺品として御所人形が下賜されました。これは幼子をかたどって作られており、出産祝いや子どもの厄災を払うために使われたそうです。
孝明天皇は御所人形に詳しかったそうです。当時は子どもの死亡率が今よりもずっと高かったために、生まれた子どもの厄災を払いたいというのは切実な願いだったのでしょう。
宝鏡寺に下賜された御所人形は孝明さんと呼ばれ、今でも人々に親しまれています。宝鏡寺では今でも年に2回、春と秋に人形を公開しているそうです。私たちも孝明さんを見ることができるかもしれません。