湾岸戦争をわかりやすく解説!勃発原因や戦時中の様子も紹介

湾岸戦争の流れを年表順に説明

1990年8月10日「砂漠の盾作戦」

砂漠の盾作戦で使用されたアメリカ空軍の戦闘爆撃機

湾岸戦争勃発直前の1990年8月、クウェート侵攻から周辺諸国を防衛するためにアメリカ率いる多国籍軍と軍用機がサウジアラビアに集結。この防衛計画が「砂漠の盾作戦」です。

「砂漠の盾作戦」では、アメリカの民間航空会社や民間航空隊なども参加しボーイング747などの旅客機も任務に加わりました。こうして、多国籍軍は空と海の両方から人員と物資を大量輸送できることになったのです。

輸送だけでなく戦争開始後の作戦も緻密に計画しました。イラク軍への空爆やイラク大量破壊兵器施設の攻撃など具体的な案を決定。後は戦争が始まるのを待つのみとなりました。

1991年1月17日「湾岸戦争の始まり」

夜中に始まった多国籍軍の空爆の様子

1991年1月17日、「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる多国籍軍のイラク空爆によって湾岸戦争が開始。昔の戦争のような宣戦布告はなく突然の攻撃でした。多国籍軍は航空機と戦艦を利用してミサイルを発射し、イラク領内に多数の爆弾を投下したのです。

クウェート領内への攻撃を警戒していたイラク軍を出し抜いた「砂漠の嵐作戦」は見事成功し、イラク軍の防空システムは壊滅状態となります。

使われた兵器の数々

湾岸戦争では戦争開始から戦闘機や爆撃機、戦車や戦艦まで幅広い兵器が使用されました。特にジェットエンジン搭載の翼が付いたミサイルである巡航ミサイルはイラクへの空爆において大きな活躍を果たします。

戦艦から発射された巡航ミサイル「トマホーク」

通常のミサイルと違ってほぼ水平に低い高度で飛行できるためレーダーにも探知されにくく、航空機だけでなく戦艦や潜水艦にも搭載できる優れものです。多国籍軍は巡航ミサイルである「トマホーク」を「砂漠の嵐作戦」に使用しイラク軍の兵器を壊滅状態に追い込みました。

1991年1月18日「イラク軍によるイスラエル攻撃」

湾岸戦争が始まるとイラク大統領サダム=フセインは異教徒戦争も同時に開始しようと考え宗教的な対立国であるイスラエルの都市にミサイルを発射。多数の死傷者を出す被害を与えました。

この攻撃に対してイスラエル側は怒り狂いましたが、国際連合などによる要請によって参戦を思い止まります。

当時のイラク大統領サダム=フセイン

イラクはイスラエルだけでなく多国籍軍側のサウジアラビアなどにも攻撃を仕掛けましたがイラクに味方する国はありませんでした。これによって、フセイン大統領の異教徒戦争という策略はものの見事に崩れたのです。

その後、イラク軍は29日にサウジアラビア領内の油田を攻撃しましたが多国籍軍の抵抗に遭って翌日の30日に撤退しました。この時点で多国籍軍の優勢は火を見るよりも明らかだったのです。

1991年2月24日「砂漠の剣作戦」

空爆によってほとんどの軍事施設を破壊した多国籍軍は空爆をやめて地上戦に入りました。これを「砂漠の剣作戦」と呼びます。

イラク領内に入った多国籍軍が見たのは疲弊しきったイラク軍でした。軍装備も微弱で反撃する余力もないイラク軍を多国籍軍は次々に投降させていきます。

中には油田に火をつけて一矢報いようとするイラク軍もいましたが、多国籍軍の最新装備である熱線映像式の暗視装置*によって倒されていきました。

死のハイウェイ

多国籍軍の地上戦から約4日後にイラク軍は撤退を開始しましたが、多国籍軍はその撤退の列にも容赦なく爆撃。焼けた戦車や焼死体が連なり「死のハイウェイ」と呼ばれるものとなりました。

*熱線映像式暗視装置:物体の赤外線を画像として表示する装置。サーモグラフィーとも呼ばれ視界不良でも相手の位置や姿が分かる。

1991年2月27日「イラクがクウェートを解放」

当時のアメリカ大統領ジョージ・H・ブッシュ

1991年2月27日にイラクはクウェートを解放。当時のアメリカ大統領ブッシュは「クウェートは解放され、イラク軍は敗北した。多国籍軍、国連、全人類、法律の勝利である」と会見演説で述べました。

一方でイラクのフセイン大統領は「悪とテロの侵略主義帝国であるアメリカのオーラを破壊した」と述べ、自分たちの敗北を認めることはなかったのです。

1991年3月3日「停戦協定が結ばれる」

国際連合によって協定内容が決められる

1991年3月3日、約1ヶ月半に及んだ湾岸戦争に停戦協定が結ばれました。それから1ヶ月後の4月3日にイラクに対して国際連合は以下の4つのことを約束させます。

  • 生物化学兵器をはじめとする大量破壊兵器の廃棄
  • クウェートへの賠償金の支払い
  • 身柄を拘束している人々の解放
  • お互いの国境を尊重すること

イラクは4月6日にこれらの条件を受け入れ11日には正式に協定が成立しました。

湾岸戦争が世界に与えた3つの影響

わずか1ヶ月半の期間でしたが、湾岸戦争が世界に与えた影響は凄まじいものでした。そして、その影響は私たちの生活にも未だ影響を与え続けているのです。

影響1:日本の自衛隊が海外派遣をはじめるきっかけに

毎年11月1日にある自衛隊記念日に参加する自衛隊員

湾岸戦争は日本における自衛隊の海外派遣開始のきっかけとされています。

湾岸戦争において日本はアメリカから同盟国としての参戦を求められましたが、兵士派遣は行わず戦費の資金援助のみを行いました。その総額は110億から130億ドルにものぼりましたが、お金のみを支援するという姿勢に海外のみならず日本国内からも批判が起きます。

その結果、それまでになかった自衛隊の海外派遣が開始。まずは、ペルシャ湾に設置された機雷(水中にある地雷のような兵器)の撤去に派遣されました。こうして海外派遣が実現し日本の自衛隊は1992年に成立した国連平和維持協力法(PKO法)による平和維持活動(PKO活動)にも参加し始めます。

カンボジア内戦やアメリカ軍によるアフガニスタン攻撃などに海上自衛隊や陸上自衛隊を派遣するようになり、日本の自衛隊はどんどんと海外で活躍するようになったのです。

影響2:レバノン内戦

レバノンの首都ベイルートの殉教者広場

湾岸戦争は1975年から続くレバノン内戦にも影響を与えました。湾岸戦争によってレバノンという国の主導権が決まってしまったのです。

レバノンはシリアとイスラエルを隣国に持つ中東の国の一つであり、内戦前は「中東のパリ」と呼ばれるほど美しい国でした。しかし、宗教的な派閥や政治問題によって内戦が勃発。キリスト教徒側とイスラム教徒側に分かれての争いが悪化していきました。

かつては中東のパリと呼ばれた都市ベイルート

湾岸戦争前はイラクのフセイン大統領がキリスト教徒側を支援していましたが、湾岸戦争勃発によって支援は中断。アメリカやヨーロッパからの支援も受けられなくなり、キリスト教徒側は困窮してしまったのです。

それに対して、キリスト教徒と対立していたイスラム教徒側のシリアは、多国籍軍に参戦したことでアメリカの助力を得えます。そして多国籍軍が湾岸戦争に勝利したこともあり、レバノン内戦はシリア(イスラム教徒)が主導権を握る形で集結したのです。

湾岸戦争は期間は短くとも、日本だけでなく他国の内戦にまで影響を及ぼした戦争であることを忘れてはなりません。

影響3:世界各地でテロリストが登場

イスラム教過激派アルカイダの旗

湾岸戦争は世界各地においてテロリストを生み出すきっかけとなった戦争でもありました。湾岸戦争前の「砂漠の盾作戦」において多国籍軍がサウジアラビアに集結したことがイスラム教過激派の怒りを買い、テロリストが登場したとされています。

なぜサウジアラビアに集結したことが引き金になったのか。

実はサウジアラビアにはイスラム教徒の聖地メッカがあり、イスラム教徒にとっては聖なる土地なのです。通常は外国人に対して厳しい入国制限をとっているにもかかわらず、アメリカ人をはじめとする異教徒たちを集結させたことは過激派組織にとって我慢ならないことでした。

テロ攻撃によって燃えるアメリカのワールドトレードセンター

こうしてイスラム原理主義組織アルカイダによってアメリカ軍へのテロ攻撃が始まりついには2001年9月11日の同時多発テロが起こります。

湾岸戦争はアメリカ本土がはじめて攻撃されるという大規模なテロ攻撃につながる戦争だったのです。

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