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清少納言とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格、紫式部との関係も紹介】

清少納言とは、平安時代中期に随筆『枕草子』を書いた女流作家です。「春はあけぼの」で始まる『枕草子』は日本初の本格的に随筆とされます。今では教科書にも掲載され、現代の人々にも親しまれていますよね。

『枕草子』の作者清少納言

そんな彼女が生涯の中で最も輝いたのは一条天皇の中宮定子の女房として宮中に仕えた時代でした。約7年間でしたが、彼女は最高の舞台で豊かな教養を余すことなく発揮し、貴族や中宮、さらに天皇からも賞賛を得ます。

しかし宮中勤めは順風満帆ではなく、自慢をする高慢な人といった批判を受けたり、定子とともに政争に巻き込まれてつらい目にもあったりします。そんな逆境においても、清少納言は常に前向きに明るくふるまう凛とした強さと定子を支えようとする優しさをもった女性でした。

今回は平安時代の女流作家である清少納言が、どのような女性であったのかを意外なエピソードも交えながらご紹介します。この記事を読んで清少納言に親しみを持ってくだされば幸いです。

清少納言とはどんな人物か

名前清少納言
誕生日966年ごろ
没日1025年ごろ
生地京都
没地不明(京都?)
配偶者橘則光、藤原棟世
埋葬場所不明(四国に清少納言の
墓があるという説あり)
子ども橘則長、小馬命婦

清少納言の生涯をハイライト

徳島県の天塚の裏側にある清少納言像

清少納言は10世紀後半、貴族で有名歌人でもある清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘として京都に生まれました。清少納言は父の教育を受け、和歌や漢詩など豊かな教養を身に着けた女性として成長します。

清少納言は10代半ばで最初の夫である橘則光(たちばなののりみつ)と結婚して一男をもうけましたが10年ほどで離婚しました。やがて30歳前のころ、その教養をかわれて一条天皇の中宮定子の女房として出仕します。

初めは慣れない宮仕えに緊張していた清少納言でしたが、定子の導きもあり才能を宮中で発揮し、貴族たちとも交流を深めて定子サロンを代表する女房となりました。清少納言は定子と主従関係を超えた信頼関係を築きます。

枕草子絵詞

そして宿下がりしていた時に、定子から与えられた紙に日々思ったことや宮中での生活を書き留めるようになりました。それが『枕草子』です。

1000年ごろに定子が若くして亡くなると、清少納言は宮中を去ります。その後、完成させた『枕草子』は、軽妙な文体や斬新な内容で宮中の人々の間に広まりました。また『枕草子』は亡き定子の素晴らしさとその面影を、貴族の人々の間にとどめることにもつながりました。

なお、時期は不明ながら清少納言は年上の貴族・藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し、一女をもうけています。宮中を去った後の清少納言の動向についてはよくわかっていませんが、一時、再婚相手に従って地方へ下っていたようです。そして晩年は京都に戻り亡くなったと伝えられています。

清少納言の代表作品『枕草子』

「春はあけぼの」で始まる枕草子

清少納言の代表作は随筆の『枕草子』です。随筆とは思ったことや見聞したことを書き連ねた、現在のエッセイのこと。『枕草子』は日本で初めて書かれた随筆ともいわれており、鎌倉時代の『徒然草』『方丈記』とともに日本三大随筆とされています。

『枕草子』はひらがなを中心にした和文で書かれ、短編が多く約300の段で構成されています。995年または996年ごろから書き始めて1001年ごろに完成し、そのあとしばらく修正、加筆が加えられたようです。その内容は清少納言が日々思ったことや観察、見聞したこと、そして定子に仕えた宮廷での日々の様子をつづっています。

『枕草子』を貫くのは清少納言が面白いもの、美しいもの、興味のあるものなどを趣があると表現した「をかし」の精神です。「こんなものが好き」「こんなところが嫌」「こういうところが素敵」など清少納言の独自の視点とセンスで感じたことを個性的な文章で描き出しています。

清少納言が本として残したのはこの一冊のみでしたが、現代にまで読み継がれるロングセラーとなりました。

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清少納言は本名ではなかった

清少納言の本名はなぎこ?

当時は主人や家族など一部の人にしか本名を明かさなかったため、清少納言の本名はわかっていません。ただし江戸時代の本に清少納言の本名として「清原諾子(なぎこ)」という説が挙げられています。これが本当かどうかはわかりませんが、もし事実であれば「諾」という字を使った名前は当時としても珍しいため、文学者である父の清原元輔のセンスが光る命名といえるでしょう。

清少納言という名前は宮中に仕えるときに名乗った通称の女房名です。「清・少納言(せい・しょうなごん)と区切ります。当時の女房名の多くは姓名と父や夫の官職名を組み合わせることが多く、「清」は姓の清原氏から、「少納言」は近親者の官職からとったものと考えられています。

ところが清少納言の場合、父や兄弟に少納言の職についた人がいないため、この少納言の由来はわかりません。父の清原元輔が少納言職につける地位にいたため、清少納言が主である定子からこの呼び名を与えられたともいわれています。

清少納言と紫式部の関係

清少納言のライバルと言われた紫式部

清少納言と紫式部はともに平安時代の女房文学を代表する女流作家です。

清少納言は『枕草子』という随筆を執筆し、一条天皇の中宮(のちに皇后)の定子に仕え、紫式部は『源氏物語』という小説を執筆し、一条天皇の中宮の彰子に仕えました。

ふたりがそれぞれ仕えた定子と彰子は同じ一条天皇の正妻というライバル同士でしたが、清少納言が宮中を去った数年後に紫式部が彰子の女房となったため、清少納言と紫式部に直接の面識はなかったようです。

そんなふたりの関係といえば、紫式部が自身の『紫式部日記』において、清少納言を批判したことがあげられます。「清少納言は博識ぶって漢詩なども披露しているけどみっともない。ろくな死に方をしない」とかなりけなしていました。

紫式部が面識のない清少納言をここまで批判した理由についてはよくわかっていません。自分が清少納言のライバルとして期待されていることを痛感し、清少納言を意識していたのでしょう。さらに内向的な紫式部からしてみれば、漢詩の知識をひけらかしている清少納言のような人は最も嫌いなタイプだったのかもしれません。

清少納言の恋愛事情

橘則光とは宮中で再会し兄と妹のような関係に

清少納言は生涯2度結婚したようです。10代半ばで橘則光という貴族と結婚したのが初婚とされています。則光との間に息子・則長をもうけましたが、性格の不一致からか離婚します。

このあと時期は不明ですが、清少納言はかなり年上の藤原棟世という貴族と再婚し、小馬命婦(こまのみょうぶ)という娘をもうけました。宮中を去った後はこの棟世の赴任先である摂津で暮らしたこともあったようです。

藤原実方とは人知れず長く続いた関係だったとも

そのほか清少納言の恋人と目される人物に、公卿で歌人としても著名な藤原実方(ふじわらのさねかた)がいます。実方はかなりの美男子だったそうです。『実方朝臣集』にふたりの贈答歌が記されており、秘密の恋人だったのではないかといわれています。

また、『枕草子』にもよく登場する藤原斉信(ふじわらのただのぶ)も恋愛相手と目されてきました。『枕草子』にふたりの仲の良さが随所に描かれる一方で、清少納言が口説いてきた斉信に対し「恋人になればあなたのことを表立ってほめられなくなる」と断るくだりもありました。ふたりは恋愛感情ではなく仲の良い友達だったともいわれています。

宮中で発揮した清少納言の教養

簾を掲げる清少納言

中宮に女房として仕えた清少納言は、平安時代のキャリアウーマン。女房というのは中宮の家庭教師兼話し相手で、豊かな教養が求められましたが、清少納言は女房にふさわしい才媛でした。

当時の女性の教養の一つとされた和歌においても、のちに歌が百人一首に選ばれているほか、中古三十六歌仙など優れた歌人の一人にも選ばれています。『後拾遺和歌集』など勅撰集にも15首入り、その実力が高く評価された女性です。

そのうえ彼女は、当時は男性の教養とされていた漢詩の知識も持ち合わせていました。

頭の回転が早い清少納言は、これらの知識を最高の形で発揮したのです。有名なのが『枕草子』にもある「香炉峰の雪」でしょう。雪の降る日、定子が清少納言に「香炉峰の雪は?」と問いかけます。これは「香炉峰の雪はすだれを掲げてみる」という漢詩の一節に基づくものだと察した清少納言はさっと簾を掲げます。ほかの女房達は清少納言の知識と機転に感心したのでした。

明るく芯の強い優しい性格だった

陽気な女性だったといわれる清少納言

『枕草子』からは、清少納言が好き嫌いのはっきりしたサバサバした性格だったことがわかります。冗談も好きで、ときにはイタズラもする茶目っ気たっぷりの陽気な女性でした。また、女性も宮中勤めをしたほうが良いと述べたり、位の高い女官職に憧れたりするなど上昇志向の強い一面もあったようです。

同時に、芯の強いやさしい女性だったともいわれています。

それは清少納言が『枕草子』を執筆した動機からも推測できます。清少納言が仕え始めたころの定子は、天皇の中宮として華やかな存在でした。しかし定子は父が亡くなると政争に巻き込まれ失脚していきます。清少納言も同僚たちから定子方のライバルの藤原道長派に寝返ったのでは?と疑われて実家に引き込まざるを得なくなりました。

最高のプレゼントとなった紙

落ち込む日々を過ごしていた清少納言のもとに、定子から「戻ってきてほしい」という手紙や当時は貴重な紙が贈られてきます。定子の深い思いに感謝した清少納言は定子を支えようと決意し、定子を元気づけるために書き始めたのが『枕草子』だったのです。そのためつらいことは書かず、楽しい日々や面白いことを積極的に取り上げました。

そして宮中に復帰した清少納言は、道長一派からのいろんな嫌がらせにも屈せず、明るく定子を支え続けました。

定子が若くして亡くなったのち、清少納言は定子の遺児たちのもとをしばしば訪れており、誠のある人だと周りから感心されています。敬愛した定子に最後までしっかり寄り添った清少納言は強くて優しい一面ももちあわせた女性だったといえますよね。

清少納言の功績

功績1「日本で最初の随筆を書いた」

日本で初めての随筆『枕草子』の世界を描いた枕草子絵詞

『枕草子』は日本で最初の随筆とされています。『枕草子』は「をかしの文学」とも呼ばれ、清少納言がハッと気づくように面白い、興味深い、美しいと思ったことを「をかし」という美的感覚で表現しました。

たとえば「春はあけぼの」はその後に「をかし」が省略されています。自然を時間軸でとらえたのは当時としては新しい視点で、清少納言自身が「春はあけぼのがいいね」とハッと気づいたものでしょう。

清少納言は女性は宮仕えをすべきと主張

また、『枕草子』では人や物事について批評していますが、「男はイケメンがよい」「宮仕えをして働く女性をけなす男は憎たらしい」「長居する客は迷惑」「妊娠させて逃げる男は最悪」など、好きなこと、嫌いなことをズバズバ一刀両断にしており痛快です。しかもこれらは現代でも思わず共感できるものが多く、彼女の観察眼の鋭さに驚かされます。

このように清少納言はその新しい独自の視点と表現力で、随筆というジャンルを生み出したのです。

功績2「女房文学の金字塔となった」

女房たちが繰り広げた雅な世界

『枕草子』は『源氏物語』ととともに、平安時代の女房文学のツートップとされています。女房文学とは天皇の后妃(妻)が住む後宮に仕えた女房たちによる作品のこと。

平安時代中期は藤原氏を中心とした摂関政治が定着していました。藤原氏らは自分の娘を天皇の妻にして、その生まれた子を次の天皇にして自らが摂政関白となり権力に握ろうとしていたのです。そのためお妃となった娘が天皇に気に入られるよう、その周りに才能豊かな女房たちを集めた後宮の文化サロンを作ります。

そんな定子のサロンの中心にいたのが清少納言であり、そのライバル彰子のサロンの中心にいたのが紫式部や和泉式部でした。サロンが競い合うことで清少納言や紫式部らは知的な会話や才能を磨き、独自の文学を生み出していったのです。

功績3「中宮定子を支え、その魅力を残した」

清少納言が憧れた中宮定子

清少納言は主である定子と主従関係を超えた絆で結ばれていました。清少納言は10歳ほど年下の定子の美しさと人柄に魅せられ、定子もまた明るく賢い清少納言を信頼しその能力を引き出します。ふたりの人柄もあり定子サロンはいつも知的な笑いにあふれていたようです。

やがて定子が逆境に置かれると、清少納言は定子を支えようと決意し、ふたりの絆は強まりました。『枕草子』の日記的な章段からは、雪山にはしゃぎすぎて定子にたしなめられるなど、日々を明るく過ごそうと清少納言が奮闘している姿がうかがえます。そして清少納言はついに定子から「あなたは私の気持ちをよく知ってくれている」という意味の歌をいただいたのでした。

定子の「鳥辺野陵」

そして清少納言が定子の死後も『枕草子』の執筆を続けたのは、定子の素晴らしさを残したかったからともいわれます。その願い通り、『枕草子』は平安貴族たちに定子の魅力を思い起こさせました。さらには後世の私たちにも定子の人柄が伝えられたのです。

清少納言が残した作品(歌)・百人一首

『枕草子』

かな文字で書かれた『枕草子』

清少納言の書いた『枕草子』は、おおよそ995年~1001年間にかな文字で書かれた随筆です。

主に300段の章段があり、その内容は3つに大別できます。

  • 類聚的章段(るいじゅうてきしょうだん)・・・「ものづくし」と呼ばれ、「好きなもの」「木は」「鳥は」など、ものを並べたもの
  • 随想的章段(ずいそうてきしょうだん)・・・自然の風景や人間関係など思ったことを記したもの
  • 日記的章段(回想的章段)・・・主に定子を中心とした清少納言の宮廷生活を日記風に記したもの

清少納言の独自の視点で切り取った内容が軽快な文章でテンポよく書かれています。自然を時間軸でとらえたり、あけすけに本音を語ったりした点など、当時としては新しい点も多く衝撃的な内容だったでしょう。

しかもそうした内容の多くを「をかし」という独特の美的感覚に落とし込んで表現している点も魅力の一つとなっています。

枕草子の内容をよく知れるおすすめ本【漫画から原文付きの上級者向けまで】

『清少納言集』

清少納言の歌を集めた清少納言集

清少納言は前述したように後世、優秀な歌人にも選ばれ、『後拾遺和歌集』など勅撰集にも15首近くが入っています。そんな清少納言の歌を集めたのが家集の『清少納言集』です。後世の人が編集したもので、平安時代末期から鎌倉時代初期に成立したとされています。

31首、42首の2種類の本があり、その内容は日常生活を詠んだ歌が多いのが特徴です。息子の則長の来訪を待つ歌や、夫の藤原棟世と住んでいた摂津に一条天皇の使いが訪ねてきた歌もあります。

また、清少納言の晩年は落ちぶれたという伝説もありますが、この家集の最後には孤独でわびしい住まいを嘆く歌が収められています。

百人一首に収録された歌

京都の泉涌寺境内にある歌碑

次の歌は百人一首に収録された清少納言の歌です。

「夜をこめて 鳥の空音(そらね)ははかるとも よに逢坂(おうさか)の 関は許さじ」

「鳥のなきまねをしてだまそうとしても、関所をあけた函谷関(かんこくかん)の人のようには私はだまされません(逢いません)」

『枕草子』にはこの歌が詠まれたいきさつが紹介されています。

あるとき藤原行成(ふじわらのゆきなり)が、清少納言に「昨夜は鳥の声にせかされて話の途中で帰ってしまいました」と、詫びる手紙をよこしました。そこで清少納言が「中国の函谷関の鳥の声ですか」と鳥の鳴きまねで関所を開けさせた中国の故事にかけて返したところ、行成は「男女が逢うという逢坂の関のことです」と恋愛の話にすり替えてきます。

それに対して清少納言が、逢いません、つまり男女の仲にはなりませんよと即興的に「夜をこめて」の歌を返してやりこめたのでした。

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