清少納言とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格、死因も紹介】

清少納言にまつわる逸話

逸話1「清少納言はつけ毛がコンプレックス?」

平安時代の女性のなかには髪の長さが4メートル以上ある人も

平安時代の美人の条件のひとつがストレートの長い黒髪でした。清少納言も『枕草子』で「髪が長くてきれいに伸びている人」がうらやましいと書いています。ただし彼女自身は髪が薄くくせ毛だったらしく、それがかなりコンプレックスだったようです。『枕草子』には自身の髪について嘆く場面が何か所か登場しています。

「髪で顔を隠したいけど私の髪が恥ずかしいのに」
「自分の毛でないところが乱れて」

清少納言は「かもじ」と呼ばれるつけ毛をしていました。「かもじ」とは今でいうエクステのようなもの。 強気でサバサバしていたように見える清少納言でしたが、意外なコンプレックスに悩んでいたようです。

逸話2「裸体をさらして命が助かった?」

殺されかけた清少納言

清少納言は晩年、髪をおろして尼になっていたといわれています。

尼になった清少納言が兄の清原致信(きよはらのむねのぶ)の屋敷に身を寄せていた時のことです。致信を恨む一団によって屋敷が襲われ、致信は殺されてしまいます。頭をそっていた清少納言も男と間違えられて殺されそうになりますが、とっさに着物をまくって性器をさらけ出し、「女です」と訴えて命拾いをしたのだとか。

清少納言が居合わせて命拾いしたか逸話が真実かどうかは不明ですが、致信は実際に襲撃を受けて殺されています。

逸話3「清少納言は晩年放浪し、四国に墓がある?」

徳島県にある清少納言の墓所

清少納言は晩年、落ちぶれて地方を放浪したという伝説があり、清少納言のお墓とされる塚がなんと四国に残されています。

清少納言は晩年、父と関係のあった徳島県の里浦に移り住みますが、漁師たちに襲われそうになり、自ら海に飛び込んで亡くなったというのです。そんな彼女を慰めるために建てられたのが「天(あま)塚」で、今も清少納言の墓として伝えられています。

また、香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)にも清少納言の墓と伝えられる清塚(塚石)が残されています。

これらはもちろん本当の墓かどうかはわかりません。清少納言が晩年に落ちぶれたというのも、鎌倉時代に才媛の女性を敬遠する風潮が高まったため、才女である清少納言の放浪伝説が創作されたと考えられています。

清少納言の生涯年表

966年~980年 -1歳~14歳「誕生と幼少時代」

清原元輔の娘として誕生

清少納言が誕生

歌人として名高い父の清原元輔

清少納言は966年ごろに生まれたと考えられています。父の清原元輔は中流貴族にして、『後撰和歌集』の編纂を任されるほど著名な歌人で、曾祖父の深養父も歌人として活躍した、文学一家でした。

母については不明ですが、父元輔の晩年の妻・周防命婦(すおうのみょうぶ)ではないかという説や、若狭守をつとめた人の娘説などがあります。いずれにしても母親の記録がほとんどないことから、早くに死んだのではないかと考えられます。

父から英才教育を受ける

清少納言は父の元輔が59歳の時の子で、兄とは20歳以上も年が離れていました。清少納言は祖父と孫ほど年の離れた父に愛されて和歌や漢詩の手ほどきを受け、教養豊かな女性として成長しました。

周防国で過ごした少女時代

山口県防府市にある周防国国府跡

清少納言は少女時代に元輔に同行して、その赴任先である周防(現在の山口県)で何年か暮らしていたようです。幼いころとはいえ、京都とは違う風景を見たことも、彼女の視野を広げて感受性を育んだことでしょう。

981年~992年 – 15歳~26歳「息子の出産と離婚、そして父の死」

当時、15歳ごろの結婚は珍しくなかった

橘則光と最初の結婚

981年ごろ、清少納言は名家である橘家の嫡男則光と結婚し、982年に長男の則長を生みます。しかし10年ほどの結婚でふたりは離婚しました。則光は「歌は嫌い」というような風流を理解しない人だったので清少納言とは価値観があわなかったようです。

最愛の父の死

熊本県にある清原元輔をまつる清原神社

990年、父の清原元輔が赴任先の肥後(現在の熊本県)で亡くなりました。離婚や父の死去で生活に不安を覚えたことも宮中に出仕するきっかけのひとつになったと思われます。清少納言は父を敬愛していたようで、のちに立派な歌人である父の名をはずかしめたくないので、自分は歌を詠まないと宣言したこともありました。

993年~1001年 – 27歳~35歳「波乱万丈だった宮廷生活と枕草子執筆」

平安京を一部再現した平安神宮大極殿

中宮定子の女房として宮中に出仕

宮廷生活

993年ごろ、清少納言はその教養を見込まれて一条天皇の中宮・定子の女房となりました。

最初の頃は人前に出るのが恥ずかしく夜にだけこっそりと定子の前に参上したものの、それでも定子の顔もまともにみられないほど緊張したと『枕草子』で回想しています。

しかし才気煥発な清少納言はじきに華やかな宮中生活にも溶け込み、定子の信頼も勝ち得て花形の女房となりました。

引きこもりのなか、枕草子を執筆

995年、定子の父の藤原道隆が亡くなったのをきっかけに、定子は政争に巻き込まれて没落していきます。清少納言も同僚から裏切り者という噂を立てられ、実家に引きこもりました。そんな失意の日々のなか、定子を元気づけようと『枕草子』を書き始めます。

最愛の定子の死去と枕草子完成

定子の死を夫の一条天皇もいたく悲しんだ

じつは清少納言には、藤原道長から入内を予定していた娘彰子の教育係にという誘いがあったのではないかともいわれています。しかし定子のもとに戻った清少納言は、定子が1000年に亡くなるまで仕えました。

そのあと清少納言は宮中を去り、1001年ごろに枕草子を完成させました。

1002年~1025年 -36歳~59歳「宮廷を去ったあとの清少納言」

清少納言が晩年に住んだとされる京都月輪に近く歌碑もある泉涌寺

夫の藤原棟世のいた摂津へ

清少納言の晩年の消息については不明ですが、一時は再婚した藤原棟世が赴任していた摂津に移ったようです。棟世との間には小馬命婦という娘をもうけています。この小馬命婦はのちに中宮彰子に仕えて上東門院小馬命婦と名乗りました。

棟世は国司として赴任していたので清少納言も摂津では比較的恵まれた生活をおくっていたと考えられます。また1000年代前半は『枕草子』の修正なども手がけていたようです。

晩年は京都へ

清少納言は請願寺で出家したという説も

年の離れた棟世とは早くに死別したのか、晩年の清少納言は京都に戻って父の山荘のある東山月輪に住んでいたといわれています。和泉式部、赤染衛門など宮廷の人々とも交流していたようです。

1017年に兄が殺された時、清少納言も屋敷に滞在していたとされるため、このころには京都に戻っていたと考えられます。地方をさまよったというのは後世の作り話でしょう。そして1025年ごろに亡くなったとみられています。

清少納言の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

小説・はなとゆめ

清少納言が中宮定子に仕えて『枕草子』を書き上げるまでを、清少納言の語りで描いた物語です。自信がなく不器用な清少納言が中宮定子の導きで、才能を開花して一人の人間としての輝きを手に入れていく様子が描かれます。清少納言は政争に巻き込まれる定子の笑顔を守りたいと奮闘していくのですが、苦しいなかでも笑いを絶やさず明るく前向きな清少納言の姿は爽快です。

コミック・清少納言と申します

物語は、美しく女子力も高いなぎ子に橘則光との縁談話が持ち上がるところから始まります。なぎ子の意外な秘密や則光の個性的な姉などかなりぶっ飛んだ内容に驚く人がいるかもしれませんが、作中には歴史や枕草子のネタも多く平安時代のツボを押さえています。

その元ネタを知っている人は思わずそう来たか!と言いたくなりますし、知らない人は逆に歴史を知りたくなるでしょう。

清少納言がよく分かるおすすめ本6選【枕草子を楽しく読める】

おすすめの動画

映像教材「枕草子」

中学校の授業の流れに沿って作成された、枕草子と清少納言についてわかりやすく解説した動画です。

清少納言が現代に来て自己紹介するという設定で、枕草子についてや冒頭部分の内容の解説などを行っています。まず枕草子や清少納言についてざっと知りたい人におすすめです。

清少納言についてのまとめ

清少納言の生涯、性格、逸話、功績などについてご紹介しました。

清少納言といえば、いつも明るくサバサバしていた人という印象がありますが、憧れていた宮廷生活も楽しいことばかりではなかったようです。しかし逆境においてもめげることなく、自分のできることで前向きに定子を支えようとした、清少納言の心意気はじつにあっぱれですよね。

この記事を通して、一人の女性としての清少納言に興味を持ってくださればうれしく思います。

長い時間、お付き合いくださりありがとうございました。

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