その他に噂されている家康の死因3説
家康の死には、胃がんの他にも死因があると言われています。有名なのは以下の3つの説ですので、順に解説していきます。
- 鯛の天ぷらで中毒死説
- 戦死説
- 替え玉説
鯛の天ぷらの食べ過ぎで中毒死
長い間、家康の死因は鯛の天ぷらの食べ過ぎによる中毒死とされていましたが、現在ではこれが直接の死因ではないと言われています。しかしそれでも、天ぷらの食べ過ぎは家康の死に大きく関係していると思われます。
家康の死因は胃がんだと言われていますが、もともと腫瘍がある人が消化の悪いものを食べると、体内を上手く通過できず腸閉塞を起こすことがあります。腸の中に食べたものや消化液、ガスなどが溜まり腸が膨らんだ状態になり、激しい腹痛、嘔吐などが起こります。
この腸閉塞の症状が家康の体力を奪い、胃がんの進行を早めてしまったのかもしれません。
実は家康は大坂夏の陣で戦死していた
今まで家康は1616年に亡くなったと説明してきましたが、実はその11カ月も前の大坂夏の陣で戦死していたという説があります。
この戦いで家康は真田幸村に攻められ、一時は死を覚悟したほどでした。しかし幸村が連日の戦いに疲れていたために、すんでのところで家康が命拾いをしたというのが事実として知られています。
しかし、実はそのときに家康は亡くなり、墓も堺の南宗寺にあるというのです。二代将軍秀忠、三代将軍家光も将軍就任時には、南宗寺に詣でていることが、家康の本当の墓があることの根拠になっています。
家康の替え玉が毒殺された可能性
さらに大坂夏の陣で戦死した家康の死を隠すために、影武者が入れ替わってそのまま生きているように振る舞っていたとも言われています。つまり、1616年に駿府城で亡くなったのは影武者で、しかも毒殺された可能性があるというのです。
当時一部の戦国武将は、自分の替え玉を用意していました。武田信玄が自らの弟や家臣など、数人の影武者を揃えていたのは有名な話です。これは主が亡くなったときに、敵に弱みを見せないため、または敵を撹乱するために有効な手段だったと思われます。
しかし、この替え玉説には決め手となる証拠がないため、現在では否定されています。それに毒殺としては、亡くなるまでに時間がかかりすぎているように思えます。
健康に気を使っていた家康
その死についていろいろな説がある家康ですが、それでも当時としては奇跡的な長寿を全うしたと言えます。それには家康のさまざまな健康法が役に立っていました。
家康の食事は麦飯と豆味噌が中心の粗食で、ぜいたくはたまの楽しみにしていたそうです。また、冷たいもの、季節外れのものは摂らないなど、現在でも通用する知識も持っていました。
鷹狩だけでなく、剣術、弓術、水泳に乗馬まで行っていたそうですから、運動不足とも無縁だったでしょう。薬草についても自分で学び、薬の調合までしていました。
このように家康は、あらゆる面から健康に気を使っていたわけです。ライバルたちよりも1日でも長く生きることで、家康は天下を掴み取ったのです。
徳川家康の死因に関するまとめ
徳川家康の死因について解説してきました。
- 胃がん説
- 鯛の天ぷらで中毒死説
- 戦死説
- 替え玉説
1616年の家康の死には4つの説がありました。3と4の説には歴史ロマンを感じますが、やはり1の胃がん説が死因としては順当でしょう。徳川幕府の基礎を作る上で、私たちには想像もできないようなストレスが家康にはあったのかもしれません。
現代の私たちは健康診断を忘れずに受けて、自分の身体をいたわりたいものです。
こちらの記事もおすすめ
【24年1月最新】徳川家康をよく知れるおすすめ本ランキングTOP12