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紫式部と清少納言の関係とは?共通点や違い、ライバルエピソードなども紹介

紫式部と清少納言はどんな人?
ふたりはライバルで不仲といわれてるけど本当?

このように同時代の紫式部と清少納言について、その実績や関係が気になる人も多いのではないでしょうか?ふたりは平安時代を代表する女流作家です。紫式部は長編小説の『源氏物語』、清少納言は随筆の『枕草子』をそれぞれ執筆しました。

宮中に仕えていた紫式部と清少納言

ふたりは平安時代の中でもほぼ同時代に生きた女性で、しかも紫式部は中宮彰子、清少納言は中宮定子とそれぞれ一条天皇のお后に仕える女房でした。彰子と定子は一条天皇を巡り対立する関係だったため、紫式部と清少納言もライバルだったのではないかとみなされています。

はたしてふたりはライバルで不仲だったのか、ふたりにはどのような接点があったのか、今回はその関係性についてご紹介していきます。

紫式部と清少納言の人物像

奥ゆかしい、『源氏物語』の作者:紫式部

名前紫式部
生年970~978年ごろ
没年1019年ごろ
代表作源氏物語
仕えた人一条天皇の中宮彰子

紫式部は長編小説『源氏物語』を書いた平安時代の女流作家・歌人です。著名な学者でもあった貴族の藤原為時の娘に生まれ、幼いころから聡明だったといいます。どちらかというと内気な性格で、当時としては遅い結婚をしたものの夫とはわすが数年で死別しました。

そのあと書き始めたのが『源氏物語』です。この作品が宮中でも評判となり、当時の権力者の藤原道長に乞われて、道長の娘で一条天皇の中宮彰子の女房として仕えました。

以降、皇子を出産した定子を支えるとともに『源氏物語』を完成させ、『紫式部日記』も残しています。 晩年については不明です。

紫式部とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格、清少納言との関係も紹介】

華やかなことが好きな『枕草子』の作者:清少納言

清少納言
名前清少納言
生年966年ごろ
没年1025年ごろ
代表作枕草子
仕えた人一条天皇の中宮定子

清少納言は日本初の随筆ともいわれる『枕草子』を書いた平安時代の女流作家・歌人です。歌人でもあった貴族の清原元輔の娘に生まれ、才気豊かな女性に育ちました。夫と離婚したのち、清少納言は一条天皇の中宮定子の女房となると、才気煥発ぶりを発揮し藤原行成ら貴族と華やかな交流を繰り広げました。

そのさなかに宮廷生活や日々思ったことをつづる『枕草子』を書き始めます。定子が若くして亡くなった後は宮中を去り、『枕草子』を書き上げました。宮仕えをやめたあとは再婚した夫に従って地方に下ったともいわれますが、晩年の動静についは不明です。

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紫式部と清少納言の関係

ふたりの共通点・平安宮廷に仕えたキャリアウーマン

ふたりとも宮仕えを経験

紫式部と清少納言は清少納言が5~10歳近く年上だったとみられますが、ほぼ同時代に生きた女性です。聡明な女性で作家というだけでなく、じつはその境遇もたいへん似通っていました。

ふたりはともに地方の国司(地方の長官)をつとめるような中堅クラスの貴族の家に生まれ、父は有名な歌人、または文学者でした。若いころにどちらも父の赴任地の地方で暮らしたことがあるようです。父の影響もありふたりは聡明な女性に成長します。結婚して子どもをもうけますが早くに死別または離別した後、一条天皇の后に女房として仕えました。

このように紫式部と清少納言は中堅貴族の家に生まれて聡明な女性だったため、一条天皇の后の女房という当時のトップクラスのキャリアウーマンになったのです。

しかもその職場においてもそれぞれ能力を発揮して、あるじに信頼されていきます。ふたりは歌がのちに百人一首にも入るなど歌人としても知られたほか、宮廷生活で見聞したことをいかして『源氏物語』『枕草子』という女房文学の代表となる文学作品を執筆し、日本文学史に名を残しました。

ふたりの相違点・性格は正反対だった

清少納言は機転が利いて活発な女性

境遇はよく似ていた紫式部と清少納言でしたが、異なる点もありました。ふたりの最大の違いは性格です。

紫式部は宮仕えに出ても目立たないように振る舞う内気な性格の女性でした。そもそも宮仕えにも消極的で、漢字も知らないふりをして周囲に溶け込もうとする奥ゆかしい性格だったようです。ただし目立ちたくないけど評価してほしいと日記に書くなど負けず嫌いな一面もありました。

一方の清少納言は『枕草子』からも分かる通り、快活で社交的な性格でした。宮仕えにも積極的だったようです。宮中では貴族たちと積極的に交流して機知に富んだ会話を楽しみ、得意の漢詩の知識を披露し賞賛を受けています。時には貴族をやりこめるなど勝ち気な性格でもあったようです。

ふたりは作風も異なった。写真は『源氏物語』の写本

この性格の違いはふたりの著作にも表れました。紫式部の『源氏物語』は心情的な「もののあはれ」を軸に、人の内面までも描いた壮大な物語です。一方の清少納言の『枕草子』は瞬間的に感動や気づきをとらえた「をかし」の感覚を軸に、軽妙な文体でつづったエッセイで、ある意味正反対の作風といえます。

直接の交流はなかった

平安京の一部を再現した平安神宮

ともに一条天皇の后に仕えて文学作品を残した紫式部と清少納言ですが、ふたりには直接の面識はなかったとみられています。なぜならふたりが宮仕えした時期が異なるからです。

清少納言は993年ごろから定子から亡くなる1000年まで仕え、その後は宮中を去ったとみられています。一方で、紫式部が彰子に仕えたのは1006年ごろからでした。

つまり清少納言が宮中を去ってから数年後に紫式部が宮仕えを始めているため、ふたりが宮中で出会うことはなかったのです。不仲になるほどの直接の接点はなかったと思われます。

もちろんプライベートではわかりませんが、ふたりの間に親しい交流はなかったようです。

ライバル関係がわかるエピソード

『紫式部日記』に書かれた清少納言評

清少納言の酷評も記された『紫式部日記』

紫式部と清少納言の間接的な接点といえるのが、紫式部が自身の『紫式部日記』の中に残した清少納言評です。『紫式部日記』は1008年~1010年ごろの出来事をつづった日記で人物評も書かれています。

そのなかで清少納言に対する評は

清少納言は全く得意顔をして、ひどかった人、あれほどりこうぶって、漢字を書きちらしておりますところも、よく見ると、まだひどく未熟な点が多い。このように人とは違ったところを見せようと思ってむきになっている人は、必ず見劣りがして、将来は悪くなるばかりですわ。気取る癖のついてしまった人は、ひどく殺風景なつまらないときにも、やたらに感動して、興のあることを見逃すまいとするうちに、自然とよくない軽薄な態度にもなるのでしょう。その軽薄になってしまった人のおしまいが、どうしてよいことがありましょう。

(鑑賞日本の古典7 「蜻蛉日記・和泉式部日記・紫式部日記・更級日記」尚学図書)

このように、紫式部は清少納言を徹底的に酷評しています。紫式部は他の人についても批判的なことを書いていますが、ここまで悪口のみというのは珍しい内容です。

清少納言をライバル視していた紫式部

紫式部は主人の彰子のためにも清少納言に負けられなかった!?

『紫式部日記』を見てもわかる通り、紫式部は清少納言をライバル視していたようです。そもそも紫式部の仕える彰子と、清少納言の仕えた定子はライバル関係でした。といっても紫式部が宮仕えを始めた時にはすでに定子は亡くなっており、清少納言も宮中にはいなかったのですが、紫式部は清少納言の幻影に悩まされていたようです。

なぜなら定子の死後、貴族たちの間に「定子様のサロンが懐かしい。定子様の女房たちは明るくて楽しかったが彰子様の女房はおとなしくて面白くない」という声が出回っていたともいわれています。

清少納言のことをほめているのは明らかで、彰子に仕えていた紫式部としては面白くなかったでしょう。紫式部は清少納言を意識しないわけにはいかなかったと考えられます。

『枕草子』には紫式部と結婚する前の藤原宣孝のことが書かれていた

紫式部が清少納言のことを意識する理由がほかにもありました。清少納言は『枕草子』に、紫式部の亡き夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)を物好きな変わり者として書いたり、従兄弟の藤原信経の悪筆をとりあげたりしていたのです。

清少納言は紫式部を意識して書いたわけではなかったでしょうが、紫式部としては親族のことを面白おかしく取り上げられたことを不愉快に思っていたかもしれません。

このように紫式部からしてみれば公的にも私的にも清少納言を意識せざるを得なかったようです。一方の清少納言が紫式部のことをどう思っていたのかは記録に残されていないため分かっていません。

酷評のせいで没落伝説が作られた清少納言

四国にある清少納言の墓所

紫式部の酷評は、清少納言の死後にも飛び火します。清少納言はその晩年の消息が不明なこともあり、鎌倉時代には落ちぶれて各地を放浪したという伝説がささやかれるようになりました。

紫式部の日記に清少納言の行く末が良いはずがないと書かれて、清少納言=没落の印象が強まり、鎌倉時代には才媛の女性が敬遠されたことも加わって清少納言の没落伝説が作られたようです。

鎌倉時代の『古事談』には、次のようなエピソードがあります。貴族たちが荒れた家の前を通って「これが清少納言の家らしい」と噂すると、鬼婆のような清少納言が飛び出してきて「駿馬の骨を買った人もいる」と言い返したといいます。これは中国の故事にちなんで骨になっても名馬は買われるが、「それは私も一緒だ」とやり返したのでした。

さらに清少納言は四国へと放浪し、その地で亡くなったという言い伝えもあり、四国には「天塚」という彼女の墓とも伝えられる塚があります。

紫式部清少納言に関するまとめ

紫式部と清少納言の関係についてまとめました。ふたりは不仲になるほどの交流はなかったようですが、お互いのあるじが元々対立関係だったこともあり、紫式部が女房としては先輩格にあたる清少納言をライバル視していたようです。

ただライバル視するということは清少納言をそれだけ認めていた裏返しかもしれません。

また、『源氏物語』と『枕草子』はそれぞれの性格が垣間見える作品です。ふたりの性格やその関係性を知って作品を読むと、今までとは違った感慨を抱くのではないでしょうか。この記事をきっかけに紫式部と清少納言やそれぞれの作品に興味をもっていただければ幸いです。

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