源頼家はどんな人?生涯・年表まとめ【壮絶な死因も紹介】

源頼家の功績

功績1「御家人所領を再計算し分配しようとしたこと」

有力御家人の一人大江広元、頼朝の頃からの御家人が多いため領地再計算は難しそうだ

結局失敗していますが、御家人所領の再計算して再分配しようと試みたといいます。“貰いすぎの御家人がいないかを確認し、若手や新興の御家人に分配しようとしたのです。しかし有力御家人の猛反発により断念しています。

平和な世となると新たな領地が増えることはないので、どうしても削減される側の立場からの反感を買います。しかし“わかってはいるけれども拗れるのがわかっているから先送りにする”歴史上の人物が多い中で、頼家は失敗しながらもしようとした意気込みは評価できるのではないでしょうか。

功績2「建仁寺を建立したこと」

京の建仁寺の開期は頼家だ

頼家は京から鎌倉に下ってきた栄西を支援し、京の建仁寺を建立しています。建仁寺は禅・天台・真言の3宗兼学の寺でした。建仁寺によって、禅宗の振興へと繋がっています。栄西は貴族だけではなく、武士や庶民にも茶を飲む習慣を広めた人物でした。頼家の将軍期間に開期した建仁寺は、現在の私たちの文化にも大きく影響を及ぼしているのは、頼家の功績の一つといえるでしょう。

源頼家の残した言葉

祖父北条時政も呼び捨てにされてさぞ驚いたことだろう

「おい時政」

自分の祖父・北条時政を呼び捨てで呼んだそうです。この後母の政子からこっぴどく叱られたといわれています。この事実は、頼家が排斥された理由が自ずと見えてくる気もします。常識的に祖父を呼び捨てにするような尊大な態度は、他の御家人にもきっと出ており反感を買っていたことでしょう。

源頼家の人物相関図

清和源氏家系図

源頼家にまつわる逸話

逸話1「子供がことごとく不幸な死を迎えたと言われている」

第4代将軍藤原頼経の御台所だった竹御所も死去し、頼朝の血は途絶えた

頼家には4男1女子供がいましたが、皆非業の死を遂げています。まず嫡男の一幡は、比企能員の変で北条氏に殺害されています。残りの男子は出家させられていますが、次男の公暁は源実朝暗殺の後に討たれ、三男も政変に巻き込まれて自害に追い込まれています。

四男も公暁に加担したという疑いで北条氏の刺客に殺害され、一人娘・竹御所は4代将軍の御台所となりますが、初産が難産で死産の末に死去しました。このため頼朝・政子の血は途絶えてしまったのです。

逸話2「遊興三昧だったと“吾妻鏡”には書かれているが…」

修善寺温泉街では毎年頼家のお祭りが行われている

北条氏が編集した“吾妻鏡”では、家臣の愛妾を寝とり遊興にふける暗君として書かれています。しかし吾妻鏡と京側の資料は明らかに相違があり、ことさら頼家の事を“暗君”と誇張して書いたと推測されています。

頼家が幽閉されていた修禅寺では、近隣の子供たちと付近の山々を走り回って遊んであげてたそうです。そのため頼家の死後に、地元の有志で将軍愛童地蔵尊が立てられています。毎年7月には修善寺温泉街で頼家祭りが行われているといいます。幽閉の地でこれだけ愛されているのを考えると、吾妻鏡の記述は頼家を陥れたことの正当性を持たせるための誇張も多分にあるのかもしれません。

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