源頼家はどんな人?生涯・年表まとめ【壮絶な死因も紹介】

徳川頼家の年表

1182年 – 0歳「源頼朝の嫡男として誕生」

鶴岡八幡宮の段葛

1182年に鎌倉幕府を開いた源頼朝と、母北条政子の間に生まれました。鎌倉入りをして待望の嫡男の誕生に非常に祝福されての誕生でした。政子の懐妊時代に頼朝は安産祈願のために鶴岡八幡宮若宮大路の整備をし、有力御家人が石を積んで段葛を作り、頼朝が自ら監督したといいます。

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頼家が初めて鹿を狩ったときに…

北条政子、気の強い女性だったエピソードが多く残っている

1193年に12歳の頼家は、富士の巻狩りで初めて鹿を射止めたといいます。頼朝は喜んで使者を政子のもとに送ったといいますが、政子は武将の嫡子なら当たり前のことだと使者を追い返したそうです。この逸話は、鹿を射止めたことによって頼家が神に後継者と認められたことを暗示するものでしたが、政子は事情が理解できなかったのだろうという解釈がなされています。

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父頼朝と共に上洛し後継者としてお披露目される

頼朝は頼家をつれて京に上洛した

1195年に頼朝は頼家を連れて上洛し、頼家を連れて参内も行い都で頼朝の後継者としてのお披露目が行われました。1197年には16歳で従五位上右近衛権少将の位を得ています。この頃に頼家は“古今に類をみないほど武芸の達人”に成長していたといいます。

1199年 – 18歳「頼朝の急死により第2代鎌倉殿となる」

吾妻鏡には頼家が傍若無人な振る舞いをしたと書かれているが…

1199年に父が急死し、第2代鎌倉殿となりました。しかし家督を継いで3か月後には有力御家人による十三人の合議制が敷かれ、頼家が直に訴訟をすることを禁じられてしまいました。反発した頼家は、信頼している5人の御家人以外は目通りをしないといい、反発したものは処罰するという命令書を出しています。

頼家の信頼する御家人が次々と失脚する

愚管抄に慈円は梶原景時を失脚させたのは頼家の失策であると批判している

1199年の合議制が引かれた半年後には、御家人たちが梶原景時を糾弾する連判状を頼家に提出。頼家は景時を庇いますが力及ばず一族共に滅亡させられてしまいます。そして頼家の乳母の父で舅でもあった比企能員も、北条氏の策略によって一族が滅亡します。この二人の失脚は、頼家にとって非常に手痛いものとなりました。

1202年 – 20歳「征夷大将軍となるが…」

病気平癒を願って書かれた頼家自筆の般若心経

1202年に頼家は征夷大将軍に任命されました。しかし1203年に頼家は重い病にかかり一時は危篤状態となってしまいました。そしてまだ頼家が存命にも関わらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」という知らせが9月7日に京に届けられたといいます。

使者が出たと思われる9月2日は、頼家の舅の比企能員が北条時政によって誅殺された日であり、時政が頼家が病により死去することを見越して行動していたことがわかります。しかし頼家の病状は回復し、現状をしって大激怒をした頼家ですが、時政征伐を命じても誰も従うものもなく結局知らせが届いた9月7日に千幡に交代を余儀なくされます。そして修禅寺に幽閉されてしまいます。

1204年 – 21歳「北条氏の刺客に襲われ非業の死を遂げる」

頼家の墓所

幽閉されて1年後、頼家は北条氏の刺客によって殺害されました。最後は風呂で襲われ、急所を切られて殺されるという陰惨な最期を遂げています。享年21歳でした。墓所は頼家が幽閉されていた修禅寺にあります。

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源頼家についてのまとめ

今回源頼家という目立たない将軍に焦点を当てて執筆しましたが、“やる気はあるけれども御家人に固められてもがく将軍像”が見えてきました。そして例え血が繋がっていても容赦しない、厳しい武家社会に驚いています。

母の北条政子も息子よりも実家をとったのかと感じてしまうところでもあり、政子の心中は永遠にわかりませんが、結局源氏は3代で絶えてしまい北条氏の執権政治が確立するという歴史の事実を改めて再確認することができました。頼朝の嫡男として生まれたものの、能力を振るえず悲惨な最後を遂げた将軍がいたと、この記事を読んで知った人がいたら嬉しく感じます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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