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源頼家はどんな人?生涯・年表まとめ【壮絶な死因も紹介】

「源頼家ってどんな人なの?」
「源頼家の死因が壮絶って本当?」

源頼家は鎌倉幕府の第二代将軍です。鎌倉幕府を開いた父の源頼朝や、天才武将の叔父・源義経の存在感に押されて、どちらかというと影が薄い将軍です。

源頼家

一般的なイメージは、父が築いた鎌倉幕府の実権を徐々に北条氏に奪われて最後は暗殺された将軍というものでしょう。暗殺の様子も“日本で一番悲惨な殺され方をした将軍”として話題になっているようです。

この記事ではそんな源頼家がどの様な人物だったのか迫っていきます。

源頼家とはどんな人物か

名前源頼家
誕生日1182年9月11日
没日1204年8月14日
生地鎌倉比企ヶ谷
没地伊豆国
配偶者若狭局・昌寛女・足助重長女など
埋葬場所福地山修禅寺境内の指月ヶ丘

源頼家の生涯をハイライト

頼家の父・源頼朝

源頼家の生涯を簡単にダイジェストします。

  • 1182年:源頼朝と北条政子の嫡男として誕生する
  • 1193年:狩りで初めて鹿を仕留める
  • 1195年:京に上洛し後継者としてお披露目される
  • 1197年:従五位上右近衛権少将に叙される
  • 1199年:父頼朝の薨去に伴い第2代鎌倉殿となる
  • 同年:十三人の合議制が敷かれる
  • 1200年:梶原景時の変が起こる
  • 1202年:征夷大将軍となる
  • 1203年:比企能員の変が起こる
  • 1204年:伊豆国修禅寺で死去。享年21歳。
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頼朝の息子として18歳で家督を継ぐが…

18歳で鎌倉殿として武士の棟梁となった

頼家は1199年に鎌倉殿となりますが、その3か月後には北条氏ら御家人による“十三人の合議制”が敷かれています。これにより頼家が直に訴訟を裁断することは停止されました。“吾妻鏡”によれば、頼家が従来の慣習を無視して横暴な判断を行ったためといっていますが、家督をついでたったの3か月の出来事なので真偽は現在も議論されています。

これに反発した頼家は、比企宗員・比企時員・小笠原長経・中野能成など若い衆5名を指名して、彼らでなければ目通りは許さず手向かいも許さないという命令を出しています。指名された御家人の中でも、頼家が特に信頼していたのが、側近でもあり乳母一族でもあった比企氏でした。しかし頼家の外祖父である北条時政を筆頭に、当然他の御家人たちが不満を抱くこととなりました。

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有力御家人の相次いでの滅亡

頼朝の頃からの腹心・梶原景時

頼家が“鎌倉殿”になり失脚するまでの4年の間に、梶原景時と比企能員という有力御家人を失っています。梶原景時は“御家人一の郎党”と呼ばれる人物で、父・頼朝からも信頼されている人物でした。比企能員は、頼家の舅で乳母の父でもあった人です。

しかし梶原景時は1200年に御家人たちにより失脚させられ、京に上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け一族もろとも滅亡しました。比企能員も頼家から多大な信頼を置かれていましたが、祖父・北条時政によって、1203年に比企氏は滅亡してしまいます。

睾丸の切断という壮絶な死因

風呂に入っているところを刺客に襲われた

頼家の死因は“首を絞められながらの睾丸を切り落とされての失血死”だったといいます。頼家が何故このような悲惨な殺害をされたかというと、風呂に入っていた所を刺客に襲われたためです。この時頼家は鎌倉を追放され、伊豆の修禅寺に軟禁されていました。しかし“古今例を見ない武芸の達人だった”という頼家の力が強く刺客も手こずったようで、

「頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリ」

とあり首を絞められた状態で、フグリ(睾丸)を切り落としたそうです。そして無力化させた上で刺殺したといわれています。風呂で殺害されたために全裸だったことも、悲惨な死を遂げた理由だったのです。

修禅寺に伝わる頼家の面、確かにむくんでいるように見える

修禅寺には“頼家の顔といわれる面”が伝わっています。寺伝によると頼家は鎌倉の付き人の策略で漆の風呂に入れられ、そのために全身が漆で被れて膨れ上がったといいます。その時の面相を一目母・政子に見せようと作られたものだといいます。

あくまで伝説であり現実的な話とは言い難いですが、そんな伝説が残る程頼家と北条氏の仲が険悪で酷い最期を遂げたということなのでしょう。

源頼家の功績

功績1「御家人所領を再計算し分配しようとしたこと」

有力御家人の一人大江広元、頼朝の頃からの御家人が多いため領地再計算は難しそうだ

結局失敗していますが、御家人所領の再計算して再分配しようと試みたといいます。“貰いすぎの御家人がいないかを確認し、若手や新興の御家人に分配しようとしたのです。しかし有力御家人の猛反発により断念しています。

平和な世となると新たな領地が増えることはないので、どうしても削減される側の立場からの反感を買います。しかし“わかってはいるけれども拗れるのがわかっているから先送りにする”歴史上の人物が多い中で、頼家は失敗しながらもしようとした意気込みは評価できるのではないでしょうか。

功績2「建仁寺を建立したこと」

京の建仁寺の開期は頼家だ

頼家は京から鎌倉に下ってきた栄西を支援し、京の建仁寺を建立しています。建仁寺は禅・天台・真言の3宗兼学の寺でした。建仁寺によって、禅宗の振興へと繋がっています。栄西は貴族だけではなく、武士や庶民にも茶を飲む習慣を広めた人物でした。頼家の将軍期間に開期した建仁寺は、現在の私たちの文化にも大きく影響を及ぼしているのは、頼家の功績の一つといえるでしょう。

源頼家の残した言葉

祖父北条時政も呼び捨てにされてさぞ驚いたことだろう

「おい時政」

自分の祖父・北条時政を呼び捨てで呼んだそうです。この後母の政子からこっぴどく叱られたといわれています。この事実は、頼家が排斥された理由が自ずと見えてくる気もします。常識的に祖父を呼び捨てにするような尊大な態度は、他の御家人にもきっと出ており反感を買っていたことでしょう。

源頼家の人物相関図

清和源氏家系図

源頼家にまつわる逸話

逸話1「子供がことごとく不幸な死を迎えたと言われている」

第4代将軍藤原頼経の御台所だった竹御所も死去し、頼朝の血は途絶えた

頼家には4男1女子供がいましたが、皆非業の死を遂げています。まず嫡男の一幡は、比企能員の変で北条氏に殺害されています。残りの男子は出家させられていますが、次男の公暁は源実朝暗殺の後に討たれ、三男も政変に巻き込まれて自害に追い込まれています。

四男も公暁に加担したという疑いで北条氏の刺客に殺害され、一人娘・竹御所は4代将軍の御台所となりますが、初産が難産で死産の末に死去しました。このため頼朝・政子の血は途絶えてしまったのです。

逸話2「遊興三昧だったと“吾妻鏡”には書かれているが…」

修善寺温泉街では毎年頼家のお祭りが行われている

北条氏が編集した“吾妻鏡”では、家臣の愛妾を寝とり遊興にふける暗君として書かれています。しかし吾妻鏡と京側の資料は明らかに相違があり、ことさら頼家の事を“暗君”と誇張して書いたと推測されています。

頼家が幽閉されていた修禅寺では、近隣の子供たちと付近の山々を走り回って遊んであげてたそうです。そのため頼家の死後に、地元の有志で将軍愛童地蔵尊が立てられています。毎年7月には修善寺温泉街で頼家祭りが行われているといいます。幽閉の地でこれだけ愛されているのを考えると、吾妻鏡の記述は頼家を陥れたことの正当性を持たせるための誇張も多分にあるのかもしれません。

徳川頼家の年表

1182年 – 0歳「源頼朝の嫡男として誕生」

鶴岡八幡宮の段葛

1182年に鎌倉幕府を開いた源頼朝と、母北条政子の間に生まれました。鎌倉入りをして待望の嫡男の誕生に非常に祝福されての誕生でした。政子の懐妊時代に頼朝は安産祈願のために鶴岡八幡宮若宮大路の整備をし、有力御家人が石を積んで段葛を作り、頼朝が自ら監督したといいます。

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頼家が初めて鹿を狩ったときに…

北条政子、気の強い女性だったエピソードが多く残っている

1193年に12歳の頼家は、富士の巻狩りで初めて鹿を射止めたといいます。頼朝は喜んで使者を政子のもとに送ったといいますが、政子は武将の嫡子なら当たり前のことだと使者を追い返したそうです。この逸話は、鹿を射止めたことによって頼家が神に後継者と認められたことを暗示するものでしたが、政子は事情が理解できなかったのだろうという解釈がなされています。

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父頼朝と共に上洛し後継者としてお披露目される

頼朝は頼家をつれて京に上洛した

1195年に頼朝は頼家を連れて上洛し、頼家を連れて参内も行い都で頼朝の後継者としてのお披露目が行われました。1197年には16歳で従五位上右近衛権少将の位を得ています。この頃に頼家は“古今に類をみないほど武芸の達人”に成長していたといいます。

1199年 – 18歳「頼朝の急死により第2代鎌倉殿となる」

吾妻鏡には頼家が傍若無人な振る舞いをしたと書かれているが…

1199年に父が急死し、第2代鎌倉殿となりました。しかし家督を継いで3か月後には有力御家人による十三人の合議制が敷かれ、頼家が直に訴訟をすることを禁じられてしまいました。反発した頼家は、信頼している5人の御家人以外は目通りをしないといい、反発したものは処罰するという命令書を出しています。

頼家の信頼する御家人が次々と失脚する

愚管抄に慈円は梶原景時を失脚させたのは頼家の失策であると批判している

1199年の合議制が引かれた半年後には、御家人たちが梶原景時を糾弾する連判状を頼家に提出。頼家は景時を庇いますが力及ばず一族共に滅亡させられてしまいます。そして頼家の乳母の父で舅でもあった比企能員も、北条氏の策略によって一族が滅亡します。この二人の失脚は、頼家にとって非常に手痛いものとなりました。

1202年 – 20歳「征夷大将軍となるが…」

病気平癒を願って書かれた頼家自筆の般若心経

1202年に頼家は征夷大将軍に任命されました。しかし1203年に頼家は重い病にかかり一時は危篤状態となってしまいました。そしてまだ頼家が存命にも関わらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」という知らせが9月7日に京に届けられたといいます。

使者が出たと思われる9月2日は、頼家の舅の比企能員が北条時政によって誅殺された日であり、時政が頼家が病により死去することを見越して行動していたことがわかります。しかし頼家の病状は回復し、現状をしって大激怒をした頼家ですが、時政征伐を命じても誰も従うものもなく結局知らせが届いた9月7日に千幡に交代を余儀なくされます。そして修禅寺に幽閉されてしまいます。

1204年 – 21歳「北条氏の刺客に襲われ非業の死を遂げる」

頼家の墓所

幽閉されて1年後、頼家は北条氏の刺客によって殺害されました。最後は風呂で襲われ、急所を切られて殺されるという陰惨な最期を遂げています。享年21歳でした。墓所は頼家が幽閉されていた修禅寺にあります。

源頼家の関連作品

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源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか (PHP新書)

源氏将軍の3代をわかりやすくまとめてある本です。資料を示しつつ実証的に歴史を語っているために説得力があります。どうして源氏がたった3代で断絶してしまったのか、背景なども踏まえて理由を知ることができます。

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【鎌倉時代】96 鎌倉幕府二代目将軍 源頼家【見て覚える日本史シリーズ】

源頼家を知るのに非常にお勧めの動画です。図解をして、複雑な外戚問題や御家人の問題もまとめてあります。頼家がどういった人物かだけでなく、鎌倉幕府の仕組みまでざっくりと見ると理解することができます。

関連外部リンク

源頼家についてのまとめ

今回源頼家という目立たない将軍に焦点を当てて執筆しましたが、“やる気はあるけれども御家人に固められてもがく将軍像”が見えてきました。そして例え血が繋がっていても容赦しない、厳しい武家社会に驚いています。

母の北条政子も息子よりも実家をとったのかと感じてしまうところでもあり、政子の心中は永遠にわかりませんが、結局源氏は3代で絶えてしまい北条氏の執権政治が確立するという歴史の事実を改めて再確認することができました。頼朝の嫡男として生まれたものの、能力を振るえず悲惨な最後を遂げた将軍がいたと、この記事を読んで知った人がいたら嬉しく感じます。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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