「源頼家ってどんな人なの?」
「源頼家の死因が壮絶って本当?」
源頼家は鎌倉幕府の第二代将軍です。鎌倉幕府を開いた父の源頼朝や、天才武将の叔父・源義経の存在感に押されて、どちらかというと影が薄い将軍です。
一般的なイメージは、父が築いた鎌倉幕府の実権を徐々に北条氏に奪われて最後は暗殺された将軍というものでしょう。暗殺の様子も“日本で一番悲惨な殺され方をした将軍”として話題になっているようです。
この記事ではそんな源頼家がどの様な人物だったのか迫っていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
源頼家とはどんな人物か
名前 | 源頼家 |
---|---|
誕生日 | 1182年9月11日 |
没日 | 1204年8月14日 |
生地 | 鎌倉比企ヶ谷 |
没地 | 伊豆国 |
配偶者 | 若狭局・昌寛女・足助重長女など |
埋葬場所 | 福地山修禅寺境内の指月ヶ丘 |
源頼家の生涯をハイライト
源頼家の生涯を簡単にダイジェストします。
- 1182年:源頼朝と北条政子の嫡男として誕生する
- 1193年:狩りで初めて鹿を仕留める
- 1195年:京に上洛し後継者としてお披露目される
- 1197年:従五位上右近衛権少将に叙される
- 1199年:父頼朝の薨去に伴い第2代鎌倉殿となる
- 同年:十三人の合議制が敷かれる
- 1200年:梶原景時の変が起こる
- 1202年:征夷大将軍となる
- 1203年:比企能員の変が起こる
- 1204年:伊豆国修禅寺で死去。享年21歳。
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頼家は1199年に鎌倉殿となりますが、その3か月後には北条氏ら御家人による“十三人の合議制”が敷かれています。これにより頼家が直に訴訟を裁断することは停止されました。“吾妻鏡”によれば、頼家が従来の慣習を無視して横暴な判断を行ったためといっていますが、家督をついでたったの3か月の出来事なので真偽は現在も議論されています。
これに反発した頼家は、比企宗員・比企時員・小笠原長経・中野能成など若い衆5名を指名して、彼らでなければ目通りは許さず手向かいも許さないという命令を出しています。指名された御家人の中でも、頼家が特に信頼していたのが、側近でもあり乳母一族でもあった比企氏でした。しかし頼家の外祖父である北条時政を筆頭に、当然他の御家人たちが不満を抱くこととなりました。
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有力御家人の相次いでの滅亡
頼家が“鎌倉殿”になり失脚するまでの4年の間に、梶原景時と比企能員という有力御家人を失っています。梶原景時は“御家人一の郎党”と呼ばれる人物で、父・頼朝からも信頼されている人物でした。比企能員は、頼家の舅で乳母の父でもあった人です。
しかし梶原景時は1200年に御家人たちにより失脚させられ、京に上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け一族もろとも滅亡しました。比企能員も頼家から多大な信頼を置かれていましたが、祖父・北条時政によって、1203年に比企氏は滅亡してしまいます。
睾丸の切断という壮絶な死因
頼家の死因は“首を絞められながらの睾丸を切り落とされての失血死”だったといいます。頼家が何故このような悲惨な殺害をされたかというと、風呂に入っていた所を刺客に襲われたためです。この時頼家は鎌倉を追放され、伊豆の修禅寺に軟禁されていました。しかし“古今例を見ない武芸の達人だった”という頼家の力が強く刺客も手こずったようで、
「頸ニヲヲツケ、フグリヲ取ナドシテコロシテケリ」
とあり首を絞められた状態で、フグリ(睾丸)を切り落としたそうです。そして無力化させた上で刺殺したといわれています。風呂で殺害されたために全裸だったことも、悲惨な死を遂げた理由だったのです。
修禅寺には“頼家の顔といわれる面”が伝わっています。寺伝によると頼家は鎌倉の付き人の策略で漆の風呂に入れられ、そのために全身が漆で被れて膨れ上がったといいます。その時の面相を一目母・政子に見せようと作られたものだといいます。
あくまで伝説であり現実的な話とは言い難いですが、そんな伝説が残る程頼家と北条氏の仲が険悪で酷い最期を遂げたということなのでしょう。