三国志演義とはどんな物語?成立からあらすじ、三国志との違いも紹介

「三国志演義ってなに?」
「三国志と三国志演義って何が違うの?」

小説や漫画、ゲームで昔から人気を誇る「三国志」。主人公である劉備を中心に描かれた歴史小説であり、実在する中国の三国時代を舞台にしているのは、知っている人も多いでしょう。しかし、私たちが知っている「三国志」とは、正しくは「三国志演義」といい、この2つは別物なのです。では、よく知られている「三国志演義」とは一体どんなものなのでしょうか。

今回は、三国志演義のそもそものお話とあらすじ、「三国志」との違いや三国志演義から生まれた名言・ことわざについてご紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

三国志演義とは?

そもそも三国志演義とはどういうものなのでしょうか。誰がなんのために作ったもので、どういう立ち位置の書物なのかは知らない人も多いはずです。

まずは三国志演義について解説していきます。

羅貫中によって書かれた「小説」

羅貫中の銅像。現在の山西省にある。

三国志演義は、歴史について書かれているので「歴史書」だと思っている人も少なくありません。しかし、実際には羅貫中(らかんちゅう)という人物によって書かれた「小説」なのです。つまり、娯楽のために生まれたものが、今日私たちが知っている三国志演義というわけです。

羅貫中は、実際の歴史書である「三国志」をもとに、三国志演義を書き上げました。実はこの三国志演義には、さらにもととなる別の小説が存在していたようなのですが、残念ながら詳しいことはわかっていません。

とにかく、三国志演義は、歴史書に基づいて書かれた小説である、ということになるのです。すべてが事実ではないのは残念ですが、面白く書かれているからこそ広く読まれるようになったのでしょう。

中国「四大奇書」のひとつ

三国志演義の冒頭である「桃園の誓い」のシーンを描いた挿絵

中国には、三国志演義を含めて4冊、「奇書」と呼ばれる小説があります。ほかの3冊は、「水滸伝(すいこでん)」「西遊記」と「金瓶梅(きんぺいばい)」で、いずれも元〜明の時代に書かれた長編小説であるという特徴があります。これらを総称して「四大奇書」と呼んでいるのです。

「奇書」とありますが、これは「奇妙な内容の小説」というものではなく、「大変優れた内容の小説」という意味です。呼ばれ始めたその理由ですが、中国の清の時代に、本屋がこの4冊をたくさん売るために作ったキャッチコピーだと言われています。まさか、本屋がつけたキャッチコピーが、ここまで使われるようになるとは、つけた本人は思っていなかったことでしょう。

三国志演義のあらすじ

三国志演義は、西暦で言えば184〜280年の約100年の歴史を小説にしたものです。そのため、本は非常に長く、映画やドラマでは三国志演義の中でも特に有名なものしか取り上げられることはありません。

中には、三国志演義を読む前に、あらすじを知っておきたいという人もいるでしょう。そこでここでは、三国志演義を大きく3つに分けて、簡単なあらすじをご紹介します。

物語の舞台は後漢末期

黄巾賊の起こした反乱は「黄巾の乱」と呼ばれ、中国全土に広がった

時は後漢末期。中国各地では「黄巾賊(こうきんぞく)」と呼ばれる反乱軍が、後漢王朝を相手に戦いを続けていました。青年である劉備(りゅうび)は、張飛(ちょうひ)・関羽(かんう)の二人と義兄弟の契りを結び、自身の祖先が作り上げた後漢王朝を守るため、黄巾賊との戦いに身を投じます。

戦いの後、劉備は、朝廷の実力者である曹操(そうそう)に目をつけられ、晴れて皇帝のおじとしての身分を得て後漢王朝復興を始めました。しかし、徐々に曹操が劉備をライバル視しはじめ、さらに董卓(とうたく)という新たな反乱分子も出現。董卓を退けることには成功した劉備でしたが、曹操からの目を逃れるため、呉(ご)と呼ばれる地域を治める若き君主、孫権(そんけん)のもとに身を寄せたのでした。

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赤壁の戦いから群雄割拠へ

赤壁の戦いが起きた場所に刻まれた「赤壁」の文字

曹操は、劉備・孫権を討伐するために呉へ大船団を率いて出兵します。迎え撃つ劉備・孫権ですが、知識人を必要としていた劉備は、軍師、諸葛亮(しょかつりょう)を自らの支配下に加え、赤壁(せきへき)の戦いに臨みます。結果は劉備・孫権の大勝利に終わりましたが、曹操にはますます睨まれることとなってしまい、また孫権からも存在を疎まれるようになってしまいます。

そんな中、劉備の親類であった太守がなくなる直前に、支配下であった地域を劉備に譲ると遺言を残して死去。当初はこれを断っていた劉備でしたが、曹操の跡を継いだ曹丕(そうひ)により後漢王朝は滅亡してしまいます。これを受けて劉備も、漢王朝復活のため皇帝になり、続けて呉の孫権も皇帝を自称しました。こうして、曹氏の魏(義)、劉氏の蜀(しょく)、そして孫氏の呉が成立、時代は三国時代本番に突入します。

諸葛亮VS司馬懿と三国統一

諸葛亮に並ぶ鬼才として知られた司馬懿(しばい)。しかし、三国志演義の中ではやられっぱなしの扱いであった。

劉備の死の間際に、「息子の劉禅(りゅうぜん)が愚か者なら国を奪え」と遺言された諸葛亮は、魏の軍師である司馬懿との知能戦を繰り広げます。しかし、五丈原(ごじょうげん)の戦いのさなか、没してしまった諸葛亮。最後の最後まで諸葛亮に翻弄され続けた司馬懿ですが、その後、魏での地位を確立。息子の司馬炎(しばえん)の時代になって魏を奪って晋(しん)を建国しました。

そして蜀を平定したのち、最後の勢力であった呉の孫氏を滅ぼし、ここに三国志演義は終幕となるのです。しかし、その晋の天下も長くはありませんでした。

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