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【三国志】関羽とはどんな人?生涯・年表まとめ【劉備や曹操との関係も紹介】

関羽(かんう)は、中国の後漢時代(建安15年前後)に生きた将軍です。三国志の中でも、トップクラスの人気を誇る英雄です。蜀の祖である劉備に仕え、その圧倒的な武勇と優れた人徳は、後世、多くの賞賛と尊敬を集めています。敵であった曹操でさえ、関羽には心から惚れんでいました。

見事なあごひげをたくわえ、「美髯公(びぜんこう)」とも呼ばれていた彼。三国志演義では「青龍偃月刀」と呼ばれる重さ50Kgもある巨大な武器を振るって、多くの敵をなぎ倒していきました。また、『 春秋左氏伝 』を暗唱するなど学問にも秀でていました。

最期には悲劇的な死を遂げますが、後世の人々によって神格化され「関帝」と呼ばれるようになりました。その「義」を重んじる人格は、今でも多くの人をひきつけています。

黄巾の乱をきっかけに、 劉備張飛 と義兄弟の契り(桃園の誓い)を結んだ関羽は、汜水関の戦いなど多くの戦で活躍します。華雄・文醜・顔良ら並み居る猛将たちを討ち取り、三国志最強の将軍・呂布とも三兄弟で戦いました。

一方で、赤壁の戦いで敗走する曹操を、恩義に免じて見逃すなど、義勇の将でもありました。

関羽

今回はドラマ「三国志 Three Kingdoms」で関羽を知り、関羽の書籍・映画を漁ったり、「夏候惇戦」や「呂布戦」などの一騎打ち対決をYouTubeで見るほど心酔している筆者がお送りします。私の好きな動画は後ほど紹介しますね。

関羽とはどんな人?

名前関羽(字:雲長)
誕生日不明
生地司隷 河東郡 解県出身(現在の山西省 運城市 塩湖区 解州鎮常平村)
没日建安24年12月( 220年 1月)
没地荊州臨沮県(現在の湖北省襄陽市南漳県 )
埋葬場所関林廟(中国 河南省洛陽市 洛竜区)

関羽の性格とは?

関羽の宿敵・張遼

彼の人格といえば、忠誠心・義侠心に厚いイメージでしょう。その義理堅さは、「関羽千里行」などのエピソードにもよく表れていると思います。

また、実力を認めた者に対しては、敵であっても親交を結んでいます。宿敵であった曹操の将軍・張遼はその一人です。

しかし、彼には傲慢な一面もあったといわれています。部下には優しいですが、同僚を見下すことも多く、敵を作りやすい性格だったといわれています。自分より下だとみなした人間には容赦しないタイプですね。

例えば、正史「蜀史」費詩伝(ひしでん)には、こんなエピソードが…。

関羽は前将軍という官職に任ぜられますが、後将軍には老将・黄忠が任命されます。すると、関羽は「あんな老いぼれと同列なのか」と不満を漏らし、前将軍になるのを断ろうとします。結局、費詩(ひし)に説かれ、ようやく前将軍になったのでした。

老将・黄忠

さらに三国志演義では、こんな話も…。荊州を守っていた関羽に対して、呉の君主・孫権は縁談を持ちかけます。

一国の君主である孫権と劉備の臣下に過ぎない関羽が縁談を結ぶなど、ふつうはあり得ない話です。断るのが本来の筋ですし、関羽もこの縁談を拒否します。ただ、その断り方がマズかった。

彼は、「虎の子を犬の子にはやれない」とかなり馬鹿にした言い方で孫権の申し出を拒否してしまいます。彼の高すぎるプライドが見えるエピソードですね。
当然孫権は気分を害してしまいます。これが魏と呉の内通へとつながり、関羽自身の死へと結びついてしまうのです。

関羽と曹操の関係性は?

曹操

関羽と曹操は、敵ながら不思議な縁で結ばれていました。

200年、曹操暗殺計画が露見し、計画に関与した劉備に曹操は激怒。曹操の追討軍に劉備は大敗し、袁紹の下に身を寄せました。この時、関羽は曹操に降伏しますが、曹操からは大変な厚遇を受けます。

関羽の武勇と義理堅さを、曹操は高く評価していたのです。関羽は偏将軍に任命されると、白馬の戦いに出撃、敵将・顔良を討ち取る大活躍を見せました。

ただ、曹操の軍門に下ったのは、一時的なものでした。劉備の消息が分かると、関羽は別れの手紙をしたため、曹操のもとを離れてしまいます。曹操は、関羽を引き留めておきたい気持ちをおさえて、追っ手を差し向けずに彼を見送りました。関羽の忠義心を重んじた曹操の計らいでした。

冷徹な曹操にここまでさせてしまう関羽は、やはりタダ者ではありませんね。それと同時に、彼の忠義心を尊重した曹操の器量も凄いと思ってしまいます。

後に、2人は赤壁の戦いで再会します。大敗を喫し、命からがら逃げる曹操は、孫権・劉備軍の追撃を受けます。そして、華容道で関羽と鉢合わせしてしまうのです。敵将を発見したのですから、関羽は曹操を斬らねばなりません。

しかし、関羽は命乞いをする曹操を見逃しました。かつて自分を厚遇してくれた曹操の恩義に報いたのです。

関羽の一騎打ち列伝

一騎打ちが強かった関羽

圧倒的な武力を誇った関羽。義兄弟の張飛と並んで、一騎打ちでは無類の強さを見せました。その中でも、特に有名な名勝負をご紹介しましょう。

1.汜水関の戦い / vs 華雄

汜水関の戦いで反董卓軍に参加していた関羽。董卓軍の猛将・華雄との一騎打ちに名乗りをあげました。当時官職が低かった関羽の言動に、反董卓軍の盟主だった袁紹・袁術は不快感をあらわにします。しかし、曹操のとりなしで関羽は出撃を許されます。すると、関羽はたった一撃で華雄を仕留め、首をあげたのでした。この一戦で董卓軍は敗走に追い込まれます。

史実では、華雄を討ち取ったのは、孫堅(孫権の父)でした。汜水関・虎牢関の戦いは、正史では「陽人の戦い」といいます。この戦いでの一番の功労者が、孫堅でした。彼の活躍は凄まじく、追撃に耐え切れず、董卓は都・洛陽を焼いて、長安へ逃亡してしまいました。

関羽の華雄討伐は、三国志演義の創作だったのです。

2.白馬・延津の戦い / vs 顔良・文醜

顔良

曹操の軍門に下っていた関羽は、曹操のライバルだった袁紹軍の顔良・文醜と戦うことになりました。この2人は、袁紹が「顔良と文醜がいれば、華雄など恐れるに足らん」といわしめるほどの猛将でした。

まずは白馬の戦いで、関羽は顔良と激突。袁紹軍に突入した関羽は、そのまま一撃で顔良を仕留めてしまいます。

次に延津の戦いで、文醜と対決します。関羽と戦う前に、曹操軍を代表する武将 徐晃・張遼と互角の勝負を演じていた文醜。関羽が現れると、3回ほど戦った所で、退散しようとします。しかし、関羽はこれを見逃さず、文醜を斬り殺してしまいました。

あまりの関羽の強さに、袁紹は激怒。袁紹軍に身を寄せていた劉備を殺そうとしたほどでした。

「蜀志」関羽伝には、関羽が顔良を討ち取ったことが記されています。一方の文醜を討ち取った者の記述はなく、関羽が討ったのは三国志演義の創作とされています。

3.長沙の戦い / vs 黄忠

関羽と黄忠

劉備の荊州攻略にあたり、長沙郡に攻め入った関羽。そこで、老将・黄忠と激しい一騎打ちを繰り広げました。全く互角の戦いでしたが、戦いのさなか黄忠が落馬してしまいます。しかし、関羽は「老人と童は斬らぬ」と言ってこれを見逃します。

翌日、両者は再び戦いますが、黄忠は弓矢をわざと外しました。本来の黄忠は「100歩離れた場所から柳の葉を射抜く」といわれるほどの弓の名手でしたが、関羽の義に応えるためにあえて弓矢を当てなかったのです。両者の素晴らしい心意気が伝わる名勝負でした。

関羽の武器・青龍偃月刀

青龍偃月刀を携える関羽

関羽の愛用した武器は「青龍偃月刀」と呼ばれるものです。「大刀」と呼ばれる武器の一種で、刃の部分には青龍の装飾が施されていました。

関羽が使っていたのは、その中でも「冷艶鋸」れいえんきょ)と呼ばれるもので、重さはなんと50KG!赤兎馬に乗りながら、こんな巨大な武器をふるわれたらもはや無敵ですね。

荊州をめぐる戦いで関羽が処刑された後、彼の青龍偃月刀は、呉の武将で関羽を斬った 潘璋 ### に与えられます。しかし、潘璋は関羽の子である関興に追われ、斬り殺されてしまいます。こうして、父・関羽の青龍偃月刀は子の関興に受け継がれたのです。

ただ、実際の青龍刀はかなりの重さがあるため、主に踊りや訓練のために使われることが多かったそうです。

関羽の名言

「私は曹公(=曹操)が私を待遇する気持ちの厚いのは良く知っている。しかし私は劉将軍(=劉備)に厚恩を受け、共に死すことを誓った身で背く事はできない。私は曹公の為に功績を立て恩義に報いて後、曹公の下を去ろう」

「天下が乱れるのは天下の乱れにあらず 官の乱れが原因だというが その通りかもしれぬ」

「味方でないとすれば敵としか考えられませぬ」

関羽にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「手術中に平然と談笑」

手術中にも平然としていた

関羽には、麻酔なしで手術を受けたという伝説が残っています。

荊州をめぐる魏との戦いのさなか、毒矢が関羽の右ひじに命中します。傷を調べてみると、毒が骨まで到達してしまいました。

さすがの関羽も一時撤退し、稀代の名医である華佗の手術を受けることになります。その手術内容は、毒が達した骨を削り取るというもの。激痛が想定されるゆえ、華佗は、手術中は柱に腕を固定し、顔を布で覆うことを申し出ます。

しかし、関羽は「そんな必要はない」と笑い飛ばし、さらに手術中も酒を飲みながら馬良と囲碁をしていたそうです。豪快すぎます。

ただ、このエピソードは三国志演義のものです。正史にも同様のエピソードはありますが、この時華佗は既に亡くなっているので、もし本当の話なら別の医者が手術したことになりますね。

都市伝説・武勇伝2「関羽の呪い」

呂蒙

219年に、関羽は呉との戦いで命を落とします。しかし関羽の死後、彼の死に関わった人が次々と命を落としてしまいます。

その最たるものが、呉の大都督だった呂蒙です。

関羽が処刑されてしまった後、呉では祝勝会が開かれました。この席で呂蒙は、最大の勝利の貢献者として盃を受け取ります。しかし、何かに取り憑かれたかのように、突然その盃をたたきつけてしまいます。

さらに、主君・孫権の胸ぐらをつかむと「私が誰か分かるか…」、「私は関羽だ!」と絶叫。そのまま全身から血を噴き出して絶命してしまいました。壮絶な最後ですね・・・。

ただ、これは三国志演義での話です。史実では、呂蒙は病死でした。元々病弱だったようで、荊州争奪戦の後、病に伏せてそのまま亡くなってしまったそうです。

このほかにも、関羽を裏切った者たちはみな悲惨な最後を遂げたり、首を受け取った魏の曹操も、関羽の悪夢に悩まされた話も残っていますね。豪傑を死に追いやった代償は重かったのかもしれません。

関羽の簡単年表

?年
正確な生年は不明。 河東郡 解県(現在の 山西省 運城市 塩湖区 解州鎮常平村)の出身です。
184年
桃園の誓い
黄巾の乱のさなか、意気投合した劉備・関羽・張飛は、桃園で義兄弟の契りを交わします。義兄弟の順番を決め、死ぬときは同じ日に死ぬという誓いを立てました。
190年
汜水関・虎牢関の戦い
黄巾の乱の後に実権を握った董卓に対して、袁紹を盟主とした反董卓軍が挙兵。劉備・関羽・張飛もこの戦いに参加します。
汜水関の戦いでは、関羽は董卓軍の猛将・華雄を一撃で仕留め、董卓軍を総崩れに追い込みます。
また、虎牢関の戦いでも、董卓軍にいた最強の武将・呂布と対決。張飛・劉備と共に戦い、呂布を退却させました。
200年
官渡の戦い
新興勢力 曹操と名門 袁紹の直接対決です。関羽は曹操軍の将軍として、官渡の戦いの前哨戦に参加しています。白馬の戦いで袁紹軍の猛将・顔良を討ち取り、延津の戦いでは文醜を一撃で倒します。袁紹軍の双璧ともいえる大将を討ち取った関羽は、曹操軍の勝利に大いに貢献したのです。こののち曹操軍を離脱、劉備との再会を果たします。
207年
三顧の礼
「臥竜」と呼ばれた諸葛亮が劉備の軍師となります。ただ、関羽と張飛は、諸葛亮が配下に加わることには反対だったそう。
208年
赤壁の戦い 関羽、曹操を見逃す
三国志最大の決戦・赤壁の戦いで、曹操は、周瑜を中心とした呉軍に大敗を喫します。敗走した曹操は、華容道で追撃に来た関羽と遭遇してします。曹操が命乞いをすると、かつての恩義が忘れられなかった関羽は曹操を見逃してしまいます。激怒する(ふりをした)諸葛亮を劉備がなだめ、関羽は許されます。
208年
劉備、荊州攻略
赤壁の戦いの後、蜀軍は荊州の攻略に着手します。関羽は長沙の攻略に向かい、老将黄忠と激しい一騎打ちを繰り広げました。
219年
劉備、漢中王に即位
荊州、益州(蜀)を攻略した劉備は、曹操との総力戦に勝利し、漢中を手に入れます。劉備は、諸葛亮に説得されて漢中王に即位しました。関羽も五虎大将の称号を得ています。
219年
関羽、死す
荊州をめぐる戦いで、魏と密約を結んでいた呉軍に攻められ、関羽は捕らえられます。
降伏を拒否した関羽は、そのまま処刑されてしまいました。その首は曹操のもとへ送られました。

関羽の具体年表

184年「出生から「桃園の誓い」まで」

関羽の出身地・河東郡は今の中国・山西省

いかにして、三兄弟は出会ったのか ~黄巾の乱~

関羽の正確な生年は分かっていません。ただ、『関候祖墓碑記』には、160年生まれと記録があります。義兄の劉備は161年生まれですから、実際は関羽の方が年上だったのかもしれません。

関羽は河東郡の出身でしたが、郷里で乱暴な役人を殺して、流浪の身となります。そこで、黄巾の乱を討伐するための義勇軍に志願するために、幽州の涿県にやってきました。この幽州の涿県のこそが、3人の英雄が出会う場所です。

桃園の誓いの話の前に、黄巾の乱の話をしておきましょう。

時は後漢王朝末期。宦官の悪政によって国は乱れ、民衆も苦しい生活を強いられていました。

黄巾の乱

すると、張角が率いる宗教団体「太平道」が台頭します。疫病が流行すると、張角はお札や聖水を用いて人々を治療していきます。こうして信徒を増やした張角は、後漢王朝を倒し自ら皇帝になるべく挙兵、「黄巾の乱」が勃発しました。「黄巾」とは、反乱軍が頭を黄色い布で覆って戦っていたことに由来しています。張角に従って蜂起した信者は40万から50万人いたといわれています。

しかし、反乱が広がると、太平道とは全く関係のない者たちが黄巾を名乗り、乱暴狼藉を働くようになります。彼らは、略奪・強姦・殺人、あらゆる犯罪に走り、国の治安を大いに乱しました。

官軍は反乱を鎮圧しようとしますが、膨大な人数の反乱軍の勢いは強く、なかなか鎮圧できません。そこで、各地に立札が立てられ、黄巾賊を討伐する義勇軍を募集したのです。

桃園の誓い

桃園の誓い

西暦184年、黄巾軍を討伐する義勇軍を募るために、幽州・涿県にも立札が置かれました。その立札を見て、深いため息をついた男が劉備(字:玄徳)でした。

漢王室の血を引きながら、乱れる国のために何もできない自分を嘆いていたのです。当時、劉備はとても貧しく、ワラジやムシロを売って暮らしていました。

そんな劉備に「大の男がため息なんかついてどうした?」と声をかけたのが張飛です。張飛は、豚肉を売って暮らす商人でしたが武勇にも優れた男でした。自らの財産を使って義勇軍に名乗りをあげようと、立札を見ていたのです。

劉備は張飛に「私は弱い民を救うために黄巾の賊を倒したい。しかし、貧しい自分にはどうすることもできないのだ」と語りかけます。劉備の志に感じ入った張飛は「お前なかなかやるじゃないか…!それなら、俺の財産を使って一旗上げようじゃないか!」と意気投合。

近くの飲み屋で酒を飲み始めると、店の前を身長2m越え、髭の長さは50㎝にも達しようかという大男がいました。その男こそが関羽です。関羽は義勇軍に参加しようとしていたこともあり、劉備・張飛は意気投合。3人で語り合いながら酒を酌み交わしたのでした。

翌朝、張飛の裏庭に3人は集まります。満開の花の下で、「漢王朝のために忠義を尽くし、死ぬときは同じ時に死のう!」と、3人は義兄弟の契りを神々に誓います。兄弟の順番を決め、長兄が劉備、次兄が関羽、三弟が張飛となりました。これが、「桃園の誓い」です。

正史にはこの『桃園の誓い』の話はなく、三国志演義の創作といわれます。しかし、『蜀志』張飛伝には、張飛は年長者の関羽を兄のように慕ったと記されてたり、劉備は関羽と張飛を兄弟のようにかわいがっていたとも言われています。

いずれにせよ、劉備・関羽・張飛は固いきずなで結ばれ、乱世を戦っていたことは間違いなさそうですね。

200年「関羽千里行」

曹操の暗殺計画に関わっていた劉備

関羽、曹操の軍門に下る

劉備の右腕として目覚ましい活躍を見せていた関羽。しかし、宿敵である曹操の下で戦ったことがありました。

時は、西暦200年。曹操は献帝を支配し、政治の実権を握っていました。しかし、車騎将軍の董承を中心に、曹操を暗殺する計画が持ち上がります。計画を受けて、献帝はひそかに曹操暗殺の詔を出しました。しかし、董承の奴隷の密告によって、曹操の暗殺計画が失敗、董承を始めとする関係者は粛清されました。

さらに、計画に加わっていた劉備は曹操の逆鱗に触れます。追討に来た曹操軍に劉備軍は大敗、三兄弟は散り散りになってしまいます。下邳城を守っていた関羽も曹操軍に包囲されます。圧倒的な兵力の差で、戦っても勝ち目はありません。関羽、絶体絶命・・・。

しかし、曹操には関羽を殺すつもりはありません。汜水関の戦い以来、曹操は関羽の武勇・人徳をたいそう気に入っていました。「殺すのは惜しい、自分の家臣にしたい」と考えた曹操は、関羽に投降を勧めます。

ところが関羽は、投降をかたくなに拒否します。困った曹操は、曹操軍の将軍で友人でもあった張遼を使者として送り込みます。曹操の参謀・程昱(ていいく)から助言を受けていた張遼は、関羽にこう諭します。

「関羽、お前の気持ちもよくわかる。でも、ここでお前が死んだら桃園の誓いはどうなる?同じ時に死ぬと誓ったのだろう?もし、お前が死んで劉備殿が生きていたら誓いを破ることになるだろう。」

「それに、下邳城に残された劉備殿の妻子はどうなる?お前が生きているうちは、無事でいられるだろうが、死んだあとはどうする?命の保証はないぞ。貞操も奪われるかもしれん」

「ここはつらいだろうが、丞相(曹操)の下で働いて、劉備殿の消息をつかめばよいのではないか?何も今死ぬことはないだろう?」 (なお、劉備は曹操との戦いの後、袁紹の下に落ち延びています。しかし、関羽はそのことを知らず、行方を案じています(曹操や程昱をはじめ参謀たちは、劉備の行方に気づいていたかもしれませんね)

張遼の説得に心を動かされた関羽は、3つの条件を受け入れるなら降伏すると申し出ます。

  1. 自分は曹操にではなく、漢の皇帝に降伏すること
  2. 劉備の妻子を罪人扱いせず、手厚く守ること
  3. 劉備の消息がつかめたら、すぐに劉備の下へ戻ること

曹操は3の条件には難色を示しますが、まずは関羽を自軍に取り込むことが先決と考え、すべての条件に同意しました。

こうして、関羽は曹操の軍門に下ることになったのです。

劉備の消息が判明!しかし・・・

関羽に劉備の居場所を伝えた孫乾

曹操の軍門に下った関羽。前述の通り、曹操軍の助っ人として白馬・延津の戦いで大活躍します。

その後、関羽は孫乾(そんけん)と再会し、劉備が袁紹の下に身を寄せていることを知りました。劉備の消息をつかんだ関羽は、曹操の下を離れること決意します。

別れの挨拶をするために曹操の下を訪れましたが、曹操は避客牌(ひかくはい)を立て、決して会おうとしませんでした。これは、関羽を少しでも引き留めておきたいと思った曹操の悪あがきだったのです。

実は、関羽をどうしても自分の臣下にしたい曹操は、彼をこれ以上ないほど手厚く遇していました。連日、絹織物などの豪華な贈り物を与え、さらに官位まで与えて、名誉を保持させます。ちなみに、彼の愛馬「赤兎馬」も曹操から贈られたものでした。このような待遇に、関羽も大変感謝したそうですね。ただ、関羽はこれらの贈り物には一切手を付けず、曹操に全て返却したそうです(唯一、赤兎馬は持ち帰ったそうです)。

曹操に別れの挨拶ができなかった関羽は、曹操へ手紙をしたため、許都を後にしました。曹操の家臣たちは、関羽を追いかけるように進言します。なぜなら、関羽が合流しようとしている劉備は、袁紹の下にいます。曹操のライバルである袁紹の下に、関羽まで加われば、曹操軍にとっては非常に厄介です。しかし、曹操は関羽の忠義心に感じ入り、ただ見送ることにしたのです。乱世の奸雄・曹操のふるまいとは思えませんね。関羽が非凡な将軍であったことの証左ともいえるでしょう。

袁紹

こうして、曹操の下を離れた関羽。しかし、試練は続きます。

大急ぎで曹操の下を離れた関羽は、関所の通行手形を持っていませんでした。手形がなければ、関所を通ることはできません。天敵・袁紹の河北を目指すとなればなおさらです。

ここから関羽は、五つの関所を強硬突破していくのです。

①東嶺関(とうれいかん)
通行を止めようとした孔秀(こうしゅう)を斬って、先へ進みます。

②洛陽(らくよう)
攻撃をうけて矢傷を負いますが、韓福(かんふく)を斬り、通行。

③沂水関(きすいかん)
伏兵に気づいた関羽は、関所を守っていた卞喜(べんき)を斬り捨てて、通行します。

④滎陽(けいよう)
宿泊中に火攻めに遭いそうになるも間一髪で回避。王植(おうしょく)を切り捨てて突破に成功。

⑤黄河(こうが)
夏侯惇の部下だった秦琪(しんき)を斬って通行。

こうして、5つの関所を破った関羽。しかし、夏侯惇が最後に立ちはだかります。曹操軍きっての猛将で、曹操からの信頼も大変に厚かった男です。夏侯惇は、関所を強引に破った上に、将軍を次々と斬り捨てた関羽のふるまいに激怒、曹操に無断で戦いを挑みます。関羽もこれに応戦しました。

すると、張遼が曹操の手紙を携えて、戦いを止めに入ります。曹操は、関羽が関所を突破するのに苦労していると知って、彼を無事に通行させるために張遼を派遣したのです。夏侯惇も渋々矛を収めました。

こうして、曹操の下を離れた関羽は、まずは張飛と再会。そののち、袁紹の下を脱出した劉備とも再会したのです。

実は、「関羽千里行」(かんうせんりこう)のエピソードは、正史にはありません。関羽の忠義を誇張するための創作とされています。しかし、離れ離れになった義兄弟が互いに違う君主の下に身を寄せ、再会すると再び同志として勢力拡大に動いたことは間違いなさそうですね。
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219年「関羽、死す」

劉備VS孫権 荊州領土問題

関羽の死には、「荊州」をめぐる劉備と孫権の対立が深く関係しています。

まずは、208年の赤壁の戦いまで遡ってみましょう。

劉備と同盟を結んだ孫権は、長江・赤壁にて曹操軍を壊滅させます。曹操は劉備軍の追撃を受けながら、命からがら敗走しました。

赤壁の戦いに勝利した孫権は、周瑜に荊州の攻略を命じます。これを受けて周瑜は、荊州の要所・南郡(江陵)に攻撃を開始しました。曹操軍の猛将である曹仁と徐晃に苦戦を強いられましたが、1年がかりで何とか南郡攻略に成功しました。

しかし、この攻防の隙をついて、劉備は荊州に進出し、零陵・桂陽・武陵・長沙を次々と落としていきました。関羽も、長沙の戦いで太守韓玄の武将・黄忠と対戦しています。

さらに劉備は、零陵・桂陽・武陵・長沙の領地だけでは流民や曹操の敗残兵を養えないという理由で、南郡の割譲を要求しました。苦労して南郡を制圧した周瑜は大反対しますが、周瑜がまもなく病気で亡くなってしまいます。すると、呉の方針が変わり、劉備は南郡を手に入れることに成功しました。周瑜の跡を継いだ魯粛は、曹操の領土に近い南郡に劉備を置くことで、呉の盾として利用しようと考えたのです。

しかし、劉備はその「盾」の役割を果たすことなく、関羽に荊州の留守を任せます。214年に自ら軍を率いて益州(蜀)を制圧、大幅な勢力拡大に成功しました。呉からすれば、劉備にしてやられたのです。

孫権

215年に、孫権は諸葛均を派遣し、領土を拡大したのだから荊州を返還するように要求しましたが、劉備はこれを拒否。これ以降、荊州をめぐって劉備と孫権は緊張関係に陥ってしまいます。

結局、全面的な武力衝突を避けるために、関羽と魯粛が話し合いをすることになりました。劉備と孫権の全面対決になれば、曹操に隙をつかれかねないからです。これが、三国志演義でも有名な「単刀会」です。会談は成功し、江夏・長沙・桂陽は孫権が、南郡・武陵・零陵を劉備が領有することで話がまとまりました。これで、荊州の問題はひとまず落ち着いたのですが・・・。

呉と魏の内通、味方の裏切り、関羽の死…

219年、劉備との総力戦に敗れた曹操は、漢中を放棄。長安へと撤退します。漢中を手に入れた劉備は、漢中王に即位します。関羽も五虎大将の一人となりました。

しかし、これを機に魏・呉・蜀の三国関係が急激に変化していきます。

三国の勢力圏図

まず、曹操は漢中を奪還すべく孫権と接近します。孫権に、関羽が守る荊州・江陵(南郡)を攻めるように要請したのです。劉備が応戦しようと荊州に向かう隙に、漢中に軍を進めて挟み撃ちにしようという作戦です。

この申し出に孫権は同意します。しかし、荊州を全面的に奪還したいと考えた孫権は、樊城を守備する曹仁も荊州攻略に加わるように願い出ます。逆に、曹仁と関羽が戦う間に荊州に攻め込もうとしたのでした。

すると、江陵を拠点に荊州を守っていた関羽は、曹操軍の曹仁が守る樊城を攻撃します。曹操・孫権の先手を打ったのです。戦いは優勢に進み、曹操軍の武将・于禁を降伏させ、龐徳を処刑します。

敗北を知ると、曹操は呉に江陵を攻撃するように要請します。荊州をめぐって関羽と対立していた呉は、この要請を受諾。孫権は、江陵にむけて大都督・呂蒙率いる大軍を派遣します。すると、関羽が出陣している間に江陵の留守を守っていた糜芳(びぼう)が、呉に寝返り降伏してしまいました。関羽の部下にあたる糜芳ですが、関羽の傲慢な態度に嫌気がさしていたといいます。公安を守っていた傅士仁(ふしじん)も呂蒙に降伏し、荊州は呉の手に落ちました。

荊州の拠点を失った関羽は、樊城と襄陽の包囲を解き、撤退を始めます。孫権軍は更なる追撃を加え、兵糧も奪い、関羽軍を消耗させます。関羽は蜀(益州)を目指しますが、決石(けっせき)の地で、遂に捕らえられてしまいます。関羽は降伏を拒否、処刑されました。その首は曹操の下へ送られました。孫権が義弟・関羽を殺された劉備の怒りを買うことを恐れたからです。曹操は関羽の首を手厚く葬ったといいます。

洛陽にある関林廟

豪傑の死にしては、あっけないようにも思えます。しかし、蜀をしのぐ国力をもつ魏と呉が手を組んでようやく関羽を倒すことができたわけです。さらに、裏切りがなかったら、援軍が来ていたら、という「もしも」を考えると、様々な要因が重なってやっと関羽の死につながったといえるでしょう。

ただ、味方の裏切りは関羽の傲慢さが招いたとも言えます。呉の大都督・魯粛曰く「人を見下す者は自分も下す」、この言葉通りの結末になってしまいましたね。

関羽 の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

三国志

三国志の現代版古典ともいえる横山光輝先生のマンガです。劉備を主人公に英雄たちの人間ドラマが描かれています。大人にも子供にもおすすめの一冊です。

関羽伝

三国志演義をベースに、関羽にフォーカスした伝記です。関羽ゆかりの地を訪問したり、関羽から数えて62代目の子孫に会ったりもしています。歴史のルポが好きな人にもおすすめの本です。

三国志の英雄「関羽」をよく知れるおすすめ書籍・本6選

おすすめ映画

三国志英傑伝 関羽

関羽にフォーカスした映画として、こちらをご紹介しましょう。2011年に中国で製作された映画です。

曹操の軍門に下ってからの活躍、関羽千里行のエピソードを描いています。宿敵であるはずの曹操と関羽の交流にもフォーカスしていますね。アクションシーンも多いので三国志を初めて知る人にもおすすめです。

おすすめドラマ

三国志 Three Kingdoms

2010年に中国で製作された歴史ドラマです。

魏と蜀に物語の重点が置かれ、濃厚な人間ドラマが展開されます。関羽ももちろん登場します。人間離れした強さと義理堅い人格を併せ持っていますが、致命傷となってしまう傲慢さも描かれています。

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関羽についてのまとめ

三国志の豪傑・関羽。華やかな伝説に彩られた人物ですが、彼の功罪それぞれに目を向けると、新しい関羽像が見えてくると思います。

皆様自身が関羽のプロファイリングを進めてみると、蜀漢へのより深い理解、さらには三国時代の新たな見方ができるかもしれませんよ。

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