畠山重忠はどんな人?生涯・年表まとめ【功績やエピソードも紹介】

「畠山重忠ってどんな人物?」
「馬を背負って崖を降りたって本当?」
「畠山重忠の乱ってどんな出来事?」

この記事をご覧の皆さんはそのような疑問を持っているかもしれません。畠山重忠は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士で、その清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と評されました。

重忠は源頼朝がおこなった数々の戦いで先陣の名誉を賜ります。彼は頼朝の期待に背かず、宇治川の戦いや奥州合戦などで武勲を上げました。また、源義経とともに戦った一の谷の戦いでは愛馬の脚を慮り馬を背負って崖を駆け下りたという伝説を持ちます。

大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』では俳優の中川大志が演じる畠山重忠。彼がどのような人物だったかについて深く掘り下げます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

畠山重忠とはどんな人物か

名前畠山重忠(幼名は氏王丸)
誕生日不明(生年は1164年)
没日1205年7月10日
生地武蔵国男衾郡畠山郷
没地神奈川県横浜市旭区
配偶者北条時政の娘、足立遠元の娘
埋葬場所埼玉県深谷市畠山(畠山重忠記念公園)

畠山重忠の生涯をハイライト

畠山重忠の居館である菅谷館の跡

畠山重忠は武蔵国男衾郡畠山郷に生まれました。現在の埼玉県深谷市にあたります。重忠の父である畠山重能は平治の乱までは源義朝に仕え、その後は平氏の家人となりました。父の重能が京都で番役(京都を警備する軍役)についている間、所領を管理していたのは重忠でした。

源頼朝

1180年、以仁王の令旨が関東にもたらされると源義朝の子で、伊豆に追放されていた源頼朝が挙兵。関東各地の武士を味方にしようとしました。はじめ、畠山氏は平氏の家人として行動し頼朝と敵対します。しかし、重忠は勢力を拡大した頼朝に降伏。以後、頼朝の御家人として働きます。

平氏を都落ちさせた源義仲(木曽義仲)と朝廷の最高権力者である後白河法皇の関係が悪化すると、法皇は源頼朝に義仲討伐を命じました。頼朝は弟の範頼と義経に義仲討伐を命令。重忠も討伐軍の一員として参戦します。

宇治川の戦い

重忠は宇治川の戦いで先陣を切って敵陣に突入し武功をあげます。ついで平氏と戦った一の谷の戦いでは馬を背負って断崖を駆け降りるという離れ業を演じ、敵味方を驚かせました。こうして、重忠は幕府創設の重要な戦いで活躍し、頼朝から高い評価を受けます。

しかし、1199年に頼朝が急死すると重忠の立場は微妙なものとなります。重忠は頼朝の妻政子の父である北条時政と連携し幕府を支えようとしました。しかし、重忠の息子が時政の後妻(牧の方)の娘婿と争いとなります。それがきっかけで重忠は北条氏と戦うことになってしまいました。結局、この戦い(畠山重忠の乱)で敗北し重忠は亡くなりました。

畠山重忠の家紋とは?

重忠の死後に用いた「足利二つ引」

畠山氏にはよく知られた二つの家紋があります。一つは鎌倉時代以前から用いられていた「小紋村濃」。もう一つは室町時代に用いられた「足利二つ引」です。そもそも、畠山氏は源氏の棟梁から与えられた白旗を用いていました。

しかし、これでは頼朝の旗と同じになってしまいます。頼朝の部下になった重忠は白旗を頼朝に献上し、代わりに「小紋村濃」の旗を用いたようです。なお、室町時代に足利氏の家紋である「足利二つ引」を用いたのは、重忠の死後、畠山氏の名跡を足利一族が継いだからでした。

畠山重忠の性格とは?

畠山重忠について多くの記録を残している『吾妻鏡』

畠山重忠は清廉潔白な人柄として知られています。私利私欲が少なく、常に公正無私な態度で周囲に接していたため、後世から「坂東武士の鑑」とたたえられました。また、とてもまじめな人物だったと伝えられています。

1200年2月、将軍頼家は御家人の波多野盛通に同じく御家人の勝木則宗を捕らえるよう命じます。盛通は侍所に出仕してきた則宗を捕らえようとしました。ところが、怪力の則宗は追っ手を振り払って逃げようとします。追い詰められた則宗は抜刀して盛通に切りかかりました。このとき、たまたま侍所に出仕していた重忠は暴れる則宗の腕をへし折ってしまいます。

侍所長官の和田義盛

腕を折られた則宗は取り押さえられ侍所長官の和田義盛に引き渡されます。その後、盛通が則宗を捕らえた恩賞をもらおうとした時、御家人の一人が取り押さえたのは畠山重忠の功績だと訴えました。すると、重忠は自分はあくまで秩序を守ろうとしただけで恩賞は不要だと辞退します。

数多くの功績を持つ重忠にとって、この程度のことは恩賞をもらうほどの事ではなかったのかもしれません。しかし、私利私欲をこととしない重忠のふるまいに周囲は感心したことでしょう。

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