畠山重忠の乱とは?
畠山重忠の乱とは、北条時政の策略により重忠が討ち取られてしまった事件のことです。
乱のきっかけとなったのは重忠の息子の重保と平賀朝雅(北条時政の後妻牧の方の娘婿)が酒席で争ったことでした。この一件を根に持った牧の方が時政に重忠・重保父子が謀反を働いているとして彼らの粛清を働きかけます。
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時政は息子の北条義時らにこのことを謀りました。義時は重忠父子が謀反を起こすはずがないと反対しますが、時政によって押し切られてしまいます。
1205年6月22日、時政は非常事態が発生したとして鎌倉に御家人たちを招集しました。鎌倉にいてこの招集に応じた重保は時政の命を受けた三浦義村によって殺害されます。そして、時政は義時に兵を預け重忠討伐に向わせました。
一方、所領にいた重忠は130騎ほどを連れ鎌倉に向かっている途中でした。重忠は道中の二俣川で重保が殺害されたことや自分が謀反人とされ北条義時率いる討伐軍が向かっていることを知ります。圧倒的大軍を前に、重忠は所領に引き上げることをせず、義時軍に突撃。激しい戦いの末、討ち取られました。
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畠山重忠の子孫はどうなった?
畠山重忠の子孫は、畠山重忠の乱によって滅亡しました。重忠が持っていた所領の大半は重忠討伐に功績があった武士たちに分けられます。直系の子孫が絶えたことにより、平姓畠山氏の血筋は途絶えてしまいます。
残された重忠の妻(北条時政の娘)は粛清されることなく、所領の一部を相続しました。そして、畠山の家名は重忠の妻と結婚した足利義純によって引き継がれます。足利義純以後の畠山氏は、それ以前と区別するため源姓畠山氏とよばれます。室町時代に慣例となる畠山氏はこちらの子孫なので、畠山重忠と血がつながっていません。
畠山重忠の功績
功績1「鎌倉幕府開幕に貢献」
畠山重忠は頼朝に従って御家人となって以来、数々の戦いで武勲を上げて鎌倉幕府の開幕に貢献しました。1184年の宇治川の戦いでは増水する宇治川を馬筏で乗り込みます。馬筏とは、馬を一列に並べ川の流れを緩め、馬の壁を頼りに渡河する方法です。渡河した重忠は源義仲軍を相手に奮戦し武功を上げます。
1189年の奥州合戦では頼朝から先陣を命じられ、阿津賀志山の戦いなどでの勝利に貢献しました。その後の戦後処理でも敵方に配慮した取り調べで相手から称賛されます。公正無私な鎌倉武士の理想を地で行くような重忠の行動は幕府に対する人々の信頼感を高めたことでしょう。
功績2「梶原景時を滅ぼす」
重忠は梶原景時討伐でも功績を上げました。梶原景時は重忠と同じく、源頼朝に仕えた御家人です。武士にしては珍しく、教養があり和歌などの才能が有りました。そのため、こうした教養が必要な外交などで活躍し頼朝の信任を得ます。
頼朝が急死し、長男の頼家に政治能力がないことが判明すると、頼家の独裁権が否定され北条時政や畠山重忠、梶原景時など主だった御家人13人による合議政治がはじまります。しかし、その御家人たちの間で争いが勃発します。
1199年、御家人の一人である結城朝光は梶原景時の讒言により謀反の疑いをかけられます。このとき、結城朝光を擁護する御家人たち66人が梶原景時弾劾の訴状を提出しました。この66人の一人として畠山重忠も名を連ねます。
重忠は頼朝存命時代から「調子に乗っていた」景時が幕府の結束を乱すと判断したのかもしれません。結局、景時は幕府を追放され京都に向かう途中で殺害されます。
畠山重忠の名言
「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」
この言葉は、重忠が討ち取られた二俣川の戦いで重忠が発した言葉。重忠は弓の名手である愛甲三郎季隆にいられて負傷しました。その矢を引き抜き、地面に突き立てて発した言葉とされます。重忠は愛甲三郎季隆に討ち取られますが、矢は彼の言葉通り毎年増え続けました。これを「さかさ矢竹」といいます。
「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」
1187年、配下の代官が狼藉を働いたことが罪とされ、重忠は囚人として千葉胤正に預けられました。これを恥じた重忠は絶食してしまいます。彼の武勇を惜しんだ頼朝は重忠を釈放しました。重忠が所領に戻ると、梶原景時が重忠が所領で謀反を企てていると頼朝に訴えました。
はじめ、このことを知った重忠は自害しようとしました。しかし、頼朝の使者である下河辺行平に説得され鎌倉に赴きます。そこで梶原景時が重忠を取り調べました。そして、彼に無実であるなら起請文を出せと迫りました。そのとき、重忠が言ったのがこの言葉です。この言い分を聞いて、頼朝は起請文を出させず、かえって重忠に褒美を与えた所領に帰らせました。
畠山重忠にまつわる逸話
逸話1:「馬を背負ったって本当?」
畠山重忠は一の谷の戦いで、馬を背負って崖を駆け降りました。なぜ、そのようなことが起きたのでしょう?。事の発端は源義経が平氏の陣地を攻めるため、陣地の裏手にある崖(鵯越)を馬で駆け降りるよう命じたことでした。
命令を受けた重忠は愛馬である三日月の脚を痛めてはならないと考え、自分が馬を背負って崖を駆け下りました。平氏の軍勢は駆け下ってきた義経軍にも驚いたでしょうが、馬を背負った重忠を見てより驚いたのではないでしょうか。このことの信ぴょう性はさておき、重忠の怪力が伝わるエピソードですね。
逸話2:「巴御前と一騎打ちをした」
畠山重忠は宇治川の戦いで巴御前と一騎打ちを演じました。このことが書かれているのは『源平盛衰記』という軍記物語。巴御前は源義仲が信濃から連れてきた女性で、義仲の愛妾です。彼女は大力で強弓を引くことができる女武者でもありました。
畠山重忠と巴御前は三条河原で一騎打ちをします。巴御前以上の怪力だった重忠は、彼女の鎧の袖を引きちぎります。力比べで対抗できないと感じた巴御前は、重忠を振り切って逃げ去りました。とはいえ、巴御前は決して弱かったわけではありません。宇治川の戦い後、敗走する義仲軍が数を減らす中、最後の最後まで義仲に付き従いました。それだけの武勇の持ち主だったことがわかりますね。