畠山重忠はどんな人?生涯・年表まとめ【功績やエピソードも紹介】

畠山重忠の生涯年表

1164年 – 0歳「武蔵国で誕生」

重忠が生まれたとされる菅谷館(畠山館)の跡

重忠は武蔵国男衾郡の畠山郷に生まれました。父は畠山重能、母は相模の名族三浦氏の出身です。重忠は幼名を氏王丸といいます。彼が生まれた畠山氏は武蔵国で強い力をもった秩父氏に属する一族で、武蔵国に根を張っていました。

彼が生まれたのは畠山郷にあった菅谷館です。現在、重忠時代の遺構は見つかっていませんが、菅谷館があったと推定される場所には戦国時代に城郭が築かれ、国史跡「菅谷館跡」として整備されています。

1180年 – 17歳「挙兵した頼朝に味方」

以仁王の令旨を受け取った源頼朝は反平氏の兵をあげます。平氏は現地の豪族たちに頼朝討伐を命じました。最初、父が平氏の家人だった関係で重忠と頼朝は敵味方となって戦います。のちに、頼朝が勢力を増すと、重忠は頼朝に従い彼の御家人となりました。

鎌倉幕府から厚い尊崇を受けた鶴岡八幡宮

頼朝に従った重忠は先陣を命じられ、房総半島から相模(神奈川県)に進軍します。頼朝軍の行く手を遮るものはほとんどなく、重忠は難なく鎌倉に入ることができました。その後、重忠は頼朝の鎌倉建設に建設に協力。頼朝が鶴岡八幡宮に参詣する際の警護を行いました。

1184年 – 21歳「源義仲や平氏の討伐に参加」

畠山重忠とともに戦った源義経

1183年、頼朝は後白河法皇の要請に応じ、源範頼や源義経に6万騎の兵力を預け上洛させました。目的は京都を占領する源義仲と西国に落ち延びた平氏の討伐です。畠山重忠もこの討伐軍の一員として西に向かいました。

重忠は宇治川の戦いで源義仲軍に勝利すると、指揮官である源義経と共に京都に入りました。義経が源義仲討伐の成功を後白河法皇に報告する際、ともに後白河法皇に拝謁し名乗りを上げています。さらに、義経が一の谷で平氏と戦ったときにも共に行動し類まれな武勇を見せつけました。

1189年 – 26歳「奥州合戦で先陣となる」

1183年段階の勢力図(黄色が奥州藤原氏)

平氏討伐で活躍した義経は頼朝の許可なく後白河法皇から官位をもらいました。このことで、頼朝と義経の関係が悪化。頼朝に追っ手を差し向けられた義経は奥州に逃れます。頼朝は義経をかくまったとして奥州藤原氏を攻撃します。これが奥州合戦です。

この戦いでも重忠は先陣を命じられました。戦いに先立ち、重忠は従者たちに鋤や鍬をもたせ敵の防衛陣地の堀を埋めさせました。また、他の御家人が抜け駆けしようとしたときは無理に止めず、かえってその勢いを戦いに利用します。源平合戦を経て重忠は指揮官としても成長していたことがわかりますね。

1190年 – 27歳「頼朝上洛時の先陣を命じられる」

朝廷の最高権力者だった後白河法皇

1190年、源頼朝は後白河法皇と会談するため上洛します。御家人たちは誰が先陣を命じられるのかと注目していましたが、畠山重忠が先陣の名誉を受けることになりました。重忠は宇治川の戦いや奥州合戦に続き先陣を命じられることとなり、頼朝の信任が厚かったことがわかります。

上洛した頼朝は後白河法皇とたびたび会談。右近衛大将に任命されました。これにより、頼朝率いる鎌倉幕府は朝廷に公認された存在となります。右近衛大将の就任に際し、頼朝は7人の御家人をお供に選びましたが、もちろん、畠山重忠もその一人として就任式に参列しました。誰の目から見ても、重忠は鎌倉幕府の中心人物の一人と目されたことでしょう。

1205年 – 42歳「畠山重忠の乱で敗死」

頼朝の信任厚く、押しも押されぬ鎌倉幕府の重臣だった畠山重忠。しかし、頼朝が急死すると彼の立場は微妙なものとなります。頼朝の死後、2代将軍となった源頼家はまだ若く、頼朝のような政治的な力を持ち合わせていませんでした。そのため、頼家の独裁は停止され重忠を含む13に人の御家人たちによる合議政治が始まります。

1204年、重忠の子の重保と時政の後妻、牧の方の娘婿である平賀朝雅が酒宴の席で争いとなりました。これに腹を立てた平賀朝雅が牧の方に訴えます。牧の方は時政に重忠・重保父子を訴えました。時政としては武蔵国に強い勢力を持つ畠山重忠を排除することは北条氏の権力拡大につながります。

二俣川の戦いの古戦場であったことを示す標識

そこで、重保を鎌倉で謀殺したのち、義時に大軍を与え重忠を攻めさせました。一方、重忠は鎌倉での変事を聞いて急いで駆けつける途中でした。両者は武蔵国二俣川(横浜市旭区保土ヶ谷区)で遭遇。圧倒的兵力差の前に畠山重忠は敗れ去りました。

畠山重忠の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

中世武士 畠山重忠: 秩父平氏の嫡流

実直で、分け隔てなく人に接したとされる畠山重忠。彼の評判がどのようにして成立したかを解き明かす一冊です。幕府の歴史書である『吾妻鏡』や軍記物語『平家物語』などの文献資料だけではなく、考古学資料などももちいて、畠山重忠がどんな人物かを探る本です。重忠のことを深く知りたいと考えている方にオススメです。

雄鷹たちの日々 畠山重忠と東国もののふ群伝

畠山重忠を主人公とした歴史小説。17歳の若き武士、畠山重忠がいかにして源平争乱の時代を駆け抜けたかを描く物語です。戦国時代モノや幕末モノに比べ余スポットが当たっていなかった鎌倉時代初期の空気感を体感できる作品で、とても面白く読めました。

畠山重忠についてのまとめ

いかがでしたか?

畠山重忠は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士です。その率直な生き方や武士として筋を通すあり方、数多くの武勲などから「理想の武士」として称えられた人物です。

彼にとって、頼朝と共に鎌倉幕府創建に力を尽くし、数多くの戦いで先陣を務めていた時期がもっとも輝かしい時期だったのではないでしょうか。最後は心ならずも権力闘争に巻き込まれ、まだまだ働き盛りの42歳で亡くなってしまいます。

読者の皆様が、畠山重忠に関し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。

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