梶原景時はどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や家紋、墓所も紹介】

「梶原景時ってどんな人?」
「梶原景時の家紋が知りたい」
「梶原景時と源義経はなぜ対立したの?」

この記事をご覧の皆さんはそのようなことをお考えかもしれません。梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士です。源頼朝に仕えた有力御家人の一人で、頼朝の信任が厚い武士の一人でした。

頼朝の急死後、鎌倉幕府の重鎮として政治を動かしますが、頼朝在世中から景時に反感を抱いていた他の御家人は、署名を集めて梶原景時を失脚させます。地位を失った景時は、京都に向かう途中で反逆者として殺されました。

今回は頼朝の側近であり、源義経との対立で悪役のイメージが強い彼が、いったいどんな人物だったかについてわかりやすくまとめます。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』で脚光を浴びるであろう梶原景時の生涯に迫っていきましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

梶原景時とはどんな人物か

名前梶原景時
誕生日1140年?(誕生日は不明)
没日1200年2月6日
生地相模国鎌倉郡梶原村
(神奈川県鎌倉市梶原)
没地駿河国清見関(静岡市清水区)
配偶者不明
埋葬場所鎌倉市深沢小学校の裏

梶原景時の生涯をハイライト

梶原景時

梶原景時は、1140年ころに現在の鎌倉市の一部となっている梶原村で生まれました。梶原氏はこの周辺を支配した鎌倉氏の一族です。のちにいっしょに頼朝と戦う大庭氏も鎌倉氏の一族ですね。伊豆で頼朝が挙兵した時、京都の平氏政権は大庭氏や梶原氏に頼朝討伐を命じます。景時もそれに従いました。

1180年の石橋山の戦いで景時らは頼朝に勝利しました。しかし、景時は追い詰められた頼朝を見逃し命を救います。その後、頼朝は安房(千葉県南部)に逃れ、房総半島で兵力を再建。頼朝軍が京都から派遣された平維盛軍を富士川の戦いで打ち破ると、梶原景時らは頼朝に降伏しました。

景時が造営に関わった鶴岡八幡宮

東国武士の中では珍しく、とても教養ある人物だった景時は頼朝に側近として重用され、鶴岡八幡宮の造営や頼朝の妻である政子の出産に関わる奉行なども行いました。それと同時に、頼朝の懐刀としても活躍。東国最大の兵力を持つ千葉広常を謀反の疑いで粛清し頼朝の求心力を高めます。

源平合戦において、景時は詳細な報告書を頼朝に提出しました。他の武士の報告書が単に「勝った」戸だけ書いてあるのに比べ、景時の報告書は敵将を討ち取った場所や誰が討ち取ったかなど頼朝が恩賞を与えるうえで必要な情報が掲載されています。これにより頼朝の信任はますます厚くなりました。

景時と対立した源義経

しかし、源義経とはしばしば意見が対立。一の谷の戦いでは源範頼の配下にいた土肥実平と所属を替えるほどでした。

1199年、頼朝が急死すると景時は2代将軍頼家を支える幕府の宿老となります。ところが、景時は反感を持つ他の御家人と対立してしまいました。結局、景時は幕府を追われ京都に行く途中で討ち取られてしまいます。

梶原景時の乱とは?

梶原景時の乱とは、1199年から1200年にかけておきた鎌倉幕府内部の権力闘争です。梶原景時の変ともいいますね。梶原景時は初代将軍源頼朝の信任が厚く、頼朝在世中は重要な仕事を任されていました。頼朝の死後、景時の振る舞いや大きすぎる権力に対し、他の御家人たちからの反感が強まります。

独裁権を停止された2代将軍源頼家

頼朝のあとを継いだ頼家はまだ若く、彼の判断に対し御家人たちの多くが不安を抱きました。そのため、頼家の独裁権は3か月で停止され、有力御家人13人による合議政治が始まります。景時もその一因となりました。

1199年10月25日、景時が御家人結城朝光の発言を問題視し、頼家に讒言したという噂が流れました。これを知った朝光は他の御家人たちと連携し、66人の御家人の書名を集め、景時への糾弾書を幕府に提出しました。

11月、頼家の御前で景時は糾弾されましたがそれについて彼は何も反論せず、一族とともに本拠地に戻ります。翌1200年1月、景時は一族を率いて京都に向かいました。その途中の駿河国清見関で景時は吉川友兼らに討ち取られました。

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梶原景時の家紋とは?

梶原氏の家紋「丸に並び矢」

梶原氏の家紋には、大元である鎌倉氏が使っていた「丸に石畳」の家紋や「丸に並び矢」、「丸に違い鷹羽」、「並び矢」、「矢筈」、「梶葉」など複数のバリエーションがあります。本家筋の家紋を用いるなら「丸に石畳」が梶原氏の家紋となるのでしょう。

しかし、梶原氏をルーツに持つとされる家や後世の伝記などでは「丸に並び矢」や「矢筈」などを用いることが多いようです。明治時代に自由に家紋を使えるようになると、さらに混濁が進んだと考えられます。現状、「丸に石畳」や「丸に並び矢」が梶原氏のメジャーな家紋だといえそうですね。

梶原景時の死因や墓は?

梶原景時の死因は討ち死にです。頼朝死後に御家人たちが提出した糾弾書で幕府を追放された景時は、京都に向かう途中の駿河国清見関(静岡県清水市興津)の周辺(狐崎)で吉川友兼らの襲撃を受けました。追い詰められた景時は付近の山に入りそこで討ち取られたといいます。そのため、梶原一族が討ち取られた地は「梶原山」とよばれるようになりました。

深沢小学校裏手にある梶原景時の墓

反逆者として梶原景時の墓はどこにあるのでしょうか?景時や彼の一族の墓と伝えられるのが鎌倉市梶原にある深沢小学校の裏の五輪塔です。この地は梶原一族が治めていた土地でした。また、景時が創建したとされる東京都大田区南駒込の萬福寺にも景時の墓とされているものがあります。

さらに、神奈川県寒川町の「梶原景時館址」の近くには梶原一族の墓とされるものが残されています。どれが本物か定かではありませんが、今となっては確かめようがないですね。

梶原景時の子孫はいる?

景時と嫡子の景季、次男の景高、三男の景茂をはじめ一族の主だったものは梶原景時の乱で討ち死にしました。梶原氏の家督は景時の弟、朝景が相続します。ところが、朝景は1213年に起きた和田合戦に参戦し討ち死にしてしまいました。

梶原氏の系図

しかし、それで梶原氏が滅亡したわけではなく、その後も景時の子孫は生き延びたようです。三男景茂の子孫は承久の乱で鎌倉幕府側に所属し、幕府に帰参を許されました。その後、北条一門や足利氏に仕えて家名を残し、尾張に所領を持った一族は織田信長に仕えます。

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