梶原景時の功績
功績1「源頼朝の命を救った」
石橋山の戦いで頼朝が大庭景親に敗れた時、梶原景時は敵でありながら頼朝を見逃し、彼の命を救いました。戦いに敗れた頼朝軍は敵に捕捉されないよう、散り散りになって落ち延びます。勝った大庭景親の軍勢は伊豆の山中を徹底的に捜索し頼朝を捕らえようとします。
この時、追っ手に加わっていた景時は頼朝の居場所をつかんでいました。しかし、このことを主将の大庭景親に告げません。そればかりか、この付近には頼朝はいないと報告します。
大庭軍が頼朝が潜んでいた洞窟を探索しようとしたとき、景時は自分が捜索するといって中に入り、頼朝の姿を確認したにもかかわらず「ここにはいない」と報告。景親を決して中に入れませんでした。こうした景時の行動もあって、頼朝は伊豆半島から対岸の安房(千葉県南部)に逃げ延びます。
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功績2「大豪族上総広常を討った」
景時は頼朝の命令に従い、大豪族の千葉広常を討ち取りました。千葉氏は上総国や下総国に所領を持つ大豪族です。平治の乱では頼朝の異母兄である義平に従って戦いました。その後、平氏の追跡を振り切って本拠地に帰国。平氏政権を後ろ盾とする勢力と所領をめぐって争います。
源頼朝が石橋山の戦いで敗れ、房総半島南端の安房に逃れると上総広常は千葉常胤とともに2万の兵を率いて頼朝に加勢。頼朝の東国支配に貢献しました。しかし、広常は京都の情勢に関与することを望まず関東での自立を求めました。そのため、平氏政権打倒を視野に入れる頼朝の考えと関東自立を目指す広常の考えにずれが生まれます。
このようなときに、頼朝は上総広常が謀反を企んでいるとの情報を耳にしました。関東で大軍勢を動かすことができる広常の謀反は頼朝にとって一大事。先手を打って景時に広常誅殺を命じます。そこで、景時は広常と双六遊びをしているときにいきなり切り付け、討ち取ってしまいました。
梶原景時にまつわる逸話
逸話1「源義経と対立し、悪役として描かれた」
文学作品で梶原景時は悪役として描かれることが多いです。その理由は彼が源義経と対立したからでした。1185年の屋島の戦い前の軍議で、景時は船の先端にも櫓をつけ、いざとなった時に退却しやすくることを提案しました。すると義経は戦う前から退却することを考えるべきではないとして景時の提案を退けます。
そして、義経は暴風雨の中、わずか5隻(150騎)で屋島の平氏陣地を奇襲攻撃します。景時率いる本隊140隻が到着した時には屋島の平氏は逃げ去った後でした。壇の浦の戦いでも先陣を希望する景時を退け、義経が先陣を切ってしまいます。
源平合戦後、兄頼朝と対立し悲運のうちにこの世を去った義経は「判官びいき」で持ち上げられるようになりました。その一方、義経と対立した景時は時代劇や歌舞伎、小説などで悪役として描かれます。とはいえ、近年は研究が進んだことなどにより景時の評価は改善しつつありますね。
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逸話2「梶原の”二度懸け”で息子を救った」
1184年の一の谷の戦いで、景時は敵に包囲された息子を救出しました。一の谷の戦いで、景時や息子の景季は源範頼率いる源氏の主力軍に属します。戦いが始まると、景時や景季は敵陣に突入し武勲を上げます。景時は頃合いを見て引き上げました。
しかし、景季の姿が見えません。どうやらてきじんから戻ってきていないようです。これに気づいた景時は再び敵陣に突撃。的中で孤立し討ち取られそうになっていた景季を救出し自陣に戻りました。二度にわたる勇敢な突撃で息子を救った景時の突撃は「梶原の”二度懸け”」とよばれ敵味方から称賛されました。
梶原景時の年表
1140年 – 0歳「梶原景時が生まれた」
梶原景時は鎌倉郡梶原村で生まれました。梶原氏は鎌倉郡で力を持っていた鎌倉氏の一族で平氏の流れをくむ武士です。平治の乱の前まで、梶原氏は源氏に仕えていました。しかし、平治の乱で源氏が没落すると平氏に従います。景時の父景清も平氏に従っていたと考えるべきでしょう。
1180年8月 – 40歳「石橋山の戦い」
1180年、平氏政権と対立した以仁王(後白河法皇の皇子)は全国に平氏追討の令旨を発しました。以仁王の令旨を受け取った源頼朝は監視役の山木兼隆を殺害し挙兵します。平氏政権は関東の武士に頼朝討伐を命じました。景時は大庭景親とともに頼朝討伐軍に加わります。
石橋山でおきた頼朝軍と大庭軍の戦いは大庭軍の勝利に終わり、頼朝は伊豆の山中に逃亡しました。景時は大庭軍の一員として頼朝を捜索。そして、頼朝を発見しますがあえて彼を見逃しました。結局、頼朝は伊豆から房総半島の安房に脱出することができました。
1180年12月 – 41歳「源頼朝に降伏」
房総半島に逃れた頼朝は千葉氏や上総氏、三浦氏などの支援を受け兵力を再編。大軍を編成し関東制圧を目指しました。景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏し、彼の御家人になります。頼朝は景時が武勇だけではなく教養も兼ね備えている点を気に入り側近として重用します。
1185年3月 – 46歳「壇ノ浦の戦い」
1184年、頼朝は後白河法皇の要請により源義仲追討の軍を京都に派遣しました。景時は頼朝の命により追討軍の一員となります。義仲軍との戦いについての景時の報告書は頼朝が知りたい情報をコンパクトにまとめてあり、頼朝は景時をさらに高く評価します。
義仲に対する勝利の余勢をかって源氏軍は平氏が割拠する西国に攻め込みました。景時は源義経軍の一員として参戦しますが、主将の義経と意見が合わずしばしば対立します。このことは壇の浦の戦いなどの報告書の中でも触れられ、景時が義経を讒言したと評される原因となりました。
1200年1月 – 60歳「梶原景時の乱(変)」
源頼朝が1199年に急死すると、頼朝の信任をいいことに強引な行動が目立っていた景時の立場は微妙なものとなりました。それまで、頼朝を憚っていた御家人たちの中に景時に対する反感が急速に高まります。その結果、景時は66人の御家人から弾劾されてしまいました。
2代将軍頼家の御前で弾劾を受けた景時は一切の弁明をせず、一族を連れて本拠地に引き上げます。そして、1200年1月に京都を目指し移動を始めました。その道中、景時一行は駿河国清見関の付近で地元の武士と戦いになり討ち取られます。
梶原景時についてのまとめ
いかがでしたか?
梶原景時は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士です。武勇に優れた武士である一方、高い教養が評価され頼朝の側近として活躍した人物でした。
景時は歴史的に「悪役」と評価されてきました。原因は人気者の源義経との対立です。その意味で、景時は不運な人物だったのではないでしょうか。結局、景時は鎌倉幕府創建に活躍した人物でありながら、最後はその幕府から追放されるという悲運の生涯を遂げました。
読者の皆様が、梶原景時に関し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。