宮崎駿とはどんな人?生涯・年表まとめ【ジブリの代表作品や名言についても紹介】

宮崎駿の年表

1941年 – 0歳「東京府東京市で生まれる」

現在の23区にあたる東京市にあった東京市役所
出典:東京市 – Wikipedia

疎開先で空襲を経験

1941年、宮崎駿は東京府東京市で生まれます。彼は宮崎航空機製作所の役員を務める一家の次男として育ち、幼い頃より空を飛ぶことに憧れを抱いていました。

しかし、彼が生まれた後に始まった太平洋戦争の影響は東京にまで及び、幼少期を宇都宮の疎開地で過ごします。その結果、彼は1945年に起こった宇都宮大空襲を経験することになりました。

その後、無事に生き延びた彼は、小学校4年生の頃に東京へ戻ります。当時、彼は身体が弱く運動が苦手でしたが、この頃から既に絵を描くのは非常に上手かったようです。また、漫画が大好きであり、手塚治虫や杉浦茂の漫画を読み漁っていました。

学生時代にアニメーションに興味を持つ

「ねりまアニメ年表」の1コマにある「白蛇伝」
出典:白蛇伝 (1958年の映画) – Wikipedia

高校に進学した後、彼は東映動画が制作した長編アニメ映画「白蛇伝」に出会います。そして、彼はこの作品をきっかけにアニメーションの制作に興味を持ったのです。

その後、フランスの画家ポール・セザンヌなどが含まれる、19世紀後半のフランスで流行した印象派の芸術に影響を受け、宮崎駿はデッサンを独学で学んでいきます。

そして、高校を卒業した宮崎駿は学習院大学政経学部に進学。この頃、彼は漫画家を目指しており、所属していた児童文化研究会で人形劇の企画などをしながら熱心に漫画を描き続けていました。しかし、最終的にはアニメ業界へ進むことを決意したのです。

1963年 – 22歳「学習院大学政経学部を卒業し、東映動画に入社」

現在、東映動画は東映アニメーションとなっている
出典:東映アニメーション – Wikipedia

テレビアニメ「ルパン三世」で初監督

大学を卒業した後、宮崎駿は東映動画に入社します。この会社において、宮崎駿は早くから才能を発揮していきました。また、この頃に東映動画のアニメーターだった太田朱美と結婚し、埼玉県所沢市へ引っ越しをしています。

その後、Aプロダクションに移籍した宮崎駿は、視聴率が低迷していたテレビアニメ「ルパン三世」の制作に参加しました。この時、名目上は演出での参加となっていましたが、事実上の監督として仕事を受けています。

そして、「ルパン三世」の成功を受けて、宮崎駿は高畑勲らと共に子供向けアニメ映画の「パンダコパンダ」を制作。この作品は、後に宮崎駿の代表作の1つとなる「となりのトトロ」の原型ともいえる作品となりました。

テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が大ヒット

ヨハンナ・シュピリ原作の「アルプスの少女ハイジ」
出典:アルプスの少女ハイジ – Wikipedia

「パンダコパンダ」の制作後、宮崎駿はズイヨー映像に移籍し、テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」の制作に取り掛かりました。そして、1974年にアニメのテレビ放送が始まると、非常に高い平均視聴率を記録する人気アニメとなります。

この作品において、宮崎駿は全カットにおける場面設定・画面構成を担当しました。また、制作前にスタッフがスイスやドイツの調査を行っていたことから、非常に質の高いアニメとなっていたのです。その結果、ヨーロッパで放送された際には現地の人々を驚かせました。

「アルプスの少女ハイジ」の制作後、ズイヨー映像の社長が日本アニメーションを設立し、多くのスタッフも同時に移籍しました。その結果、宮崎駿も日本アニメーションにおいてアニメ制作をしていくことになったのです。

1978年 – 37歳「アニメ制作に尽力」

厳しいスケジュールの中でアニメや映画の制作に尽力した

テレビアニメ「未来少年コナン」を監督

1978年、宮崎駿は「未来少年コナン」の演出を務めました。しかし、実際には宮崎駿が1人で現場を仕切っており、事実上の監督として「未来少年コナン」の制作を行っていたのです。

毎週放送があるテレビアニメの制作スケジュールは非常に厳しいものでした。その中で、彼はストーリーボードや設定、キャラクターデザイン、メカデザインを全て担当した上で大半の絵コンテやレイアウトを描いており、さらにスタッフの作業を全て1人でチェックしていました。

彼の凄まじい作業量は次作「ルパン三世 カリオストロの城」にも反映されています。驚くことに、彼は監督としてわずか4か月半の期間で100分間の長編アニメ映画を制作したのです。また、この頃に彼は月刊雑誌アニメージュの副編集長だった鈴木敏夫に出会っています。

宮崎駿原作の「風の谷のナウシカ」がアニメ映画化

「風の谷のナウシカ」の舞台となったウクライナ・クリミア半島の腐海
出典:スタジオジブリ – Wikipedia

1982年、宮崎駿はアニメージュの誌上において、SFファンタジー漫画「風の谷のナウシカ」の連載を開始しました。その後、この作品は多くのアニメファンからの支持を集めるようになっていったのです。

そして、1984年にトップクラフト制作のアニメ映画「風の谷のナウシカ」が公開されました。この映画を制作する際、原作者である宮崎駿は監督と脚本を務めています。

また、「風の谷のナウシカ」が持つ世界観は、1970年代から1980年代にかけて巻き起こったエコロジーブームとマッチして大きな話題となりました。その結果、この作品はアニメ作家としての宮崎駿が有名となるきっかけとなったのです。

1985年 – 44歳「スタジオジブリ設立」

スタジオジブリで多くの名作アニメが誕生した

長編アニメ「天空の城ラピュタ」を監督

1985年、宮崎駿はアニメージュの出版社である徳間書店の出資を得て、株式会社スタジオジブリを設立しました。これ以降、宮崎駿や高畑勲はスタジオジブリを基盤にアニメ制作を行っていくことになります。

翌年、宮崎駿はスタジオジブリ初の長編アニメ「天空の城ラピュタ」を制作。その後、1988年には「となりのトトロ」が公開されましたが、興行成績はあまり伸びませんでした。しかし、この2作は当初から観客満足度は非常に高く、次第に人気を獲得してスタジオジブリの代表作となっていったのです。

そして、1989年に「魔女の宅急便」、1992年に「紅の豚」、1995年「耳をすませば」と続き、名作アニメを次々と生み出していきました。その結果、次第にジブリ作品というブランドが確立されていったのです。

長編アニメ「もののけ姫」が大ヒット

「もののけ姫」の舞台となった屋久島
出典:屋久島 – Wikipedia

1997年、宮崎駿が監督・脚本を務める長編アニメ「もののけ姫」が公開されました。この作品は、当時の日本国内における興行収入記録を更新するほどの大ヒット作となったのです。

「もののけ姫」は、16年に及ぶ構想と3年間という制作期間によって完成しました。そして、本格的な作品として仕上げるために、宮崎駿らは5泊6日でモデルとなった屋久島にも行っています。そのような過程を経て、「もののけ姫」はスタジオジブリ史上最大の制作費が投入された大作映画となったのです。

その後、宮崎駿は一時的にスタジオジブリを退社し、スタジオジブリの近隣にオフィス兼アトリエである「豚屋」を設立して若手の人材育成を始めます。そして、翌年にはスタジオジブリに所長として復帰し、次回作の制作を開始したのです。

2001年 – 60歳「長編アニメが海外でも大ヒット」

アカデミー賞を受賞した際に贈呈されるオスカー像
出典:アカデミー賞 – Wikipedia

長編アニメ「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞を受賞

2001年、宮崎駿が監督・脚本を務めた「千と千尋の神隠し」が公開されました。この作品は、当時の日本における興行収入記録を塗り替える大ヒット映画となったのです。

そして、「千と千尋の神隠し」はアメリカやロシア、ヨーロッパ各国でも放映されており、海外でも高い評価を受けました。その結果、ベルリン国際映画祭ではアニメ史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞しています。

また、2002年に宮崎駿が脚本を務めた「耳をすませば」の外伝作である長編アニメ「猫の恩返し」が公開されました。この作品において、宮崎駿は企画のみの参加となっています。

長編アニメ「ハウルの動く城」が様々な国際的な賞を受賞

主人公・ハウルを演じて話題となった木村拓哉
出典:木村拓哉 – Wikipedia

2004年、宮崎駿が監督・脚本を務める「ハウルの動く城」が公開されます。この作品は、元々は細田守が監督する予定でしたが、企画が倒れて宮崎駿が後を継ぎました。

「ハウルの動く城」は、当時の観客動員数と興行収入において、歴代最高のオープニングを記録しました。そして、日本国内だけでなく海外でも高い評価を受け、ヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞やニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞。さらに、「千と千尋の神隠し」に続いてアカデミー賞にもノミネートされました。

2012年 – 71歳「文化功労者に選ばれる」

宮崎駿は黒澤明と並ぶ世界的な映画監督となった
出典:黒澤明 – Wikipedia

長編映画製作から引退することを宣言

2012年、文部科学大臣による選考の末、宮崎駿は文化功労者に選ばれました。しかし、翌年に公開された長編アニメ「風立ちぬ」を最後とし、彼は長編映画の制作から引退することを正式に発表したのです。

その後、宮崎駿は漫画の執筆や三鷹の森ジブリ美術館の展示企画、短編アニメの制作などに取り組んでいきます。そして、2014年に日本人としては映画監督・黒澤明以来の2人目であるアカデミー名誉賞を受賞しました。

引退宣言を撤回し、新作を発表

宮崎駿はアニメ映画の制作を続ける

2016年、NHKで特別番組「終わらない人 宮崎駿」が放送されました。そして、その番組内において、宮崎駿が長編映画の制作現場に復帰していたことが明らかとなったのです。

その後、早稲田大学で開催されたイベントにおいて、吉野源三郎が原作の「君たちはどう生きるか」を長編アニメ映画化することが正式に発表されました。

この頃、引退宣言と撤回を繰り返していることについて問われた宮崎駿は、自分は引退中であり、引退しながらアニメ制作を行っていると答えています。

宮崎駿の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

宮崎駿の雑想ノート

この本は、宮崎駿のミリタリー趣味が凝縮されたマンガ集であり、航空機や戦艦などにまつわるマニアックなエピソードが多く含まれています。

宮崎駿の雑学や妄想が入り交じった13話にわたる物語と、丁寧に描かれた航空機などについて細かい説明文や注釈が描き込まれており、読んでいると彼の世界観に引き込まれてしまう1冊です。

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)

この本は、長編アニメ映画「風の谷のナウシカ」の原作となった全7巻のシリーズの第1巻です。現代の日本が生んだ世界的な巨匠の1人である宮崎駿による、アニメでは描ききれなかった彼の哲学が描かれています。この作品は、 彼が尊敬し、批判したこともあった手塚治虫に匹敵するレベルの大作です。

実は、映画化されているのは第1巻の途中までであり、全てが映画で表現されていたわけではありません。そのため、この書籍は「風の谷のナウシカ」の全貌を知るには必見のシリーズです。

天才の思考 高畑勲と宮崎駿 (文春新書)

この本では、高畑勲と宮崎駿という2人の天才を如何にコントロールし、制作中や完成した後の作品をどのようにして世の中に送り出すのかという点を、鈴木敏夫の視点から読むことができます。

「天空の城ラピュタ」の構想段階の話や、「となりのトトロ」が「火垂るの墓」と同時上映された理由など、制作スタッフしか知らないスタジオジブリの作品の裏側を知ることができるため、ファンにはたまらない内容となっています。読むと今よりもジブリを楽しめるようになるオススメの1冊です。

宮崎駿のおすすめ本12選【ジブリ作品から自伝・伝記、まで】

関連外部リンク

宮崎駿についてのまとめ

今回は宮崎駿について解説しました。

宮崎駿は若い頃よりアニメ作家としての才能を開花させ、アニメ業界の発展に貢献してきました。そして、日本を代表するアニメ制作会社であるスタジオジブリを設立し、全世界の子供たちに向けた素晴らしい作品を生み出し続けているのです。

この記事では宮崎駿について、人物像や生涯、功績などについて紹介しましたが、彼と共にアニメ業界の発展に大きな影響を与えた高畑勲監督について調べれば、アニメの歴史についてより深く知ることができるでしょう。

それでは長い時間お付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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